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鬼ごっこは得意中の得意だ。
男の子にも負けたことなどない。──いや。正確には、捕まりそうになるといつも蹴り飛ばして逃げていた。
マシェリはとにかく、いつも最後まで逃げおおせていたのだ。
(今回だって逃げ切ってみせる)
「そろそろ限界じゃないのか? 小娘」
全力で走るマシェリの肩に、ついて来ていた白フクロウがフワリと留まる。
「心配は無用ですわ。ウィズリー様こそ、わたくしたちの道案内なんかして、魔王様に叱られませんの?」
「かまわん。管理者とはあくまで公正な立場。我が主とはいえ、この昏き森での理不尽な行いは看過できんからな。──来たぞ、水竜皇子! 魔王様の紅蓮の劫火だ」
「その名で呼ぶなって言ってるだろ!」
振り向きざま、グレンは剣を高くかまえた。
魔力をまとわせた刀身を振り下ろすと、道幅いっぱいに押し寄せてきた炎を、地面からせり上がった氷の壁がはじく。
続いて、巨大な氷柱が次々と道に突き立ち、残った炎を押し潰す。その地響きが、周囲の木々を揺らした。
「ひゅーぅ、さすがはあのヴェラドフォルクの子孫だな。人の子の血が混じっていても、魔力量がケタ違いだ」
「これでもまだ全開じゃない。満月が隠れてなければ、魔王と対峙してやるところなんだが」
走り出しながら剣をおさめ、グレンはマシェリの手をとった。
「ひとの妻に求婚するなんて不埒な奴だ。斬り捨てて、剣の錆にしてくれる」
「でも……魔王様は、本当にこれで結婚を申し込んでるつもりなんですの? わたくし、命を狙われてるとしか思えないんですけれど」
「狙われてるのは水竜皇子だけだ。お前さん目掛けて落ちてくる雷は、殺すためではなく花嫁として攫うためのもの。残念ながら、めちゃくちゃ本気だぞ。魔王様は」
マシェリはため息をついた。好色な皇帝に、幼女趣味の魔王。──この二人が統べる世界の未来を、憂いずにはいられない。
「オ嫁サン! 魔王様のオ嫁サン! 返セ!」
「誰が魔王の花嫁だ。口を慎まないと、剣で串刺しにするぞ。ハリス」
鋭く睨んだグレンの瞳が、蒼く変化する。
雲が切れ、月光が森を明るく照らしはじめると、道の先にある分かれ道が見えた。
左右の道の入り口は、棘のびっしり付いた茨のアーチ。
やっとここまで辿り着いた。
ホッとしながら足を止めると、グレンが振り返り、ゴロゴロと雷鳴轟く空を見上げる。
「……マシェリ。君の魔力を僕に貸して」
「え? わ、わたくしの?」
「僕の手に左手で触れるんだ。満月のある今、ここらで一気にカタをつけたい」
首元の翡翠色の鱗が、月の光を反射して煌めく。
グレンが鞘から抜いた剣はすでに魔力を纏い、蒼色へと変化していた。
「お前さんも相当本気だな。……我が主を殺すなよ、水竜皇子」
「残念だが、その保証はいたしかねる」
剣を握るグレンの手に、マシェリは左手をそっと重ねた。
そのとたん、手の甲に〝蒼竜紋〟が浮かび上がる。
(力が……! 全部吸い取られていくみたい)
全身の血液が左手に流れ込むような感覚に襲われ、背筋が寒くなったマシェリはグレンをちらりと見た。
視線に気付いたらしい、端正な顔立ちの少年が悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「震えてるね。もしかして、怖いの? マシェリ」
「まさか。わたくしは、テラナ公国で一番気の強い女ですのよ? 幼女に目のくらんだ魔王など、敵ではございませんわ」
「……お前さん、今は女と言うより幼女だがな」
夜空の黒い雲が一瞬光る。
周囲の木々を燃やしながら、雷光が真っ直ぐマシェリへと向かってきた。
「ごめんなさい、魔王様! その求婚、わたくし丁重にお断りいたします!!」
蒼色に光り輝く剣を、ふたり一緒に振り下ろす。
地面から突き出てきた氷山が、森の木をなぎ払いながら雪崩のように進み、雷光と衝突。その瞬間、辺り一面に竜巻のような風が吹き荒れた。
半分ほど氷山を砕いたところで、雷と風がピタリと止む。
「やけに静かになったな。……まさか、魔王殺しちゃった? マシェリ」
「な、何でわたくしが? ──やったとしたら殿下でしょう!」
「馬鹿もの。魔王様がそんな簡単に倒されるか。……おそらく、小娘に求婚を断られたショックのせいじゃろ」
分かれ道の真ん中にある、矢印の看板にウィズリーが留まり、左側にくるんと動かす。
「よし。『檻』への道を開いてやったから、さっさと行け。魔王様が立ち直る前に」
「……なにか、ちょっと引っかかるものの言い方だな」
「深く追及するのはよしましょう。……それより、ずいぶんと暗い道ですのね」
茨のアーチを覗き込んでみると、僅かな光すらない真っ暗闇。
木が密集しすぎていて、重なり合った葉に月光が遮られているらしい。
「だから案内役がいるんだ。ハリス、昏き森の管理者ウィズリーの名に於いてお前に命ずる。炬火となり、ここにいる人の子ふたりを『檻』まで無事に送り届けろ」
「ハーイ。ウィズリー様ノ命令、ゼッタイ。ハリス炬火ヤル」
矢印に舞い降りてきた鴉似の魔物が、翼を大きく広げる。
目の前に丸い炎が現れると、ハリスはそれを咥え、あろうことか──ごくんと呑み込んでしまった。
「炎を⁉︎ この子、まさか寝ぼけてるんじゃありませんわよね?」
「黙って見ておれ。すべての羽根を炎で覆い尽くすこいつの炬火は、森に棲む魔物の中で超一級だ。この道でも、躓くことなく歩けるぞ」
「へえ。……まるで火の鳥だな」
感心したように呟くグレンの脇を、炎に包まれたハリスが横切り、マシェリのもとへ飛んでくる。
咄嗟にグレンが剣に手を伸ばすと、ウィズリーが翼を広げて制した。
「慌てるな水竜皇子。命令を受けた今のあいつは、わたしの忠実なる臣下だ。危険はない」
「ウィズリー。お前……本当に、ただの森の管理者なのか?」
「無論。しかし、魔界は常に人手不足でな。私の仕事もひとつだけではない、とだけ言っておこう」
ふっと赤い眼を細めた白フクロウが、バサバサと空へ向かって羽ばたいていく。
「達者でな、水竜皇子と小娘。二年後、神殿でまた会おう」
「……正直、式場変更したいところだがな」
夜空を見上げてぼそりと呟き、グレンは口端を上げた。
「ウィズリー様、城で魔王様に怒られたりしないかしら」
「大丈夫だろ。ああ見えて、ウィズリーはたぶん魔王の……」
こちらを振り向いたグレンが言葉を切る。
マシェリの肩には、体と炎を小さくしたハリスがちょこんと乗っかっていた。
「オ嫁サン……イイ匂イ。ハリス、オ嫁サン好キ」
「もう手懐けちゃったのか。さすがは僕のお嫁さんだ」
「からかわないでくださいませ。たぶん、さっきこの子に見せた花のせいですわ。……ほら」
マシェリはポケットから出した赤い花束をハリスの鼻先に寄せた。
匂いを嗅がせたとたん、ぐらぐらと左右に体が傾く。
「この様子……まさかこの花、媚薬の効果があるんじゃないだろうな」
「それはありませんわ。だって、もしこれが媚薬なら、魔王様からのプロポーズを断ったりできなかったはずですもの」
とはいえ、当のハリスはトロンとした眼でうつらうつらしていて、普通の様子ではない。
睡眠薬か何かだろうか? 眉根を寄せて観察していたマシェリはふと──父のことを思い出した。
以前、ワインを呑みすぎた父がこれとよく似た動きをしていたような。
(もしかして、酔っ払ってる?)
「媚薬が効けば断れない……。そうか」
「何をぶつぶつ言ってますの? そんなことより、この花は」
「マシェリ」
グレンが、マシェリの手を両手できゅっと握り締める。
「人界に帰ったら、僕と初夜を迎えよう」
魔界の森にばちーん、と派手な平手打ちの音が響き渡った。
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