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(すっかり拗ねてしまったわ……どうしましょう)
グレンが草を踏むサクサクという音が、やけに大きく感じる。
一応手は繋いでるものの、いつものように握ってこない。指先も、ひんやり冷たい。
「殿下……ごめんなさい」
「何であやまるの。君は何も悪くないのに」
「だって気にしてらしたんでしょう? 背の高さのこと。でもわたくしは殿下のふたつ年上ですし、これくらいの年齢の子は男より女のほうが発育が──」
「つまり僕がチビだって言いたいんだな。……君の気持ちはよく分かった。帰ったら、僕たちの関係を考え直そう」
マシェリはぴたりと足を止め、グレンの手を放した。
「……なんですの? それ」
自分を置き去りにして、スタスタと先へ行くグレンの背中を睨む。この皇子様、中身まで子どもに変わってしまったのではないか。
「婚約を考え直すってことですか? こんなことぐらいで? わたくし、そんなの絶対に認めませんわよ!」
「……だからだよ」
「え?」
「君がそんな風だから、僕たちは一度離れるべきだと思った」
「……どういう意味ですの?」
グレンが立ち止まり、満月の光の下で振り返る。
「未完成でも効果があるなんて知らなかったんだ。……謝らなくちゃいけないのは僕のほうなんだよ、マシェリ」
淡々と語りながら、伏せ気味にした蒼い瞳が哀しげに揺れていた。
「未完成とか謝るとか、一体何の話なんです?」
「許さなくていいから聞いてくれ。実はあの魔法の靴は──」
「けしからんな。こんな夜ふけに子どもたちだけで外出など」
急に耳元でバサバサと羽根音が聞こえ、マシェリは瞑目した。サラより遥かに重量感のある、真っ白いフクロウが肩に留まっている。
「私はウィズリー。魔王城の外苑、昏き森の管理者だ。お前さんたちは人の子のようだが、一体どうやってこの森に入った? 返答次第では、この耳噛みちぎってやるぞ」
「ふ、フクロウが喋った……!」
「人間の小娘ごときが、失礼な口をきくな。私はフクロウなどではない。魔王の忠実なる下僕だ」
「なるほど。つまり、お前は魔物か」
グレンが突きつけた剣先を、ウィズリーは微動だにせず赤い眼で一瞥した。
「ふぅむ。お前さんからは、微かに魔物の匂いがするな。それにその翡翠色の鱗……さては、人界で水竜がこさえた半竜の子孫か」
「僕はフランジア帝国皇太子、グレン・ド=フランジアだ。そして彼女は、テラナ公国のマシェリ・クロフォード。……僕の大切な婚約者だ。乱暴すれば容赦しない」
「殿下……」
「なるほど、なるほど。よおぉく分かった。だからここへ来れたんだな。納得した。しかし、お前さんたちは見たところまだ子どもだし、婚姻の儀を行うにしては時期尚早じゃないのか?」
「「婚姻の儀?」」
きれいにハモって、思わずグレンと顔を見合わせる。
「蒼き竜の紋章と魔力をもって神殿の扉を開き、ここに辿り着いたのだろう? ここで少し待っておれ。今、案内役を連れてくる」
マシェリの肩からふわりと飛び立ったウィズリーが、数羽の鴉が留まっている木の枝に向かって飛び立つ。そのとたん、鴉の眼が大きく見開き、赤く光った。
この、鴉のような者たちもすべて魔物だ。
不自然にザワザワと音を立てはじめる周囲の木々や、茂みからも刺すような視線を感じる。珍しく恐怖を感じたマシェリは、グレンの腕に手を伸ばし──一瞬、ためらう。
(拒絶されてしまうかもしれない)
きゅっと握って、戻しかけた手をグレンが掴んだ。
「怖いんでしょ。チビで悪いけど、ぬいぐるみとでも思って僕に抱きついていればいいよ」
「べっ、別に怖くなんてありません。わたくしは立派な大人の女性ですのよ? ぬいぐるみを抱いたりなんか」
「大人なら、夫とでも思えばいい。──ほら」
差し出された少し細い腕に、赤い顔でおずおずとしがみつく。するとグレンがぷっと吹き出し、楽しげに笑った。……完全に面白がっている。
口を尖らせてプイッと顔をそむけると、再び肩に留まったウィズリーと視線が合う。
「きゃっ!」
「いちいち反応が失礼な小娘だな。痴話喧嘩は終わったか? 待ちくたびれたぞ」
「待っててくれなんて頼んだ覚えはないんだが」
「なんだと。そんな言い方をするなら、もう助けてやらんぞ。不愉快だ」
「助ける?」
そろりと横を見ると、ウィズリーが細めた赤い眼が光っている。
「案内役が報せを受けていなかった。……水竜皇子。お前さんたち、無許可で魔界に入って来たのだろう。不法入国者は本来、牢獄行きだからな」
「その呼び方はよせ。……神殿の扉が魔本だとは知らなかったし、ここへ来たのは友人を探すためで、いわば事故みたいなものだ。裁かれる謂れはない」
「友人? そいつも人の子か?」
かくん、とウィズリーが首を傾げる。ユーモラスな動きだが、この森の中で見るとただただ不気味だ。
「精霊なんです。黒い仔猫の姿をした、影猫ですわ。わたくしたちより少し前、魔本に入ってしまったんです」
「なるほど、なるほど。しかし、そいつはこの森にはおらんぞ。たぶん、通常の『檻』に入ったはずだ。お前さんたちとは別のルートを通ってな」
「別のルート?」
「神殿の扉ではない、要するに一般ルートだ。この道の先の別れ道を左に行けば、その『檻』に辿り着く。案内役が欲しいなら、そこの枝から適当に選んでいけ」
ウィズリーが翼を広げ、さっき見た鴉たちを指し示す。えええええ、とたじろぐマシェリを尻目にグレンがジロジロと鴉たちを物色しだした。
「で、殿下……。まさか、連れて行く気なんですの? その鴉」
「うん。土地勘がある魔物の案内があったほうが、なにかと心強いでしょ。……それにしても迷うな。みな羽根がつやつやしてるし、いったい何食べたらこうなるんだ?」
「……」
眼を真ん丸くして黙り込む、ウィズリーを見てマシェリは青くなった。
「わ、わ、わたくしは美味しくありませんわよ? そりゃ、確かに子どもの肉は大人に比べて柔らかいし、突っつきやすいでしょうけれども!」
「魔物は人間を食べたりしないよ、マシェリ。もし平和条約を破ったら、魔王が怖いだろうからね」
「魔王様はとても優しく、慈悲深い御方だ。人も魔物も、むやみに処刑したりはせん。……だからこそ、我らも人の子に手を出したりはしないのだ。魔王様を困らせたくはないからな」
神妙な顔でしみじみ語る白フクロウを、マシェリは目をぱちくりさせて見た。優しい魔王、というものが全く想像できない。
それは、この世で一番ちぐはぐな言葉の組み合わせのような気がした。
(魔物を膝にのせたり、撫でて愛でたりするのかしら? それとも、手作りのごはんを食べさせてあげるとか?)
「よし、こいつにしよう。……ウィズリー」
グレンが一羽の鴉を指差す。
「さすがに見る目があるな、水竜皇子。そいつはこの森の偵察部隊の隊長だ。──ハリス。眠そうにしてるところを悪いが、ここにいる人の子たちを『檻』に案内してやってくれないか」
「……眠イ。魔王サマ、モウソロソロ、オ休ミ?」
「魔王様は城で仕事中だ。お前は、ごはんを食べ過ぎたから眠いだけだろう。腹ごなしのためにも行ってこい」
「ハーイ。……ワッ! 赤毛! 赤毛ノ女ノ子ダ。可愛イ」
木から飛び立った鴉が、まっすぐマシェリに向かって来る。人界で見る鴉よりもひとまわりほど大きく、額の一部分だけが白い。
「女ノ子‼︎ 一緒ニ『檻』行ク!」
「きゃあっ!」
頭を抱えてしゃがみ込んだマシェリに、鴉が鋭い爪を向けてくる。──次の瞬間、森の木々が波打つように揺れた。
翼を広げた鴉が、強く吹き上げた風に煽られ、あっという間に夜空の彼方へ消えていく。
「……前言撤回。あいつは女癖が悪いのをすっかり忘れとった。大丈夫か、小娘」
「え、ええ。ちょっと驚いただけですわ。わたくしは大丈──」
目の前でポンッと弾けた煙に驚き、言葉を切る。
マシェリの膝の上に落ちてきたのは、小さな赤い花束だった。