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突然の大公来訪から数日後。クロフォード伯爵家に一人の使者が訪れた。
黒馬車に紅色の軍服。嫌な予感しかしない組み合わせである。
「大公閣下より書状をお預かりして参りました。どうぞお受け取りください、マシェリ様」
「お断り致しますわ」
マシェリが笑顔で閉めかけたドアを、母がガシッと掴んで止める。受け取りのサインに応じてしまえば、もう突き返すことはできない。
(いや……受け取らないのがそもそも無理か)
何しろ大公からの書状、つまりは命令である。この公国で暮らす限りは平民だろうが伯爵家令嬢だろうが、誰もそれには逆らえない。
マシェリはがっくりと肩を落とし、父の待ちうける応接室へと向かった。
「大公命令では仕方ないね。しかしまあ、ずいぶんと不名誉な理由で選ばれたものだ」
人当たりのいい笑顔のままで、嫌味たっぷりに父が言う。紅茶を一口含み、長い足を組み直すと、大仰にため息を吐いた。
「申し訳ありません、お父様」
「まったく。お前ときたらダグラス侯爵の手管にまんまと乗せられて啖呵を切って。そんな風に浅はかだから市場でも上手く駆け引きできないんだよ」
「……」
ぐうの音も出ない。安く買い叩こうとする業者に噛みつくばかりで、交渉の仕方に進歩がないと窘められたばかりだった。
「しかしまあ、嘆いていても仕方がない。まずは書状の確認をしようか」
「はい。……あ、お父様。レオストから荷は届いてました? そろそろ着く頃だと聞いてたんですけれど」
「オイルの抽出機の事かい? ああ、その事も含めて建設的な話をしよう。お茶のおかわりを頼む」
「はい」
侍女が出ていくと、父はドアの鍵を閉めた。
「あれはマリアの手先だからな。しばらくの間閉め出しとこう」
「でもお母様、お茶会へ行くと言ってさっき支度してましたけど」
「その茶会でわたし達の話をネタにする気なんだ。……見ろ、まだ馬車がある」
窓を覗くと父の言う通り、生垣越しに停まっている馬車が見えた。
「本当だわ。で、でもわたくし達の話って一体何を」
「どんなに中身がアレでも相手は帝国の皇太子だ。娘が妃候補に選ばれたんだと吹聴して回りたくて仕方ないのさ。わたしには分かる、マリアはそういう女なんだ……!」
のろけをやや混ぜながら妻の生態を正確に分析し、さて、と父が書状に向き直す。
顎に手をあてがい、じっくりと書状に目を通す姿は城の財務官だった当時を彷彿とさせた。跳ね橋の補修に予算を惜しまない一方で、嗜好品の購入には厳しい基準を設けるなど、父の公金の使い方は大胆かつ、堅実だった。穏やかそうな見た目ながら、時には議論で宰相をも説き伏せる。相当な切れ者の父は、大雑把だった先代が領地経営でこしらえた借金も、爵位を継いだ後わずか数年で完済したらしい。
マシェリはそんな父を尊敬し、長子として仕事の下支えとなるべく努力を重ねてきた。しかし十六という年齢は、貴族の令嬢の結婚適齢期でもある。そろそろ、別の方向で家の役に立たねばならない。
(婿養子として迎えるなら、同じ伯爵家か侯爵家の二男、三男あたりが狙い目なのだけれど、皆もう婚約者がいらっしゃるのよね。ああ、アディルがせめて男爵位でも持っててくれたらよかったのに!)
どんなに好みでも、平民とは結婚できない。皇子様との結婚も難しい。堅実さを好む父が最も嫌うのが、分不相応という言葉だった。
(まあ、万が一にも妃に選ばれる事はないでしょうけれど)
「うん、条件は割とまともだな。これならなんとかなりそうだ」
「……何のお話ですか?」
訝しんで尋ねるマシェリに、父はにっこりと微笑んだ。うわ、と思わず頰を引きつらせる。これはもう完璧に、ろくでもない策略を思いついた時の顔だ。
「水脈の開放がかかってるからねえ。フランジアへの貢ぎ物であるお前には、多額の褒賞金が出るんだよ。財務官時代にわたしが作った基準よりやや多めなのが気になるが、それはそれだ」
「褒賞金、ですか。妃候補というだけで?」
「それが皇帝のご意向だから構わないんだろ。──で。わたしの本題はここからだよ、マシェリ」
「はい」
マシェリはソファにきちんと座り直した。父が満足げに眼鏡の奥の目を細める。
「結構。いいかい、マシェリ。例のレオストから取り寄せた抽出機なんだが、あれ結構値が張ってね。お前が想定してた額の二倍くらいの支払いになった」
「ええ⁉︎ で、でも、業者は予算よりもずっと安い金額を提示していましたのよ?」
「それはあくまで本体価格だ。お前は本当に、相変わらず詰めが甘いというか。もしや、商品がひとりでにここまで歩いてくるとでも思ってたのかい?」
「……まさか、送料?」
「そのまさかだ。とりあえずわたしが全額支払っておいたが、差額はお前に払ってもらうよ。ちょうど褒賞金も出ることだしね。──それでも足りない分については」
父が書状をスッと向かいのマシェリに差し出す。
お茶会やら夜会やらで散々耳にしている、帝国の皇太子についての釣書が目に入った。グレン・ド=フランジア十四歳。黒髪に漆黒の瞳──と見ていき、身長が十八歳のアディルと大差ないのに驚く。やたら発育良好な皇子様である。
あとはほぼ噂通りだ。見目が大変麗しく、剣術が達者で、十二から国政に携わるほど聡明な上、弁も立つ。文武両道、質実剛健。絵に描いたような優良物件でどこにも隙がない。
これだけの逸材で、しかも帝国の皇位継承者。普通なら引く手あまたで、とうに婚約者がいてもおかしくはない歳である。
(妃候補すらひとりもいなかったのよね。浮いた話も一度もないし……)
そのせいか、噂には釣書にない『女嫌い』の尾ひれが付いた。
『一人っ子な上、他に皇位継承者もいないんだもの。帝国は今、大変らしいわよー?』と、ため息まじりに語っていたのは、テラナ公国で噂をばら撒いた張本人、母のマリアだった。
生来の明るさと洗練された社交術をもって、夜会やお茶会に出席しまくっている母は、人脈を広げる事で陰ながら父の領地経営を手助けしている。
それはいい。だが時々根拠のない噂話を吹聴してまわるクセがあるので、マシェリも父も、最近少し閉口気味だった。
そこへきて、今回の妃候補の命令である。
母の因果がブーメランとなり、娘のマシェリに突き刺さった気がしなくもなかった。
(でも、ダグラス侯爵に楯突いたのはわたくしですものね)
過ぎた事をいつまで言っても仕方ない。父が示す釣書の下の文に目を通していたマシェリは、最後の一文に引っかかった。指先でなぞりながら二度見したのち、のろのろと視線を上に向ける。
神父ばりの笑みを浮かべる父を半眼で見つめたのは、決して後光が眩しいせいではなかった。
「……もしかしてこれですか? お父様」
「さすがわたしの娘だ、いい勘してるねえ。そう、それだ。二週間後、妃候補として皇城へ挨拶しに行くだろう? その日から水脈が開放されるまでの一週間、皇太子に城から追い出されることなく城内に居続けられれば、追加で結構な額の褒賞金が出るらしいんだよ」
「らしいって、お父様がお決めになった事ではありませんの? これ」
「まさか。わたしは褒賞金にそんな予算をばんばん出させたりしないよ。それの出所はおそらくフランジア帝国側だ」
ここへきて、マシェリはようやく色々な事に合点がいった。
水脈の開放と引き換えに皇帝が所望した、テラナ公国で一番気の強い女。そして、たった一週間城に留まるだけで貰えるという多額の褒賞金。
(ただの皇帝の戯れじゃない、ということか)