20
「もう十分困ってますわよ。キッチンでいきなり剣を振り回すんですもの」
鍋いっぱいの苺に砂糖を振りかけながら、マシェリは横目でグレンをにらんだ。
「僕は謝らないよ。だってあれは鴉が悪い」
「俺の妻に手を出すな、ってことですよね! やだー、素敵。きゅんときちゃう」
「静かにしなさい、ベル。──マシェリ様、こっちの鍋にも砂糖、入れてもらってよろしいですか?」
「それは俺がやるよ。それより姫。柑橘類はマーマレードとジャム、どっちにするんだ?」
砂糖の袋を抱え上げながらガレスが言う。
なかなか難しい問題だ。マシェリは木べらを手に「ふむ」と考えこんだ。
個人的にはマーマレードのほうが好きだが、刻んだ皮も使うため、ジャムより時間も手間も多くかかる。
時間がない今、適してるのはジャムだろう。だが、マシェリにはひとつだけ確認しておきたいことがあった。
「皇妃様は、どちらを作ってらしたのかしら」
「調べればたぶん分かるとは思いますが……。まさかマシェリ様、作ったジャムを孤児院に寄付するおつもりですか?」
「そのまさかよ。どうせ宮殿の保管庫はいっぱいなんだし、そうでなくても素人が作ったジャムなんか、宮殿では使ってもらえないでしょう。だったら、必要としているところへ届けてあげるべきではなくて?」
クロフォード伯爵家でも、事業で得た利益の一部は慈善事業にあてていた。公金で購入したものなら尚のこと、国の社会的弱者にまず回すのが正しい活かし方だろう。
財務官時代の父ならきっとそうしていたはずだ。
(もっとも、お父様は賄賂なんて受け取ったりしないでしょうけど)
「マシェリ様のお気持ちは分かりました。ではわたしはちょっと失礼して、ビビアン様の所へ行って参ります。たしか、バザーや孤児院についての記録をお待ちだったと思いますので」
「お願いしますわ、ユーリィ様」
ランプを手に礼拝堂を出て行くユーリィを見送ると、マシェリは首を横に振り、脳裏に浮かぶ黒い顔を消し去った。──ここで抹殺しておかねば、きっと悪夢で蘇る。
キッチンに戻ると、手にしたオレンジをグレンがじっと見つめていた。
「せめて僕が覚えてれば良かったんだけどね。……亡くなってからずっと、母上のことは思い出さないようにしてたから」
「殿下……」
マシェリは棚の瓶をひとつ取り、グレンに差し出した。
「苺はわたくしが煮詰めますから、殿下はこれを煮沸消毒してくださいませ。ジャムをすぐに詰められるように」
「ジャム作りの方が面白そうなのに」
「残念ですがそれはダメです。ジャムを焦がさないよう鍋で煮詰めるのは、けっこう大変なんですのよ」
下手をすれば全滅だ。苺のヘタ取りのようにふざけられては、お話にならない。
(こういう子どもっぽいところは、陛下に似てなくもない……ような)
そのふたりの相手をしていたのか。今は亡き皇妃の偉大さを、マシェリはつくづく感じた。
「火加減なら大丈夫ですよ。わたしがちゃんとコレで調節できます」
ターシャがにっこり微笑む。
さっき見たのと同じ赤い魔石が、ちょこんと手のひらに乗っかっていた。
「魔法でそんな事もできるの? 便利ね」
「ええ。ですからポットからお風呂のお湯に至るまで、いつでも適温にして差し上げられます」
そう言って胸を張る。いかにもベテラン侍女らしい。
「そう言えば、ターシャはルシンキ出身だったか。……ちょっと、その魔石貸してもらえる?」
「え⁉︎ はっ、はい」
「それ、どうなさいますの? 殿下」
コンロの釜の前で屈むグレンに歩み寄ると、左手を掴まれた。
「おいでマシェリ。君に魔法を教えてあげる」
「……魔法?」
きょとんとしたマシェリの手のひらに、グレンが赤い石をのせる。
ほんのり温かく、生き物のように脈打っているその魔石は、表面がつるりと滑らかで、先の尖った三角形をしていた。
(もしかして、魔物の牙か爪の化石かしら)
小首を傾げつつ屈みこむと、グレンが顔を覗きこんでくる。
「嬉しさのあまり、ついうっかり説明し忘れてたんだけど、君は蒼竜石の祝福を受けて、魔力を持ってるはずなんだ」
「そんな大切な事、うっかり忘れないでくださいませ。……というか、殿下はそこまで嬉しかったんですか? わたくしとの婚約が」
「それはもう。気分が高揚して、今なら水竜だって討ち倒せると思ったほどだよ。残念ながら、ルディに止められちゃったけど」
そう言って肩を竦めるグレンに、マシェリは呆れた。
「止められて当然でしょう。水竜のケルトはフランジア帝国にとって、神獣と呼んでもいいほどの存在じゃありませんか。それを斬り捨てるだなんて」
「僕は水竜を崇拝なんかしてない」
鋭く遮る声に、思わずマシェリは息を呑んだ。
「自分がその血を受け継いでる事も、正直あんまり嬉しくない。……ただ、さっきみたいに君が喜んでくれるなら、魔力を使えるのも悪くはないと思うけど」
「……責任重大ですわね、わたくし」
「火を調節するだけだから平気だよ。──その魔石を握って、蝋燭の炎を頭に思い浮かべてごらん」
(そういう意味じゃないのだけれど)
婚約者の機嫌ひとつで、神獣との一騎討ちを始めるのだけはやめてほしい。
マシェリは淑女の笑みを固持しつつ、赤い魔石を握り締めた。
「手の中が少し熱くなったら、すぐに火の中へ放り込んで。一瞬だけ炎が大きくなるけど、すぐにおさまるはずだから」
「こ、このまま火にくべてしまって、大丈夫なんですの? これ」
「大丈夫。簡単に溶けたり壊れたりはしないから。なにせ、これは火竜の牙の魔石だからね」
魔物の化石が長い年月をかけ、結晶化したのが魔石と呼ばれているものだ。
火竜といえば、鋼のような鱗を纏った火を吐く魔物。現存する竜の中でもっとも魔力が強く、採掘された魔石の価値も高いらしい。
「火を点けるのも調節するのも、魔石なしではできないんですの?」
「わたしは魔力が弱いので無理です。でも、ルシンキ公国の大公閣下は、魔石なしで結界や炎の魔法が使えるそうです。公国で随一の傀儡の使い手でもありますし」
「傀儡?」
「マリオネットと同じようなものだよ。要するに、操り人形の事だ」
「離れた場所から、魔力で人を操るんです。……ところでマシェリ様、石の方は大丈夫ですか?」
ターシャのひと言で、手の中で急激に上がった『熱』に気付く。
「あつっ!」
「──マシェリ?」
慌てて魔石を火の中に放り投げる。
顔色を変え、マシェリの手を掴むグレンのズボンから、蒼く輝く宝石がコロリと落ちた。
「手のひらを見せて。……ああ、やっぱり赤くなってる」
「! 殿下、その石は……」
「いいからじっとしてて。火傷なら、氷魔法で応急処置できる」
グレンはマシェリの言葉を遮り、石をポケットに突っ込んだ。
ふたりが手を重ねると、蒼い光と冷たい風が渦巻く。その後わずか数秒ほどで風が消え、手の痛みと熱もひいた。
「これでよし。もう、痛くないでしょう?」
「ええ。……でも殿下、どうして貴方が蒼竜石を持ってるんですの?」
「僕が勝手にやった事だ。だから、君は何も気にしなくていい」
グレンは漆黒の瞳を細め、マシェリに優しく笑いかけた。