19
一瞬、その場にいた誰もが凍りついた。
グレンの剣が、ガレスの頬ぎりぎりをかすめる。
「大人しくしててよ鴉。ちょこまかされると、串刺しにできない」
舌打ちし、壁に刺さった剣を抜く。ガレスを睨む切れ長の美しい目は、完璧に据わっていた。
「俺はガレスだっつの! ──大体なんだよ串刺しって。物騒な皇子様だな、まったく!」
「あんまり喋んないでくれる? 焼き鳥にしづらくなるから」
「食う気かよ! ってか、何をそんなに怒ってんだ? 俺はただ、姫のハンカチを借りただけだろうが!」
「……気が変わった。やっぱりお前は消炭にする」
グレンが再び、大きく剣を振りかざす。ガレスが取って構えた大鍋が刃を受け止め、火花が散った。
「残念だがな皇子様。俺は、こういうのには場慣れしてんだ」
傷のある顔でにやりと笑う。
ガレスは手にした鍋で力任せに剣を弾くと、グレンが一歩下がった隙に、マシェリの手を掴んだ。
「! 何をなさいますの?」
「悪いな姫。なにしろ育ちがいいもんだから、こんな命乞いしか思いつかねえ」
背後から首に片腕を巻きつけられ、顎を持ち上げられる。
「剣を下ろしな皇子様。でなきゃ、今ここで姫にキスする」
「は⁉︎ な、なにを」
「その前に殺してやる」
「どうやってだ? 姫ごと斬る気か? ……まったく。あのコーネリア様の息子とは思えない蛮行だな」
グレンの漆黒の瞳が見開く。
「母上の事を知ってるのか?」
「当然だ。カイヤニの路地裏で死にかけてた俺を拾って、孤児院に入れてくれた恩人だからな」
「皇妃様は、国外でもそんなことを?」
「ああ。まるで聖母のような人だった。視察と称して他国へ行っちゃ、家や身よりのない子どもを引き取り、孤児院に入れてくれてたんだ。学校も通わせてもらった。そのおかげで俺も他の連中も、成人後まともな職に就く事ができたんだよ」
(……こめかみの傷は、宿なし生活をしていた時代のものなのだろうか)
煌びやかな花街が多数あるカイヤニ公国では、中央の都市部とその他地域との貧富の差が大きいと聞く。湯水のように金を使う貴族が都市を闊歩している一方、山間部の辺境では明日のパンすらないような貧しい家も少なくない。
そういう家で真っ先に犠牲になるのは、幼い子どもたちだ。僅かな金と引き換えに親に売られるか、最悪、口減らしで捨てられてしまう。
だが、なにもそれはカイヤニ公国に限った話ではない。
六年前、マシェリが攫われた時──馬車に乗せられていた少女たちの大半は、テラナ公国で売られ、遊郭に連れて行かれる途中の『商品』だった。
(あの女の子は今、どうしているだろう)
男に殴られていた少女がひとりいた。頭にきたマシェリはその男を蹴飛ばしたが、薬を嗅がされ眠ってしまったため、その後どうなったのかは分からない。
他の子同様、花街へ連れて行かれてしまったのだろうか? そう思うと、マシェリの胸がちくんと痛んだ。
「ガレス、マシェリ様から今すぐ手を離しなさい」
包丁をガレスの鼻先に向け、ユーリィが青灰色の瞳で睨む。
「殿下も、折檻なら後になさって。そろそろ作業を始めないと、果物が傷んじゃいますから」
「鴉がマシェリを放したら、剣は下ろしてやる。それとハンカチは返せ」
「へいへい。ちょいと残念だが、仕方ないな」
ガレスは腕をゆるめると、鋭い三白眼でマシェリの顔を覗きこんできた。
間近で見るとまだ若く、なかなか整った顔立ちをしている。
「はいよハンカチ。……乱暴してごめんな、姫」
「わたくしは平気です。そんな事より、さっさとジャム作りを始めましょう。殿下も、お手伝いしてくださいますか?」
「もちろん、喜んで」
グレンは素直に頷き、剣を鞘におさめた。
「すごーい。マシェリ様、まるで精霊使いみたい」
「それって殿下が精霊ってこと? 不敬よベル。それと、精霊使いはユーリィ様だから」
「ターシャ、ベル。口ではなく手を動かしなさい。……マシェリ様。この苺、ヘタを取ったら小さく切りますか?」
「切らなくていいわ。時短になるし、何よりその方が美味しいもの」
皆で机に座り、苺のヘタ取りを始めて約三十分後。ふとゴミ袋を覗いてみると、果肉が残ったヘタがいくつかあった。
いったん手を止め、皆の手元に目を凝らす。
すると隣の席の皇子様が、何食わぬ顔で苺を取っては、ヘタを果肉ごとえぐり取っていた。
「殿下……」
「料理ってけっこう楽しいね、マシェリ。くせになりそう」
「そ、それは良かった。……ちなみに、どの辺りがお気に召されたのかしら?」
「苺に爪を食い込ませると、血みたいに赤い果汁がぶしゅって溢れ出るんだ。たまに飛沫が飛ぶとゾクゾクする」
「……」
斬新な感想をのべる皇子様に閉口しつつ、マシェリは水桶で絞ったハンカチを差し出した。
「指先が果汁でベタベタでしょう。これ、差し上げますからご自由にお使いください。どうせガレスの汗で汚れたハンカチですし、捨ててしまっても構いませんから」
「悪かったな、どうせ俺は汚れ役だよ」
「鴉は黙ってて。……くれるのは嬉しいけど、捨てるのはもったいないよ。綺麗な刺繍もしてあるし」
グレンが広げたハンカチには、縁取り刺繍が施されている。数年前、花嫁修行の一環として、家庭教師に習いながらマシェリが仕上げたものだ。
何度も針を刺し直したせいで布地が穴だらけになった上、縫い付けもバラバラ。教師がついにサジを投げ、自分でも諦めた。
女性らしさでは、他の女の子たちには絶対に敵わない。
せめて仕事で勝とうと市場に出向き、業者とやり合ってるうちに、いつの間にか「テラナ公国一気の強い女」になっていた。
「綺麗だなんて。失敗だらけだし、安物の絹ですもの。……こんなもの、殿下には不似合いですわよ」
「僕がもらったんだから、好きにしていいんでしょ? これは大事に使わせてもらうよ」
そう言ってグレンがズボンのポケットにハンカチをねじ込む。
マシェリは、頰の熱を振り払うように顔をそむけた。
「殿下は、わたくしを甘やかしすぎだと思います」
「そうかな。君こそ僕に甘いと思うけど。……苺のヘタ、この取り方で本当に合ってる? マシェリ」
果肉がたっぷり付いたままのヘタをつまみ、ぷらぷらさせながら、グレンが悪戯っぽく笑う。
顔を上げ、マシェリは目をまばたかせた。
「まさか、わたくしを騙したんですか?」
「ただの悪ふざけだよ。……でも、君を困らせてやろうって気持ちはちょっぴりあったかな」
グレンはぺろっと舌を出し、綺麗にヘタを取ってみせた。