16
マシェリが人さらいに遭ったのは、十歳の時だった。
別荘近くの湖で泳ぎ、両親のもとへ戻ろうとしたところを捕まったのだ。「珍しい髪色の女の子は、カイヤニ公国の花街で高く売れる」そう言って男たちは笑った。粗末な馬車の中には、マシェリと同じ年頃の女の子たちが既に数人乗せられていて、皆、縄で縛り上げられていた。
当時から男勝りな令嬢で、おままごとより戦闘ごっこが得意だったマシェリは暴れ、そして──男に薬を嗅がされてしまう。
地面に倒れ朦朧とする意識の中、閉じかけた目でマシェリが見たのは、自分を庇うように立つ男性の後ろ姿だった。
むせかえるような花の香りと、男たちの悲鳴。
その記憶を最後にマシェリの意識は途切れ、目覚めた時には療養所のベッドの上だった。人さらいは全員捕縛され、女の子たちは皆無事に救出されたと、母が小言まじりに教えてくれた。
今でも時折夢に見る。どこからともなく颯爽と現れ、マシェリたちを救ってくれた、あの人の後ろ姿を。
(とはいえ逆光だったし、意識も朦朧としてたから……男性だってことくらいしか分からなかったんだけれど)
自分の盾になってくれた頼もしい背中を見て、錯覚を起こしたに違いない。
半ば強引に納得したマシェリは、ユーリィの肩をぽんと叩いた。
「ありがとうございます、ユーリィ様。……でも、わたくしは平気ですわ」
「マシェリ様」
「あら、意外と聞き分けがいいのね。ほんの少し待たされたくらいで、殿下の執務室に踏み込むくらいだもの。わたしなんか、蹴っ飛ばされると思ってたのに」
鉄仮面の笑顔でフローラが言い放つ。
なるほど、これが嫁姑戦争というやつか。実家で犬と猿みたいにいがみ合っていた母と祖母を思い出し、マシェリはため息をついた。
「マシェリ様に絡むのはおやめ下さい、フローラ様。──それより、さっき陛下に呼び出されたそうですが、果物の件はどうなりました?」
「どうもこうもないわ。ルシンキ公国の使者が、荷馬車いっぱいの果物を持って来たのよ。明日のパーティーにお使いくださいと言ってね」
「ルシンキ公国の? それって、まさか」
「間違いなく賄賂でしょう。殿下の妃候補の件、まだ諦めていないのよ。あそこの大公、本当にしつこいんだから」
イライラした様子で腕組みをすると、フローラは突然キッ、とマシェリを見据えた。
「マシェリ様。貴女は、殿下の婚約者としての自覚をもう少ししっかりとお持ちくださいませ」
「はっ、はい?」
「あの殿下が、初めて妻にとお望みになられたのです。わたしにはどうにも理解し難いですが、貴女にもきっと探せば良いところがあるのでしょう」
「……」
「ならばわたしは、お二人がしあわせになるためのお手伝いに徹するまで。──さあ、ドレスの試着に参りましょうマシェリ様。皇都で一番腕のいい職人に、徹夜で仕立てさせた逸品が待ってますわよ」
手を取り、鉄仮面がにたりと笑う。
マシェリは冷や汗をかいた。その笑顔と、職人が夜鍋して作ったドレスが重すぎる。
(また喉が渇いてきちゃったわ……)
ため息まじりに呟きながら、マシェリはフローラとともに奥の部屋へと入って行った。
◇
◆
「どういうおつもりですか、陛下」
宮廷会議が終わった後の広間で、グレンは父親である皇帝に詰め寄っていた。
二十人ほどが一度に座れる長テーブルには、二人の他にもう誰の姿もない。
「仕入れ済みの果物をすべて廃棄しろなどと……保管庫に入りきらないと言うのなら、ルシンキ公国からの果物を受け取らなければ良かったではありませんか」
「ルシンキの大公が最近、自動点灯式の魔石ランプの試験販売を始めたらしくてな。シャンデリアが多い皇城にとっては朗報だし、これくらいの付き合いは必要だろう」
「魔石ランプ……ですか」
「ああ。だが、それは恐らくついでだ。明日のパーティーに、第三公女のライアを出席させたいそうだ。招待してたのは第二公子の方だったんだがな」
皇帝は机に頬杖をつき、ニヤニヤした顔でグレンを見た。
「ブルーナ公国の招待客が誰かは知りたくないか?」
「……別に。興味ありません」
「知りたくなったらルディに聞け。招待状はあいつに届けさせたからな」
「聞いても答えやしないですよ。ルディは根っからのサディストですから」
半眼で言うグレンを見て、机から立ち上がった皇帝が薄く微笑む。
「そうだな。それについては、わたしも否定できない」
「皇都でもそろそろ噂になってきてます。ついこの間も、荷馬車に隠れて皇城に忍び込もうとした賊を自ら捕縛した挙げ句、塔に引きずっていって折檻したらしいですからね」
「ああ……。うん、それならわたしもベルから聞いた。あの子は、城の事にすごく詳しい。本当に頼りになる」
「ベル? た、確かに、悪い子ではないですけど」
言い淀むグレンに、きょとんとした顔の皇帝がつつ、と近付いて行く。
頰を赤くした息子の顔を覗き込み、ぽんと手を打った。
「そうか。お前はマシェリにオトされたのを気にしてるんだな? だが恥じる事はない。相手は年上なんだし、迫られたのを拒むなんて女性に対して失礼だろう。むしろ、受け入れたお前をわたしは誇りに思ってる」
「皇帝なんだから、誇りをあまり安売りしないでください。あと、それはベルの作り話です」
「何だ、違うのか? ……それは良かった」
「え?」
グレンは思わず顔を上げ、窓辺に立つ父の横顔に視線を向けた。金色の瞳が物騒に輝いて見えるのは、気のせいだろうか。
何だか、妙に胸騒ぎがする。
(魔石ランプは、安定した明かりを灯せるものを製作するのが難しい。一般に流通させられるほど大量生産するためには、開発にまだまだ時間がかかるはず)
皇城すべてのシャンデリアに使用できるようになるまで、何年かかるか分からない。
その価値など、有って無いようなものだ。
招待する予定だった第二公子は、レオスト公国の公女と結婚した後、新しい工業製品の交易に乗り出したと聞いている。
染色した布を水洗いするための大型の機械。城にある大量のリネンを洗濯するのに丁度良さそうだと思ったグレンは、開発段階から目を付けていたのだ。
(婚約パーティーで話を持ちかけ、ご祝儀価格で手に入れる算段だったのに)
それと引き換えにされたのが、必要のない果物と、美しいだけが取り柄の公女。最悪だ。
ビビアンは優秀な宰相だが、従順過ぎて皇帝の意見に逆らえないし、側近のルディに関しては、仕事の面では有能でも、人格の方に問題がありすぎる。
自分がこの皇帝の手綱をしっかり握っておかなくては。
「今回招待を取り消した第二公子への詫び状は僕に送らせてください。それと……余った果物なんですが、捧げ物として使いませんか? 水竜の」
「それはお前に任せる。残りのものも、廃棄するなり何なり好きにしろ。フローラにもそう言っておけ」
「分かりました。──では、僕はこれで下がらせていただきます」
(何も仕掛けてこない)
杞憂だったか。グレンは内心ホッとしながら頭を下げると、廊下に出る扉に向かって足を踏み出した。
「わたしも、そろそろ後添えが欲しい」
──振り向かなければ良かった。
グレンは固く拳を握りしめ、唇を噛んだ。
「僕は別に構いません。ひとりでフラフラされるより、再婚していただいた方が安心ですから」
「では、賛成してくれるのか? その割に、剣の切っ先みたいな目で睨んでるけど」
「この目は生まれつきです」
「そうだな。……お前の目は、コーネリアそっくりだ」
呟くように言って目を逸らした皇帝は、窓の外を眩しげに見上げた。