15
にこにこ笑うユーリィを、マシェリは戸惑いの目で見つめた。
「卵の解放とわたくしは関係ないって……それ、本当なんですの?」
「ええ。さっきあの魔本を確認したら、封印のしおりが剥がれてしまっていたんです。あの水竜の卵は、そのせいで解放されたんですよ」
(しおりの……封印? そういえば階段で押し花のしおりを拾った時、ビビアンが魔本を持っていたわ)
だが、剥がした場面を見てない以上、彼を犯人扱いすることはできない。
脳裏をよぎるビビアンの顔が、どれだけ真っ黒であろうとも。
「少しだけホッとしましたわ。まあ、わたくしが卵を逃した事実に変わりはないけれど」
「それも不可抗力でしょう。あまり気に病まないでください、マシェリ様」
「そうですよ、気にし過ぎはよくないです。──で、一体何が不可抗力なんですか? ユーリィ様」
やたら明るい声に顔を上げれば、メガネをかけた痩せっぽちな侍女が立っていた。
年季の入ったメモとペンを手に持ち、構えている。
「あれっ、お話は終わりですか? では、わたしの方からマシェリ様に一つ質問しても……」
「却下よベル。さぼってないで仕事に戻りなさい」
ユーリィが間髪入れずに手で侍女を制す。
「ひどい! さぼってないですもん。ちゃんと侍女頭に頼まれて来たんですから。マシェリ様に伝言をお伝えするように、って」
「だったら、その伝言をさっさと言いなさい」
「えー、少しくらいいいじゃありませんか。わたし、二階の客室係だから、りん……いえ、マシェリ様とお話した事ないんですもん」
(今、『林檎』って言いかけた?)
「貴女に話をすると、誇張やら脚色やらを織り交ぜるせいで、いつもまともに伝わらないじゃないの!」
「でもお。陛下は喜んでくれますよー? 特に『オトす』って語彙がお気に召したらしくって、寝所で使わせてもらうってはしゃいでましたから」
マシェリは目を丸くした。
まさか、あの広範囲かつ拡散の速い噂の出どころが、この一見小動物みたいな侍女だったとは。
夜会やお茶会で徒党を組み、人の噂話や動向に目を光らせる。まるで肉食獣のような母と同列の人間を想像していたマシェリにとっては、少々意外な正体だった。
「陛下にまで……! 貴女って侍女は」
「またまた。そうやって皆が特別扱いするから、陛下が寂しがるんじゃないですか。知ってます? 陛下ったら最近、後添えが欲しいって呟き始めてるんですよ」
「の、後添え?」
とたんに勢いを無くすユーリィに、ベルの小さな目がキラリと光る。
「詳しくお教えいたしましょうか? その代わり、マシェリ様と殿下の馴れ初め話などを少々」
「ベル! 貴女そこで何をしてるの⁉︎」
雷鳴のごとく怒鳴り声に、ベルの肩が「ひゃっ」と跳ね上がった。
「タ、ターシャ様……じゃなくて侍女頭。どうしてここへ」
「貴女がちっとも戻って来ないから、探して来いって侍従長に言われて来たのよ! ──あああ、またそんなメモなんか持って!」
「ま、まあまあ。ターシャ、わたくしに一体何のご用でしたの?」
取り成すようにマシェリが言うと、ターシャは頬を赤らめて頭を下げた。
「申し訳ございません、マシェリ様。実は、明日着ていただくドレスが先ほど到着いたしまして。試着をお願いするために、この子を使いに出したんですけど、わたしの教育不足のせいで……大変ご迷惑をおかけしました」
「ひどーい、侍女頭。迷惑かけたって決めつけてる」
「実際迷惑かけてるでしょうが。……ターシャ、フローラ様はどんなご様子だった? 会議室でのこと、何か仰ってたかしら」
口を尖らせるベルを一蹴し、ユーリィがテーブルから立ち上がる。
ターシャは紅茶のカップを片付けながら、少し戸惑い気味に口を開いた。
「侍従長、戻って来るなりベルの事で怒ってらっしゃいましたから、まだ何も話してはないんですけど……その、眉間のしわが凄いことになってて」
「ええ、そんなに怒ってるんですか? どうしよう! 鞭打ちの刑にされちゃう」
「ちょっと貴女は黙ってなさい。──変ね。フローラ様のその表情は、怒ると言うより、困った時にするものだわ」
ユーリィが顎に手をあてて考え込む。
侍従長のフローラは、フランジア帝国でも指折りの上流貴族、マクドイル侯爵家の三女。その類まれな機転と気遣いにより、異例の速さで侍従長まで出世したのだとか。
皇帝が幼少の頃から侍女として城に仕えているため、グレンのことも乳飲み児のころから知っている。母である皇妃が亡くなった後、グレンの世話役を務めていたこともあるらしい。
(殿下の母親代わり、ということかしら)
つまり、マシェリにとっては姑同然だ。
マシェリは少々緊張した足取りで、フローラの待つ二階の客室へ向かった。
「侍従長、マシェリ様がいらっしゃいました」
ターシャに伴われて部屋に入ると、出迎えてくれた初老の女性が、マシェリを見たとたん破顔する。
「侍従長のフローラ・マクドイルです。初めまして、マシェリ様」
その見事な淑女の礼に、マシェリは目を見張った。
白髪混じりのひっつめ髪に薄化粧、青色のお仕着せとエプロン。他の侍女と何ら変わりない見た目でありながら、その所作は花が咲くような美しさ。
(さすが侯爵家令嬢。地盤が違うわね)
やや気遅れしつつマシェリが挨拶を返すと、にこにこしながらフローラが近付いてきた。
マシェリの前でピタリと足を止め、眼鏡の奥の目でじっと見つめてくる。
(な、何か不手際でもあったかしら。お辞儀の角度とか……あっ、もしやドレスのつまみ方?)
早まる胸の鼓動を抑え、フローラとの間に流れる長い沈黙に耐えていると──突然、腰を両手でわしっと掴まれた。
「きゃっ⁉︎」
「……細い」
悲鳴を上げたマシェリを無視し、ぼそりと呟く。
「な、な、な、なん、こ、腰を」
「どうやら、コルセットは必要ないようですわね。──ラナ! 試着を始めるから、ドレスの準備をしておいてちょうだい」
「はーい!」
手首に針山を巻いたぽっちゃり気味の侍女が、元気よく返事をしながら奥の部屋へと入っていく。
フローラがそちらを向いた隙に、マシェリはドアぎりぎりまで後ずさった。
「い、いきなり何をなさるんです!」
「まあ、ずいぶんと初々しい反応ですこと。これは、前途多難かもしれませんわね」
頰に手をあて、なぜか物憂げにフローラがため息をつく。
カチンときて、マシェリが言い返そうとした時、背後のドアが細く開いた。
「フローラ様、ユーリィです。入ってもよろしいでしょうか」
「あら、珍しいこともあるものね。貴女もようやくドレスに興味が湧いてきたのかしら」
「それは残念ながらありません」
苦笑いを浮かべつつ部屋へと入ってきたユーリィが、すぐさま両手を広げ、マシェリの前に立つ。
「……どういうつもり?」
「それはこちらの台詞です。これ以上、マシェリ様への無礼を黙って見過ごすわけにまいりませんわ」
「ユーリィ様……」
白銀の髪が揺れるユーリィの後ろ姿が、いつか夢で見た『あの人』の背中と重なって見えた。