12
(走るにはヒールが少し高すぎたわね)
靴ずれのできた踵が痛む。
マシェリは噴水の縁に手を掛け、血が滲んだ靴を脱いだ。
噴水を見上げてみると、三段ある受け皿の一番上から、勢いよく水が噴き出してきている。精霊が出て来るとしたらあの辺だろう。マシェリは笛を咥え、上に向けて息を吹き込んだ。
──が。音が全く出てこない。
(ど、どうして? まさか故障?)
焦って再び笛を咥えた次の瞬間、水しぶきとともに犬っぽいものが飛び出してきた。
地面に降り立つなり体をぶるぶる震わせ、白いモフ毛に付いた水気を払う。
「ねえ、おねーさんがぼくを呼んだの? 」
子どものような声で尋ねながら、青く真ん丸な瞳がマシェリを見上げてくる。
「そ、そうよ。ええと……はじめましてイヌル。わたくしはマシェリ・クロフォード。ご存知ないかもしれないけれど、皇太子殿下の婚約者なの」
「ぼく知ってるよ。皇子様をオトした林檎姫でしょ?」
首を傾げ、ぱたぱたとしっぽを振りつつイヌルが言う。マシェリは思わず半眼で見返した。
「オトしてないし、姫でもありません。そんな事より、お仕事よイヌル。あの橋のところにいる、まだら卵を捕まえてほしいの」
「……何もいないよ?」
マシェリの指す方を見たイヌルが、きょとんとした顔で言う。
「橋を渡ってしまったんだわ。とりあえず、ユーリィ様のところへ戻りましょう」
「うん! ユーリィ様、何かごはんくれるかなあ。ぼくお腹すいちゃったよ」
「それは後よ。いいから早く──」
振り返ったマシェリが言葉を切る。
「どうしたんです? マシェリ様。そんなに慌てて」
「ビビアン様……!」
黒い顔に黒い衣。影のような姿の宰相が、目の前に立っていた。白いフェイスベールの上の瞳が、冷ややかな眼差しを向けてくる。
(なんで今頃こんなところに……執務中のはずなのに)
「ああ。ユーリィなら、医務室へ連れて行きましたよ」
「! 医務室へ? なぜ」
「腰を痛めたからに決まってるでしょう。心配せずとも、水竜の卵はわたしがちゃんと捕らえてさしあげます。もしも貴女が多少でも責任を感じているなら、このままどうぞ大人しくテラナ公国へお帰りください」
目を細め、嘲るようにビビアンが笑う。
まるで部屋の隅に獲物を追いつめた蛇のようだ。もう殺気を隠す必要などない、ということか。
マシェリは魔本を持つ手にぐっと力を込め、大きく息を吐いた。
「お気遣い感謝いたします。けれどわたくし、自分の失敗の後始末を人任せにする趣味はございませんの。この責任はきっちり取らせていただきますわ」
「なかなか強情な方だ。しかし、一体どうやって? イヌルは精霊使い以外操れませんよ」
「あら。そんなご大層な肩書きなんかなくたって、いくらでも手段はありますわ。──そうね、例えば」
マシェリの唇がニッと弧を描いた。
「ねえイヌル。わたくしと交渉してくださらない?」
「こうしょう? 何それ? 美味しいの?」
「ふふ、そうね。まったくの的はずれではなくってよ。この魔本から逃げ出した、水竜の卵を追ってほしいの。もし捕まえて来てくれたら、わたくしがとびきり美味しいクッキーを焼いてさしあげるわ」
「本当⁉︎ それならぼく、行ってくるよ!」
ぱあっ、とイヌルの顔が輝いた。
呆気に取られるビビアンを尻目に、ぶんぶん尻尾を振りながらマシェリにすり寄ってくる。
「交渉成立ね」
マシェリはイヌルの頭を数回撫でると、魔本を差し出した。鼻先で匂いを嗅ぐイヌルの、青い双眸が光り輝く。
「こっ、こんな事わたしは認めません!」
「きゃっ⁉︎」
横から本を掴んで引っ張られ、その勢いのままマシェリは石畳に倒された。
「何をするの!」
「黙りなさい。下手に出てればいい気になって……貴女みたいな下賤の女、皇太子妃として相応しいわけがないでしょう? もういい加減大人しく──」
「やめろ、ビビアン」
低く、それでいてよく通る声が背後から聞こえた。体を起こして見れば、手を上げたままビビアンが固まってしまっている。
「陛下……どうしてこんな所へ」
開きっぱなしの口から、呟くような声が漏れた。
(皇帝陛下⁉︎)
慌てて起き上がろうとしたマシェリに、ユーリィが手を差し伸べる。
「遅くなってごめんなさい、マシェリ様。大丈夫ですか?」
「わたくしは大丈夫です。ユーリィ様こそ、かがんだりして腰は平気ですの?」
「え? ……あっ。だ、大丈夫です。皇城の医官は優秀ですから!」
あはは、と笑うユーリィの背後に、大柄な護衛を連れた皇帝が立っていた。
立ち姿は初めて目にするが、全体的にがっしりとしていて背も高い。心なしか初日に会った時よりも若々しく見えた。
「まずわたしの質問に答えろビビアン。お前は、そこで一体何をしている?」
「申し訳ございません。実は、危険な魔本をマシェリ様から遠ざけようとしていたのです。それでつい、力が入り過ぎてしまって」
(は⁉︎)
マシェリは目を吊り上げてビビアンを見た。
よくもまあ、いけしゃあしゃあと。
内心で歯ぎしりしながら、拳を握り締めて耐える。さすがのマシェリも、皇帝との会話中に横やりは入れられない。
「もういい、よく分かった。お前は宮殿に戻れビビアン。グレンと大臣たちが探していたぞ」
「はい。……ですが、陛下は」
「わたしも後から行く。ルディにそう伝えておけ」
「かしこまりました。では、わたしは先に失礼させていただきます」
ぺこりと頭を下げ、その場を立ち去っていくビビアンの背中を、マシェリは苦々しい思いで睨みつけた。
(陛下も全く疑わない……本当に厄介だわ、あの腹黒男)
「さーて。あとは貴方しだいよ、イヌル。マシェリ様のために頑張って卵を捕獲してきてちょうだい」
「うん。ぼくスッゴく頑張ってくる! だからクッキーはお皿に山盛り用意しておいてね!」
「……善処するわ」
苦笑したユーリィがイヌルの背をひと撫ですると、白いモフ毛が波打つように広がり、光の粒が周囲に弾けた。
これが精霊使いの力なのだろうか。感心して眺めていると──体がふわりと宙に浮いた。
「きゃっ⁉︎」
「……軽いな。もう少しちゃんと食べた方が良い」
混乱するマシェリの顔を覗き込みながら、皇帝がからかうように言う。
その顔の近さと、背中に回された力強い腕の感覚で、マシェリはようやく自分が抱き上げられたのだという事を理解した。
(こ、皇帝陛下にお姫様だっこされるだなんて……想定外すぎる! というか、こういう時、手はどうしたらいいの?)
「そのままじゃ危ないだろう。わたしの首にしっかりしがみついておけ」
まるで見透かしたような言葉に頰を染め、マシェリはおずおずと皇帝の首に手を回した。
鳶色の髪に、金に近い色の瞳。頰まである豊かな髭のため、顔立ちはよく分からないが、グレンとはあまり似てない印象だった。
「わたしはこのままマシェリを医務室へ連れて行く。ユーリィ、卵の捕獲はお前に任せた」
「仰せのままに」
(ええ⁉︎)
マシェリは目を丸くしてユーリィの方を見た。
視線に気付くと、悪戯っぽいウィンクを返してくる。『頑張ってね』とでも言いたげなユーリィの仕草に、マシェリは青くなった。
「陛下、あのっ。わたくし自分で歩けますから、どうか降ろして下さいませ!」
「その傷だらけの足でか?」
ハタと見れば、確かに……靴ずれに加え、足のあちこちが傷だらけで血が滲んでしまっている。
きっと石畳に倒された時だ。
ずきずきとした痛みが、悔しさとともにこみ上げてくる。
「痛そうだな」
「いえ。……平気ですわ、これくらい」
「本当に気の強い女だ。しかし、そこがまたそそる」
獰猛な瞳で艶っぽく見つめられれば、頬が燃えるように熱くなる。
免疫の足りない身には毒でしかない状況に、マシェリはただただ狼狽えていた。