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(まさかこれは魔本?)
後退りするマシェリの前で、蒼く輝く光の渦が、本をすっぽりと覆っていく。
もう、悠長に構えている場合じゃない。
まさか再び魔力の渦に手をつっこむ羽目になるとは。マシェリは内心ため息を吐きつつ、渦中の本を掴むと即座に閉じた。
途端、渦が霧のようにかき消える。
(やっぱり……! 間違いないわ)
『魔本』はその名の通り、魔力を持つ本の総称だ。魔界との協定により派遣された魔女か、西の公国ルシンキ出身の魔術師、そのどちらかによって作り出される。
故郷のテラナ公国でマシェリも数回目にした事があり、魔本自体は、おそらくそれほど珍しいものではない。しかし確か図書館には置いてなく、まして子ども向けの魔本など見た事も聞いた事もなかった。
この世界で言う魔本とは、人界へ紛れ込んだ魔物を封印し、魔界へ強制送還するための、便利な『檻』でしかないのだから。
(さっきの渦は、きっと『檻』の解錠時に起きる魔力の旋風だわ。……でも、魔力がないわたくしに魔本の封印を解けるはずがない。なのに、いったいどうして……)
「誰かいるの? 開館時間にはまだ早いわよ」
扉が開く音に振り返れば、ひとりの女性が入り口に立っているのが見えた。
藍色の衣は官僚の制服。となると、もしかしたら彼女が司書か。
メリハリのある体つきに白銀の髪。背筋を伸ばし、ハイヒールの硬質な足音を響かせながら、真っ直ぐにこちらへ向かって来る。
「あら、貴女はもしやマシェリ様? これは失礼致しました」
「……何故、わたくしの名前を?」
「それはもう。難攻不落と呼ばれたあの殿下を陥落した赤髪の姫君といえば、今やこの皇城内で知らぬ者などおりません」
青灰色の瞳を細め、厚みのある唇に意味深な笑みを浮かべる。シャツが窮屈そうな胸元と相まって、妖艶さすら感じる美貌だ。
(陥落って。わたくしには特に何した覚えもないのだけれど……)
しかし皇城内の噂ですらこうして誇張されてるという事は、皇太子との婚約を知ったあの母が、テラナ公国での娘の自慢話にどれだけの尾ひれを付けたか知れない。マシェリは心底ゾッとした。
「わたしはこの図書館の司書で、ユーリィと申します。以後、お見知りおきを。──で、今日は何をお探しですか?」
「いいえ、その逆ですわ。ルドルフ様がお借りしていた本を返しに来たんです」
「ルドルフ? ……って、まさか近衛騎士団に所属してるルドルフ・ダニエですか? 副団長の」
ユーリィの眉根が、ピクリと動く。
「ええ。わたくしの相談役として、陛下が任命してくださった方ですの」
「陛下が任命……。なるほど」
顎に手を当て、ユーリィが何か納得したようにうんうん頷く。相談役というものを故郷のテラナ公国では聞いた事がなかったが、フランジア帝国ではわりと一般的なものなのかもしれない。
「実はこの絵本、昨日ルドルフ様にお借りしたんです。それで、今朝返そうとしたんですけど城内にいらっしゃらなくて……貸し出し期限も今日まででしたし」
「事情はよく分かりました。で、その本は今どちらに?」
ユーリィから怪訝そうな目を向けられ、マシェリはハッとした。
「そうだわ。虫干ししようと、さっき窓辺へ置いたんです。そしたら急に魔力の渦が」
「──待ってください!」
振り向きかけたマシェリの腕を、ユーリィが掴んで止める。
「魔本の封印が解けたんだわ。危険ですから、離れてください」
「ええ? でも、さっきはちゃんと閉じて」
言いかけて言葉を切る。まるで蒼く光る柱のように、本を覆った魔力の渦が上昇していた。
「閉じても無駄です。魔本は創作したルシンキ公国の魔術師か、魔女にしか封印できない」
「そ、そんな。では、どうしたらいいんですか?」
「とりあえず、中の魔物が出てきたところをとっ捕まえて封印を試みます。大して危険な魔物じゃないはずなので、マシェリ様もご協力を」
「危険じゃないって、それでも魔物は魔物でしょう? 護衛を呼んだ方が……」
「そんな暇はありません」
ユーリィに手を引かれ、壁際へ逃げた途端──高く巻き上がった渦のてっぺんから、黒い影が勢いよく飛び出してきた。
「気を付けて! 今のがたぶん魔物です!」
「分かりました。こうなれば、徹底的に戦って差し上げますわ」
夜会でのダンスは今ひとつなマシェリだが、市場でひったくりを捕まえるために鍛えた足技には自信がある。
ドレスの裾を掴んで身構えると、衝撃とともに魔物が床に落ちてきた。──鋭い眼差しを向けたマシェリの口が、ぽかんと開けっぱなしになる。
それは、『卵』だった。
鮮やかな青と緑のまだら模様で、鶏の卵より数倍大きく、メロンより少し小さい。
卵は床の上でころん、ころんと惰性にしては不規則な動きを数回繰り返したあと、ピタリと止まった。
(……なんで、卵なのに直立不動?)
マシェリの頰が引きつる。それはなかなかに不気味な姿だった。
「今です、マシェリ様。ちゃちゃっと捕まえちゃってください!」
「心の準備が先ですわ。それと深呼吸も」
大雑把に煽るユーリィの声に、マシェリは半眼で言い返した。
腕まくりして身をかがめ、そろそろとまだら卵に近づいていく。色や動きは不気味なものの、殻に毒でもない限り触っても平気だろう。
マシェリはガシッと卵を両手で掴むと、持ち上げた。
その瞬間、殻の一部が弾け飛ぶ。
「えっ⁉︎」
卵の下部を突き破って出てきたのは、水掻き付きの足っぽいもの二本。
驚き、マシェリは思わず卵から手を離した。
卵は足から床に着地すると、呆気に取られる二人の間を走ってすり抜け、本のある机の上に飛び乗った。
そのまま、開いていた窓からヒラリと外に出て行ってしまう。
「ああっ、待って!」
「大変、水竜の卵が逃げ出したわ!」
ユーリィがシャツの胸元に手を突っ込み、棒状のペンダントヘッドを取り出す。
「その本を持ってわたしと一緒に来てください、マシェリ様!」
駆け出すユーリィを、慌てて本を手にしたマシェリが追いかける。ドアを開け、急いで外に飛び出すと、中庭を突っ切って行く卵の姿が見えた。
「まずいわ。卵の逃げ足が思ったよりも早い」
「あれって水竜の卵なんでしょう? だとすれば、魔力を使ってるんじゃありません? 殻を被ったままで真っ直ぐ移動しているし、ほんのり蒼く光ってますもの」
殻のせいで前は見えないはずなのに、迷う様子が一切ない。噴水を難なく避けつつ、飛ぶような速さで出口に向かって走って行く。このままでは、城の外に出て行くのも時間の問題だ。
「きゃあっ!」
「ユーリィ⁉︎」
前を走っていたユーリィが悲鳴をあげ、見事にすっ転んだ。見れば、ハイヒールのかかとが折れてしまっている。
慌てて手を貸し体を起こすと、ユーリィは手にしていたペンダントを首から外し、マシェリに差し出してきた。
「マシェリ様ごめんなさい。……実は、腰が抜けてしまって動けないの。わたしの代わりにイヌルを呼び出してもらえないかしら?」
「イヌル?」
「古くからフランジアに仕えてる、水の精霊です。犬に似た姿をしていて、追跡能力にとても優れているんですよ。噴水の所へ行って、この笛を吹けば出て来ますから」
差し出されたのは、銀で出来た細長い笛。
領地の牧羊犬に使う、呼び笛に似てなくもないような。マシェリは少々戸惑いながらも、それを受け取り首に掛けた。
「分かりましたわ。そのイヌルはわたくしがちゃんと呼び出します。だから、貴女はここで大人しく休んでなさい」
「……! はい」
何故か頰を赤らめるユーリィを残し、マシェリは噴水に向かって駆け出した。