10
(フランジアの初代国王が……半竜)
全く知らなかった。しかしそれは多分、マシェリに限った事ではない。皇族はあくまで人間、というのがテラナ公国内での常識だったのだから。
帝国と公国の絵本の内容が違うのには、間違いなく何らかの意図がある。
もしかしたら、皇族の先祖である水竜の存在を隠すために──というのは、少々考え過ぎだろうか?
「マシェリは僕のこと、どう思ってるの?」
突然耳元で囁かれ、目をぱちくりとさせる。
そういえば、さっき愛の告白をされたばかりだった。
恋愛以外の話にばかり気を取られ、脱線してしまうのはマシェリの悪い癖である。
「え……。ど、どう、とは?」
「とぼけちゃダメだよ。婚約者である僕のことを、男としてどう思ってるか。ちゃんと答えて」
「……」
しどろもどろになったマシェリは、いったん口をつぐんだ。婚約者とか、男としてとか、グレンの前置きが強すぎる。
このままだと、恋愛対象としての『好き』一択だ。
しかし、今の状況的にそれはまずい。すでに同じ部屋で二人きりだし、マシェリはグレンの腕の中に抱き竦められている。この先の展開を承諾するようなもので、うっかり口に出すのは危険だ。
マシェリは、しばし熟慮した上で口を開いた。
「殿下にとって、わたくしは初恋のお相手なんでしょうか?」
そのとたん、グレンの腕の力が僅かに緩む。
質問返しで話の流れを変える。反則技だが、効果はあったようだ。
「公国の公女様はみな、見目麗しい方ばかりですし」
「君も、十分綺麗だよ」
「も?」
「いっ、いやその……。もう、いいじゃないか。過去の事は!」
「『過去』という事はやはり、わたくしの他にいらっしゃいますのね? 初恋のお相手が」
「……」
完全に閉口したグレンが、マシェリを腕の中からそっと解放する。
「……部屋に戻ろう。何か眠くなってきたから」
「分かりました。それでは、続きは部屋でお話しください」
「つ、続きって……一体なんの」
すっかり狼狽えている皇子様に、マシェリはにっこり微笑んだ。
「とぼけちゃ嫌ですわ、殿下。初恋のお相手について、話を聞かせてくださいな。でないとわたくし、気になって今夜眠れませんもの」
「……」
マシェリにがっちり腕を掴まれ、グレンが頰を引きつらせる。美形が表情を崩すのも、見ていてなかなかオツなものだ。
ふふふ、と悪戯っぽく笑ったマシェリは、グレンとともに月夜のテラスを後にした。
四角い包みから出て来たのは、少し淡めの赤で描かれた薔薇の絵。
薔薇オイルのラベル用に、庭師のアディルが描いてくれたものだ。
マシェリはそれを朝日が差し込む壁に掛けると、角度を直し、少し離れた場所から眺めた。
(優しさが絵に滲み出てるわね。……少し、腹が立つくらい)
絵に指先で触れながら、自嘲気味に笑う。
その時ふと、昨夜のグレンの話が頭をかすめた。
皇子様の初恋は、五歳の誕生パーティーで出会った公女。ほんの些細なきっかけで彼女とケンカになり、勝負を挑んで敗れたのが、好きになったきっかけだとか。
何とも子どもらしい、ほほ笑ましく可愛らしい恋だ。しかし子どもという生き物は、時にひどく残酷にもなる。
七歳の時、最愛の母を亡くしたグレンは葬儀の日、ひとり中庭で泣いていた。
風の強い、満月の夜。そんなグレンに公女が近づいたのは、慰めるためだったに違いない。
だけど結局、悲鳴を上げて逃げ出した。
人とは少し違う、グレンの姿を見てしまったから。
グレンは女嫌いというより、ショックのあまり女性不信になっていたのかもしれない。
と、そこまで考えて……昨夜と同じもやもやが、再び胸に湧き上がってくる。そんな心の傷がありながら、なぜ、マシェリにあの姿を見せたのか。
(もしかしたら殿下は、わたくしを試したのかもしれない。……だとしたら)
怖がって逃げ去るのが、マシェリにとっては正解だった事になる。
興味津々に分析している場合じゃなかった。思わずがくんと項垂れる。──しかし、どれだけ後悔しても時間は巻き戻ってくれない。
(……大丈夫、まだ望みはある。その初恋の公女様とやらを何とか見つけだして、ふたりをもう一度引き合わせられれば、きっと今度はうまくいくはず)
お互い、もう子どもではないのだから。
グレンは頑として彼女の名前は教えてくれなかったが、ルドルフに聞けば分かるかもしれない。
本を返すついでに話してみよう。
朝の身支度を終えたマシェリは、サロンへ向かうべく部屋を出た。
すれ違う侍女たちと挨拶を交わしつつ、長い回廊を抜け、階段へと向かう。
踊り場の手前まで下りたところで──上ってきた人影とぶつかった。
「! ごめんなさい」
「いえいえ、こちらこそ。お怪我はありませんでしたか? マシェリ様」
躓くマシェリを受け止めた腕をたどれば、鋭い目をした、黒い顔と出会う。
「ビ、ビビアン様。おはようございます」
「おはようございます。……おや、その本は?」
「昨日ルドルフ様にお借りしたんです。これから返しに行きますの。では失礼」
淑女の笑みでそそくさとその場を去ろうとするマシェリに、ああ、とビビアンが声を掛けてくる。
「ルドルフなら、朝一番でサリエルとともに森へ出かけて行ったので、今は城にいませんよ」
「まあ、本当ですか? どうしましょう。いつ戻って来るかしら」
「さあ。ですが彼は訓練バ……いえ。とても勤勉な騎士ですから、いつも遅い時間だったと思います。……その本、ちょっと貸していただけますか?」
ビビアンが、白い手袋を嵌めた手をマシェリに差し出してくる。怪訝に思いながら本を渡すと、手早く頁をめくった。
ひらり、と何かが踊り場の床に落ちる。
拾い上げてみると、それは押し花のしおりだった。
「これ、落ちましたわよ。ビビアン様」
「ああ、ありがとうございます。ところでこの本なんですが……どうも図書館への返却期限が今日までのようなんです」
「それなら、わたくしが返してきて差し上げようかしら」
「そうして頂けると助かります。少し紙が湿気ってますので、窓辺にでも開いて置いておいてください。あとは司書が片付けると思いますので」
「分かりました。ではビビアン様、ごきげんよう」
ルドルフに会えないのは少し残念だったが、図書館には行ってみたかったので、とりあえず良しとしておこう。
マシェリは、足取り軽く階段を下りていった。
広大な中庭の端に佇む、赤レンガの古めかしい建物。マシェリはその入口にある数段の階段を上ると、金細工のドアノブに手をかけた。
「失礼します……」
ステンドガラスの小窓が付いた重厚な扉を開き、隙間から中を覗き込む。窓から差し込む光の下、棚に並べられた本たちが複雑な影を作り出していた。
司書の姿が見えないのが少々気にはなったが、もし来たら声を掛ければいいだろう。マシェリは真ん中の通路を奥へと進みながら、両脇にズラリと並ぶ本棚を、ゆっくりと眺めていった。さすが皇城の図書館である。蔵書の数が公国とは比べものにならない。
歩きつつ、試しに一冊手に取ってみる。細やかな湿度調整の賜物だろう。紙に湿り気やカビがほとんどなく、パラパラと気持ちよくページがめくれていく。
本の管理も隅々まで行き届いているようだ。
(この本を置いたら、植物図鑑を探してみよう)
窓辺の明るい場所には、本を読むための机が設置されている。
ちょうどいい。マシェリは持ってきた本を机の上に開いて置き、風通しのため少しだけ窓を開けた。
「これでよし、と」
振り返ったマシェリの目が、大きく見開く。
──絵本が、蒼い光を纏い始めていた。