9
黒と白の四角形を交互に配した大理石の床。白い壁沿いに美しい彫像が並ぶ回廊を、窓からさしこむ月光が明るく照らし出していた。
(まさかこれが殿下の部屋のドアだとは……)
本当に、十歩分も離れていない。
マシェリは回廊で仁王立ちし、突き当たりにふたつ並んだドアを眺めていた。
左がマシェリ、右がグレンの部屋で中は左右対象の造りになっているらしい。マシェリの部屋はもともと皇女用に作られたもので、まだ一度も使われた事がないのだと、侍女のターシャが教えてくれた。
(そして回廊の真ん中あたりにある、大きな扉が皇帝陛下の部屋……と)
皇妃が七年ほど前に他界したため、現在独り身の皇帝は、夜毎毎違う女性をこの部屋へ招き入れては閨の相手をさせているらしい。
風の噂で耳に入った程度のもので、その真偽は定かでないが、用心に越した事は無いだろう。──皇帝陛下の『お相手』とは、出来れば鉢合わせしたくない。
護衛が奥の階段脇に立っている以外、どうやら人影はなさそうだ。後ろを振り返っていたマシェリが正面に向き直すと──右側のドアが開いた。
「「あ」」
ちょうど顔を出してきたグレンと、マシェリの視線がばちんと出会う。
「こ、こんばんは、殿下」
「……まさか、君が本当に出てくるとは思わなかったよ」
ガウン姿のグレンは苦笑いを浮かべていた。それは少しだけ気まずげで、また、照れくさそうでもあった。
(もしかして、本気で言ったわけじゃなかったのかしら)
マシェリは思わず小首を傾げた。喉元まで出かかった、『帰ってもいいですか?』という言葉を呑み込み、手にしていた本を胸にきゅっと抱きしめる。
開かれたドアから「失礼します……」と中へ入れば、自分の部屋とは少し違う匂いがした。
フランジア帝国の国色が蒼色だからか、カーテンや天蓋、絨毯などは青系色のものが多く、どこか冷たい印象を受ける。
調度品も上等な品ばかりに違いないが、必要最低限の物だけがぽつりぽつりと置かれているだけのようで、なんだか少し味気ない。
左右対称なだけで、二つ部屋を抜けた先に寝室がある造りはマシェリの部屋と同じ。ただ、グレンの部屋には寝室の隣に書斎があり、開けっぱなしのドアの向こうに、本がぎっしり詰まった本棚が見えた。
(この本、必要なかったかしら)
ついぼそりと呟く。
しかし、その心配は杞憂だった。本を見せた途端、寝台に横たわったグレンの表情がゆるむ。
「これはまた……懐かしい本を持って来てくれたね」
「大丈夫でしたか? この絵本で」
「うん、むしろこの本がいい。こっちの本はいらないな。仕舞ってくるから、少しだけ待ってて」
グレンが寝台から降り、サイドテーブルに積まれていた数冊の本を抱える。マシェリは、その本の分厚さに目を見張った。どう見ても、今夜中に読み終われるような頁数ではない。
ルドルフに本を借りてきて本当に良かった。マシェリはそっと胸を撫で下ろした。
「お待たせ、マシェリ」
「はい。ではベッドにお入りください、殿下」
「はいはい。あ、よかったらマシェリも入る?」
「入りません。それよりも殿下、ガウンはお脱ぎになった方がよろしいかと」
「君こそ、ドレスを脱いできなよ。せっかくベッドの右側を空けて待ってたのに」
「脱ぎません。どうぞ殿下おひとりで、広々とお使いくださいませ」
ぶすくれるグレンに淑女の笑みで応えると、マシェリは椅子にさっさと腰掛けた。──このやりとりを続けていたら夜が明ける。
(でも考えてみれば、殿下はサマリーとひとつ違いの十四歳。ただ単に甘えたいだけなのかしら? ああもう、どこまで本気か分からない……!)
ため息とともに視線を膝の上の本に落とす。
『水竜物語』と題された、青い皮表紙の綺麗な絵本。挿絵は少ないものの、字が大きくて子どもでも読みやすそうだ。
──描かれてるのは、貢ぎ物を届けにきた歌声の美しい少女と、彼女に一目惚れをした水竜の、甘く切ない恋物語。
公国で一般的に売られている『フランジア王国誕生物語』なる絵本と内容がほぼ同じで、マシェリも幼い頃母に読んでもらった記憶がある。そのおかげもあって、すらすらと読み進められた。
寝台のグレンからも、今のところ苦情は出ていない。このまま何事も起こらない内に眠ってくれれば。淡い期待を抱きつつ、終盤近くまで無事読み終えたマシェリは、文字を辿っていた指先をぴたりと止めた。
(これ……テラナ公国の絵本と、少し内容が違うわ)
マシェリが読んだ絵本では、水竜と少女は結局結ばれずに終わるのだ。それでも水竜は、愛する少女が幸せに暮らせるよう、帝国の前身であるフランジア王国を創った。そう、締め括られていた。
しかしこの本に書かれた結末は、それとはまるで違う。
(もしこの物語が本当なら、殿下たちは)
「どうかしたの? マシェリ」
呟きが耳に入ってしまったらしい。少しとろんとした顔で、寝台の上のグレンが聞いてくる。
柔らかなランプの光に照らし出された、陰影付きの端正な顔立ちは、あまり近くで見せられると心臓によろしくない。
マシェリはのぼせる前に視線を逸らし、咳払いとともに椅子から立ち上がった。
「いっ、いいえ。なんでもありませんわ」
「その割に、ずいぶんと難しそうな顔してたけど? ……ああ、何だか目が覚めてきちゃったな」
グレンは寝台から降りてガウンを取り、窓の方へと立って行った。閉じられていたカーテンを両側へばさりと開く。
「おいで、マシェリ。……今夜は月がとても綺麗だから」
誘われるままテラスに出て行くと、流れていく雲の向こう側で、限りなく丸に近い月が輝いていた。
眼下のテアドラ湖から吹き上がってくる、冷たい風が頬を伝っていく。マシェリは持ってきたショールを肩に掛けると、手すりに寄り掛かるグレンの隣に立った。
「本当に美しいですわね。月も、この湖も」
「マシェリは、水竜を見たことがあるの?」
「いいえ。けれど、絵本でなら何度も読みましたわ。翡翠色の鱗を纏い、燃えるような蒼い瞳を持つ。それは巨大で、優美な姿の竜なのだとか」
「……それは、さっき読んだ本と同じ物かな」
マシェリは、小さく息を呑んだ。
グレンの艶やかな黒髪は、いつもと全く変わりない。
だが──ガウンの襟からのぞく首元には、翡翠色の鱗が煌めいていた。
「この姿を見ても驚かないってことは、さっき、あの絵本を最後まで読んだんだね」
蒼く光る瞳が、まっすぐにマシェリを見つめてくる。
「読み……ました。けれど、てっきりただの御伽話だと」
「あれは本当の話だよ。歌声の美しい少女と、水竜の間に産まれた『半竜』が、初代フランジア国王なんだ。その血を受け継いだ陛下も僕も、月明かりの下では本来の姿と魔力を取り戻せる。──満月の夜は特に。国宝の蒼竜石は、死んだ水竜の左眼でね。その片一方の右眼はまだ、この湖のどこかに眠っている」
グレンが指で示した先を目で追えば、風の止んだ湖面に月が映っていた。
そこから水竜が顔を出して来るのではないか。そう思うと少々腰が引ける。後退りしたマシェリの肩に、グレンの手が回されてきた。
そのまま抱き寄せられ、マシェリの体はグレンの腕の中へすっぽりと収められてしまう。
「初めて会った時から君の事が好きだ。だから、君にも僕の全てを好きになって欲しい」
見開かれたマシェリの新緑色の瞳に、湖面の僅かな飛沫が映る。月はただ静かに、広がっていく波紋を照らし出していた。