表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/78

 黒と白の四角形を交互に配した大理石の床。白い壁沿いに美しい彫像が並ぶ回廊を、窓からさしこむ月光が明るく照らし出していた。


(まさかこれが殿下の部屋のドアだとは……)


 本当に、十歩分も離れていない。

 マシェリは回廊で仁王立ちし、突き当たりにふたつ並んだドアを眺めていた。

 左がマシェリ、右がグレンの部屋で中は左右対象の造りになっているらしい。マシェリの部屋はもともと皇女用に作られたもので、まだ一度も使われた事がないのだと、侍女のターシャが教えてくれた。


(そして回廊の真ん中あたりにある、大きな扉が皇帝陛下の部屋……と)


 皇妃が七年ほど前に他界したため、現在独り身の皇帝は、夜(ごと)(ごと)違う女性をこの部屋へ招き入れては閨の相手をさせているらしい。

 風の噂で耳に入った程度のもので、その真偽は定かでないが、用心に越した事は無いだろう。──皇帝陛下の『お相手』とは、出来れば鉢合わせしたくない。

 護衛が奥の階段脇に立っている以外、どうやら人影はなさそうだ。後ろを振り返っていたマシェリが正面に向き直すと──右側のドアが開いた。


「「あ」」


 ちょうど顔を出してきたグレンと、マシェリの視線がばちんと出会う。


「こ、こんばんは、殿下」

「……まさか、君が本当に出てくるとは思わなかったよ」


 ガウン姿のグレンは苦笑いを浮かべていた。それは少しだけ気まずげで、また、照れくさそうでもあった。


(もしかして、本気で言ったわけじゃなかったのかしら)


 マシェリは思わず小首を傾げた。喉元まで出かかった、『帰ってもいいですか?』という言葉を呑み込み、手にしていた本を胸にきゅっと抱きしめる。


 開かれたドアから「失礼します……」と中へ入れば、自分の部屋とは少し違う匂いがした。


 フランジア帝国の国色が蒼色だからか、カーテンや天蓋、絨毯などは青系色のものが多く、どこか冷たい印象を受ける。

 調度品も上等な品ばかりに違いないが、必要最低限の物だけがぽつりぽつりと置かれているだけのようで、なんだか少し味気ない。

 左右対称なだけで、二つ部屋を抜けた先に寝室がある造りはマシェリの部屋と同じ。ただ、グレンの部屋には寝室の隣に書斎があり、開けっぱなしのドアの向こうに、本がぎっしり詰まった本棚が見えた。


(この本、必要なかったかしら)


 ついぼそりと呟く。

 しかし、その心配は杞憂だった。本を見せた途端、寝台に横たわったグレンの表情がゆるむ。


「これはまた……懐かしい本を持って来てくれたね」

「大丈夫でしたか? この絵本で」

「うん、むしろこの本がいい。こっちの本はいらないな。仕舞ってくるから、少しだけ待ってて」


 グレンが寝台から降り、サイドテーブルに積まれていた数冊の本を抱える。マシェリは、その本の分厚さに目を見張った。どう見ても、今夜中に読み終われるような頁数ではない。

 ルドルフに本を借りてきて本当に良かった。マシェリはそっと胸を撫で下ろした。


「お待たせ、マシェリ」

「はい。ではベッドにお入りください、殿下」

「はいはい。あ、よかったらマシェリも入る?」

「入りません。それよりも殿下、ガウンはお脱ぎになった方がよろしいかと」

「君こそ、ドレスを脱いできなよ。せっかくベッドの右側を空けて待ってたのに」

「脱ぎません。どうぞ殿下おひとりで、広々とお使いくださいませ」


 ぶすくれるグレンに淑女の笑みで応えると、マシェリは椅子にさっさと腰掛けた。──このやりとりを続けていたら夜が明ける。


(でも考えてみれば、殿下はサマリーとひとつ違いの十四歳。ただ単に甘えたいだけなのかしら? ああもう、どこまで本気か分からない……!)


 ため息とともに視線を膝の上の本に落とす。

 『水竜物語』と題された、青い皮表紙の綺麗な絵本。挿絵は少ないものの、字が大きくて子どもでも読みやすそうだ。

 ──描かれてるのは、貢ぎ物を届けにきた歌声の美しい少女と、彼女に一目惚れをした水竜の、甘く切ない恋物語。

 公国で一般的に売られている『フランジア王国誕生物語』なる絵本と内容がほぼ同じで、マシェリも幼い頃母に読んでもらった記憶がある。そのおかげもあって、すらすらと読み進められた。

 寝台のグレンからも、今のところ苦情は出ていない。このまま何事も起こらない内に眠ってくれれば。淡い期待を抱きつつ、終盤近くまで無事読み終えたマシェリは、文字を辿っていた指先をぴたりと止めた。


(これ……テラナ公国の絵本と、少し内容が違うわ)


 マシェリが読んだ絵本では、水竜と少女は結局結ばれずに終わるのだ。それでも水竜は、愛する少女が幸せに暮らせるよう、帝国の前身であるフランジア王国を創った。そう、締め括られていた。


 しかしこの本に書かれた結末は、それとはまるで違う。


(もしこの物語が本当なら、殿下たちは)


「どうかしたの? マシェリ」


 呟きが耳に入ってしまったらしい。少しとろんとした顔で、寝台の上のグレンが聞いてくる。

 柔らかなランプの光に照らし出された、陰影付きの端正な顔立ちは、あまり近くで見せられると心臓によろしくない。


 マシェリはのぼせる前に視線を逸らし、咳払いとともに椅子から立ち上がった。


「いっ、いいえ。なんでもありませんわ」

「その割に、ずいぶんと難しそうな顔してたけど? ……ああ、何だか目が覚めてきちゃったな」


 グレンは寝台から降りてガウンを取り、窓の方へと立って行った。閉じられていたカーテンを両側へばさりと開く。


「おいで、マシェリ。……今夜は月がとても綺麗だから」


 誘われるままテラスに出て行くと、流れていく雲の向こう側で、限りなく丸に近い月が輝いていた。


 眼下のテアドラ湖から吹き上がってくる、冷たい風が頬を伝っていく。マシェリは持ってきたショールを肩に掛けると、手すりに寄り掛かるグレンの隣に立った。


「本当に美しいですわね。月も、この湖も」

「マシェリは、水竜を見たことがあるの?」

「いいえ。けれど、絵本でなら何度も読みましたわ。翡翠色の鱗を纏い、燃えるような蒼い瞳を持つ。それは巨大で、優美な姿の竜なのだとか」

「……それは、さっき読んだ本と同じ物かな」


 マシェリは、小さく息を呑んだ。


 グレンの艶やかな黒髪は、いつもと全く変わりない。

 だが──ガウンの襟からのぞく首元には、翡翠色の鱗が煌めいていた。


「この姿を見ても驚かないってことは、さっき、あの絵本を最後まで読んだんだね」


 蒼く光る瞳が、まっすぐにマシェリを見つめてくる。


「読み……ました。けれど、てっきりただの御伽話だと」

「あれは本当の話だよ。歌声の美しい少女と、水竜の間に産まれた『半竜』が、初代フランジア国王なんだ。その血を受け継いだ陛下も僕も、月明かりの下では本来の姿と魔力を取り戻せる。──満月の夜は特に。国宝の蒼竜石は、死んだ水竜の左眼でね。その片一方の右眼はまだ、この湖のどこかに眠っている」


 グレンが指で示した先を目で追えば、風の止んだ湖面に月が映っていた。


 そこから水竜が顔を出して来るのではないか。そう思うと少々腰が引ける。後退りしたマシェリの肩に、グレンの手が回されてきた。

 そのまま抱き寄せられ、マシェリの体はグレンの腕の中へすっぽりと収められてしまう。


「初めて会った時から君の事が好きだ。だから、君にも僕の全てを好きになって欲しい」


 見開かれたマシェリの新緑色の瞳に、湖面の僅かな飛沫が映る。月はただ静かに、広がっていく波紋を照らし出していた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ