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「せ、責任……って」


 マシェリは思わず後ずさった。が、下がったぶんだけグレンが距離をつめてくる。二、三歩いったところで壁に背中が当たった。


「綺麗だよね、マシェリの髪。本当に薔薇みたいな深紅だ」

「……!」


 マシェリを見つめるグレンの麗しい顔が、媚薬でも含んだようにとろんとしている。黒曜石の瞳が、長い睫毛の下で揺れていた。


(うっとりしてる……って、ことはやっぱり婚約の決め手は赤髪⁉︎)


 マシェリは混乱していた。もしそれが真実なら、グレンに婚約を破棄してもらうためには髪をバッサリ切り落とすか、違う色に染めるしかない。

 いやでも、髪は伸びるし、染めてもどうせ色は落ちる。大体、これだけ露骨に褒められた(もの)を粗雑にあつかうような真似をしたら、不敬とみなされてしまうのではないか。


「ちなみに僕、髪は長い方が好きだから。よろしくね、マシェリ」


 心の呟きに釘を刺されたようで、ぎくりとする。

 グレンはにこにこしながら身をかがめ、マシェリの顔を上目遣いで覗きこんできた。赤髪を手のひらにすくいあげると、見せつけるようにしながら鼻先にすり寄せる。


 マシェリは頰が引きつるのを必死に抑え、耐えていた。

 いくら顔が人並み外れて美しくとも、笑って許せる範囲はとうに超えてる。これがどこぞの貴族の坊っちゃんなら、とっくにひっぱたいてるところだ。

 だが帝国の皇太子は、涼しい顔でマシェリをさらに追いつめる。


「突き当たりにドアがふたつあったでしょ? 僕の部屋は、この部屋のすぐ隣なんだ」

「そ、そうなんですか」

「行くのに十歩もかからない。だからね、今夜僕の部屋に来てよマシェリ。本を読むか寝物語でも聞かせて、僕を寝かしつけて」

「今夜⁉︎ 今夜ってことは……まさか、夜ですか?」

「もちろん。さすがの僕も、昼寝をするほど子どもじゃないからね」


 グレンは煌々しい笑みを浮かべ、手にしていた髪をさらりとおろした。


「楽しみだなあ」

「……!」


 熱い眼差しに胸を射抜かれ、マシェリの頰が一瞬で赤く染まる。


「失礼致します」


 二回鳴らされた呼び鈴の後、応じたターシャに伴われ、ビビアンが部屋へ入ってきた。


「殿下、そろそろお時間です」

「分かった。じゃあ、僕は執務があるからもう行くよ。また後でね、マシェリ」


 グレンはにっこりと笑い、ビビアンとともに軽やかな足取りで部屋を出て行った。


(……子どもじゃないなら、寝かしつけもいらないでしょう?)


 そう叫べたらどんなにいいか。

 あの皇子様と密室でふたりきりなんて、無事で帰れる気がしない。登城たった二日目にして貞操の危機とか、まったく笑えない冗談だ。

 なんとか回避しないと、この先の人生計画に支障をきたす。

 マシェリは拳を固くにぎると、唇を噛んだ。






 引越しが一段落した夕方。相談役のルドルフがマシェリの部屋を訪れた。


 どうやら色々と事務連絡があるらしく、ドア越しでは済みそうにない。

 細かい片付けはターシャに任せ、マシェリはルドルフとともに昨日と同じサロンへ向かった。外はまだ明るく、シャンデリアは点けられていない。何となくホッとしながら、丸テーブルの席に着く。

 昨日は気づかなかったが、ここは護衛のための控え室に隣接しており、空いている時は近衛兵や騎士たちも利用しているらしい。時間をずらせば誰とも顔を合わせずに済むし、皇太子や皇帝が来ることもほとんどないため、内緒話にはもってこいなのだとか。

 なるほど、と感心しつつ、休憩室には不似合いなチェストについ目がいってしまう。


「どうぞ」


 ルドルフが慣れた手つきで紅茶をテーブルに置く。

 カップを傾けると、ふわりと湯気から柑橘の香りがした。今日はレモンティー、いや、オレンジティーだろうか。ルドルフは無類の紅茶好きというだけあって、毎回毎回、違う種類の紅茶を用意してくれる。


(……うん。今日もとっても美味しい)


「褒賞金の方は滞りなく手続きが完了しました。先にご説明していたとおり、数日後には小切手がテラナ公国のクロフォード伯爵家宛に届くはずです」

「分かりました。……でも、驚きましたわ。婚約者にまで褒賞金が出るだなんて」


 しかも、一週間城に滞在できた時の褒賞金に比べ、ひとつ桁が違っていた。父からの借金を一度で返してもお釣りがくるような大金で、つい何か裏があるのではと勘繰ってしまう。

 うまい話は徹底的に疑ってかかれ。それが元財務官たる父の教えだ。


「それだけ陛下がお喜びになっている、ということでしょう。何しろ殿下には今まで一度も浮いた話がなく、このままでは生涯独身で通されるかもしれないと、本気で心配なさってましたから」

「しょ……生涯独身って、まさかそんな」


 マシェリの背中に、嫌な汗が伝った。


(だからあんなに嬉しそうだったのね)


 マシェリは、『おめでとうございます』と言ってくれた近衛兵たちの笑顔を思い出した。


 次期皇帝が女嫌いで妃が決まらない。

 他国民にとってはお茶会の話題にのぼる程度の話でも、帝国で暮らす彼らにとっては深刻な問題だったのだろう。

 ビビアンや大臣たちとは違い、国益より生活の安定の方が大切なのだ。


(つまりこちらが国民の声)


 けれどグレンが背負っているのは、きっとその両方だ。

 国民の生活も国益も守っていける皇帝になるべく、努力を重ねていかなければならない。しかも、たったひとりきりで。


「殿下のお母様は……皇妃様はいつお亡くなりになられたんですの?」

「今から七年ほど前、殿下が七歳の時です。皇妃様は殿下と同じ、黒髪に漆黒の瞳をお持ちの……それは美しく、優しい方でした」


 そういえば皇帝の髪は鳶色だった。優しいかどうかは別にして、グレンの外見はどうやら亡くなった母親似らしい。


「そう……なんですのね。ルドルフ様は、その頃にはもう騎士に?」

「ええ。陛下に忠誠を誓い、城にお仕えしておりました」

「では、その頃の殿下の好みはご存知ですか? たとえば、寝る前によく読んでた絵本だとか」

「本?」


 正面のルドルフが目をまばたく。

 テーブルの紅茶を端によけると、マシェリは手をついて身を乗り出した。


「実は、殿下に寝かしつけを頼まれてしまって。どんな絵本を読もうか悩んでたんですの。ですから、もし知っていたら教えてくださいませ、ルドルフ様」

「ね、寝かしつけですか? しかし、殿下はもう十四歳でしょう。言葉通りに受け取るのは……その」

「いいえ。わたくしが頼まれたのはあくまでも、()()()寝かしつけです。それ以上でも、それ以下でもありません」


 そうきっぱりと言い切り、淑女の笑みを浮かべる。ルドルフが頰を引きつらせてマシェリを見た。


「それならちょうど良いものがあります。少々、お待ちいただけますか?」


 軍服の襟を正しつつ立ち上がったルドルフが奥の部屋に消えると、マシェリは椅子に座り直し、残った紅茶を飲み干した。


(わたくしが今守るべきは、お父様との約束と自分の貞操)


 だけど、祝いの言葉を裏切る代償くらいは払っていく。責任はちゃんととる。

 ようは、皇太子に新しいお相手ができれば良いのだ。


 マシェリに好意を持ったということは、グレンは決して女嫌いなわけではない。その事実はマシェリを窮地に追い込んだ原因であるとともに、ひとかけらの希望でもあった。

 情報通の母マリアの話では、五公国には十数人の公女がいる。

 その中から、皇太子妃に相応しいお姫様を見つけ出せれば。


(きっと皆、しあわせになれる)


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