プロローグ
「絶対に許さん」
金の装飾に彩られた謁見室に低音の美声が響く。
平伏した白髪の老人がびくりと肩を竦める。
口に広がる鉄の味。腫れた頰を引きつらせつつ顔を上げ、床に敷かれた蒼い絨毯の先に視線を向けた。
「テラナ公国の水脈は当分開放させぬからな。諦めてとっとと国へ帰るがいい」
その威風堂々たる佇まいは、なみいる敵兵を次々と斬り捨て、周辺国を力でねじ伏せた『冷血皇帝』の名に相応しい。
この場に一つしかない椅子に身を沈め、組んだ足の靴先で長いマントを踏みつけている。
鳶色の豊かな髭に埋もれた口をつまらなそうに結び、そこらの雑草でも眺めるかのように、縄で拘束された大公を見下ろす。
人を見下し慣れた為政者の目。
返答を求めないのは、こちらを床の塵なりと認識している証拠だろう。
一歩どころか身じろぎ一つで首が飛ぶ。
縛られた縄や鉄の足枷さえ、無意味に思えた。
「そっ、そこをなんとか。来月の雨季にもし雨が降らなければ、わが国の貯水湖の水は底をついてしまうのです。わたしに出来る事なら何でも致します。ですから陛下、どうか今一度お慈悲を……! 」
床に頭を擦りつけ、大公はかすれた声を上げた。
それを冷ややかに見下ろしていた皇帝が、目を細め、髭の先をゆっくりとさする。
「そこまで言うなら、お前の国で一番気の強い女を我が帝国に差し出せ。女嫌いも、男のような女であれば気に入るかもしれんからな」
口端を歪め、皇帝が愉しげに笑った。
この世界には、魔界と人界が陸つながりで存在している。
一番大きな大陸は蝶が羽根を広げた形をしており、西が魔界で東が人界。中央の高く険しいカルティア山脈を境に、きっちり二分されていた。
かなり危険なお隣さんではあるものの、太古に交わした『平和条約』のおかげで、今のところ人界と魔界の間に大きな争いごとは起きていない。
だがそれとは別に、人界には深刻な問題があった。
人界の気候には乾季と雨季があり、そのうち雨季は五ヶ月ほどと短い。この短い雨季にせっせと貯水湖に水を貯め、雨の全く降らない乾季に備えなくてはならなかった。
ただでさえ短い雨季。なのに雨が降らない事も多く、人界はしょっちゅう飢饉にみまわれる。
千年ほど前──人界側の大陸では、大小六つの領地に分かれて人々が生活していた。
未だ統治する王はなく、頻発する干ばつに皆が困窮していた。雨乞いなどに頼ったところで成果は得られず、また雨のない雨季が巡る。人々は頭を抱えていた。
そんなある日、魔界からふらりとやって来た水竜がとある湖に棲みつく。人界の中央にある、一番大きな領地の、一番大きな湖に。
平和条約では本来許されていない、魔物の移住だった。だが季節はちょうど雨季。またしても雨の降らない、役立たずの雨季である。
藁をも掴む思いの人々は『水』が名に付く魔物を、追い出すどころか貢ぎ物を捧げて祈り、歓迎した。
魔物に餌付けするなど、と眉をひそめる者もいた。しかし──人生何が幸いするか分からないものである。
貢ぎ物に釣られて湖に居座り続けていた水竜が、自らのすみかを快適にすべく、ついに重い腰を上げたのだ。
渇れかけた湖を水で満たし、他領地の貯水湖へ繋がる水脈まで作りだすと、人々は嬉々として水路を開いた。数年後、六つの領地すべてが飢饉の恐怖から脱する。もう、雨のない雨季に怯える必要もない。
その頃世界は、水と平和に溢れていた。
それが綻び始めたのは、それからさらに数百年経った後。現在から三十年ほど前の話である。
皮肉にも、そのきっかけを作ったのは水竜自身だった。
死期を悟った水竜が、自らの眼に魔力を込め、魔石を生みだしたのだ。すみかの湖がある大きな領地に建国した、フランジア王国に遺すために。
その魔石は『蒼竜石』と呼ばれ、国宝として代々国王に受け継がれることとなった。
竜の魔力が宿るこの魔石には、何ものにも換えられない価値がある。だから当然、城の宝物庫で大事に大事に保管されている……はずだった。
人間、『ダメ』と言われるとつい手を出してしまうものである。ましてや、年端もいかない子どもなら尚のこと。
幼い王子は無断で持ち出した国宝を手に、月夜の湖へ飛び出して行った。──予感があった。急かされるように、追い立てられるように走る。──早く、早く。
まんまる太った月の光が、翡翠色の鱗を照らし出す。王子の予感は的中した。初めて目にする水竜を前に、自然と笑みがこぼれる。
もう、うんざりだった。飽き飽きしていた。美味しい食べ物も、新しい玩具も、耳ざわりのいい褒め言葉も。
平和ボケした大人の澄まし顔を、めちゃくちゃに壊してやりたい。みっともなく命乞いをして泣きわめき、神にすがる姿が見たい。
蒼竜石を掲げた王子は、禁忌ともいうべき言葉を口にした。
その年の雨のない雨季、国となった五つの領地の一つが数百年ぶりの飢饉にみまわれる。国の命綱ともいうべき貯水湖が空になってしまったのだ。
王子が、口端を歪めて嗤う。
ためらうことなく水竜を操り、次々に水脈を閉じさせていく。
そこに、深い意味など特になかった。
数年後、平和だった大陸で初めて争いが起きる。水脈を閉じたと知った周辺国が怒り、王国に牙を剥き始めたのだ。
しかし、兵を率いて攻め入ったにも関わらず、結局何もできずに引き下がった。引き下がらねばならなかった。
王国は、周辺国の報復を予期していたのだ。
訓練の行き届いた多勢の兵と、城塞の如く護りを固めた王城の前で、即席で集められた周辺国の兵達はなすすべなく、返り討ちにあってしまったのである。
王国兵の指揮をとった鳶色の髪の王太子が、それは愉しげに笑う。──まるで、魔王の首でも獲ったかのように。
大義を果たした王太子は終戦後、フランジア国王陛下に即位。戦果と水資源を盾に五つの周辺国を次々と掌握し、王国の名をフランジア帝国と改めた。
狡猾さと残虐さを併せ持つ、フランジア帝国皇帝。カトゥール・ド = フランジアには誰も逆らうことができない。
(人の皮を被った悪魔め……!)
血の滲む唇を噛み、大公が拳を強く握りしめる。
「私の望みを叶えられるか?」
獲物を狩る目で聞かれれば、「御意」と応えるほかはなかった。