沈潜
二十一歳の彼女は高層マンションの十階にある一室を見回した。もう移り住んで二年にもなっただろうか。目の前には一面の強化ガラスがあり、彼女はそこから東京の夜景を見下ろすことができた。六時にもなると、目に飛び込むのは高層ビル群と、それらすべてを沈黙のうちに飲み込まんとする闇ばかりであった。彼女は目を細めた。ビルの赤いランプがぼかされる。二年間のつらい思い出が走馬灯のようによみがえる。彼女は悩んだとき、決まって部屋を真っ暗にして、夜景に向かって泣いた。泣き止むとふと我に返り、また部屋のライトをつける。その瞬間、彼女は夜景のことなどすっかり忘れる。実際、夜景のおかげで彼女の心が癒されたことはなかっただろう。ただ真っ暗であるほうが、彼女の大切な人の顔を夜景にありありと描き出せたから。
彼女はいま、その「大切な人」と険悪であった。二人は一度も契約を交わさなかった。お互いを友人とも、恋人とも位置付けなかった。そうしたほうが、関係がぷつんと切れることがないと思ったからだ。それで今険悪であるというのは、相手が自分を見捨てようとしていることを悟ったからだった。
もっとも、二人が顔を合わせさえすれば柔らかで温かな空気が流れていたに違いない。その気流とは別に、彼の表情のすみっこに無感情が潜んでいることを彼女は察知した。
原因はもっぱら自身にあると、彼女は思い込んだ。しばらくはいろいろと接し方を考えたが、疑心暗鬼は募るばかりであった。黒い涙にむせぶ高層マンションの夜は、以前なら彼の顔を見れば慰められたのに、今は彼の顔を思い出しはすれど、それはかえって彼女のけいれんを強めた。
時とともに彼女には退廃的な空気が漂い始めた。一緒に遊んでいる友人たちは「痩せたね、うらやましい」と口をそろえるが、彼女は神経質になっていて時に彼女たちに「うるさい、黙って」と彼女らしくない口調で言い返したりした。些細なはずみで彼の存在が頭に去来するのを彼女は恐れつつ、変な意味で待ち焦がれた。
永遠と永遠でないものとが彼女の中で意味を持ち始めたのは、悪い兆候であった。徐々に彼女の眼には妖気が漂い始めた。友人もこれはただことじゃないと思って、「困っていることがあったらいつでも相談乗るから」というものの、彼女は瞬き一つせぬいやに据わった眼を横に振るだけであった。
彼女は彼から逃げられた。当然のなりゆきであった。彼も彼女の異変に気付き恐れたに違いない。彼女は無茶に引き留めることはしなかった。その代わりに、彼女の妄想は爆発して現実を呑み込んだ。別れたバーでは店主にいかに彼が優しいかを、それを今も続いているかのような口調で語り続けた。
その後一週間、彼女は時泣かぬ時は大口を開けて笑うか、想像のうちの彼に甘言を垂れ流した。その程度は常軌を逸した。前後を見失った彼女はそれまで水商売で人気の娘であったために金には余裕があったのに、何に使ったのかもろくに覚えず散財してかなりの借金を背負った。
その夜、彼女はある男と待ち合わせをしていた。かつてのなじみの客である。雰囲気にどこか「大切な人」の面影があったからだ。
彼女は彼を殺し、自分も死のうと思った。バッグに忍ばせた包丁は彼に料理を作るときに使用したものだった。
彼女は異様に昂揚して彼を待った。なのに、彼が現れても気づかなかった。彼女の中で偶像と化した「大切な人」は、現前の彼とは似ても似つかぬものであった。彼女はにわかに興が冷めた。「大切な人」はもういないのだ。
それ以後、彼女は彼が死んだと思って生きていった。五年後の今は夫を持ち子供もいる。彼女は幻想と心中して、普通の人間に戻ったのだ。