日々の備えと黒い情報
それからしばらくはゆっくりと過ごした。
とは言っても、俺の部屋にはまだベッド以外の家具といえば、衣類を入れる木箱と洗濯用の盥くらいで、ガランとした部屋にいるのは寝る時くらいだ。
基本的には広い2階でルルと芝居の稽古をしていた。
稽古には、この世界に来てからやっていなかった筋力トレーニングを取り入れた。
役者の行う筋トレは主に2種類ある。
1つは、発声や姿勢制御に用いるインナーマッスルを中心に鍛える姿勢保持トレーニング。
もう1つは、身体を自分の思い通りに動かせるようにする反動トレーニングだ。
姿勢保持トレーニングでは、不安定な体勢で身体を緊張させ、微妙なバランスをとりながらインナーマッスルを刺激する。
片足で立って膝を曲げてみたり、肘と足の爪先だけで身体を保持してみたり。
1つのポーズで1分ずつくらい、同じポーズを何度も重点的に鍛えるのではなく、沢山の種類のポーズを短い時間行う事で、より多くの筋肉に刺激を与える事を意識して行う。
反動トレーニングでは、巷で良く知られている腕立て伏せや腹筋のトレーニングを、反動を使って行う事で、筋肉というよりは運動神経に刺激を与える。
腕立ての体勢でジャンプしてみたり、両手両足をピンと伸ばした状態で腰だけを接地して腹筋してみたり。
反動を使って、通常より運動強度を下げているので、回数を多めに設定して、次第に疲れてきてもずっと同じフォームを維持できるよう意識する。
役者が筋力トレーニングを行うのは、筋肥大が目的ではない。
勿論、人前に出るにあたって恥ずかしくないプロポーションを維持する、という目的で自重トレーニング以外のフリーウェイト等を取り入れる事もある。
が、主な目的は「自分の思い描いた通りに自分の身体を動かせるようになる」事であり、どちらかといえば、ダンサーや体操競技の選手が取り入れるメニューと似ているだろうか。
ルルは旅の間に取り組んでいた物真似の稽古が身体に馴染んでいたようで、俺がやってみせると、すぐに真似をして正確なフォームで身体を動かした。
ただ、1部のメニューはしっぽや羽が邪魔になったので、椅子等を使って工夫した。
他には発声のやり方も教えた。
腹式呼吸の仕組みを解説し、実践させる。
音を出さない呼吸、唇など身体の1部を震わせる共鳴、実際に声を出す発声と、段階を踏みながら効率的な身体の使い方を覚え込ませる。
重要なのは、ただ声にするだけにせず、声をどこまで届けるのかをしっかり意識させること。
対象物として前に立ってあげたり、真正面ではなく横や後ろに立って音は波が広がるように全方位に響くのだという事を理解させたり。
発声を舞台の上で意識の1番に持ってくる役者はほぼいない。
条件反射のように、意識しなくともある程度美しい発声を出来るようにならなければならない。
これも反復練習が必須だ。
美しい音が出せたか、しっかり意識した所まで声を届けられたか、ルールを設定してゲームのように整える事で、楽しく稽古できるよう工夫した。
ルルは音にはあまり敏感ではなかったようで、対戦相手をやってくれたアイリに勝てず、ひーひー言いながら罰ゲームをやっていた。
まぁ、音楽をやっているアイリでは相手が悪かったとも言えるだろうが………。
勿論、ずっとホームにとじ込もっていた訳でもない。
シェスカの仕事がない日には、外出もした。
食材を売っている店や、木材加工をやっている店、サカグチさんがタバコを卸している嗜好品を扱う店にも行った。
嗜好品の店で売っていたのは、タバコ以外に酒や甘味など。
試しにこちらのタバコを吸わせて貰ったが、フィルターがないせいか、元の世界の物と比べるとかなり重く、思いっきりむせてしまった。
葉巻だと思って吹かして吸うとマシになったが、日常に取り入れるには値段が高すぎるし、やはり重くてきつい。
シェスカが買ってくれた10本のタバコがなくなる日は、かなり先になりそうだ。
食材を扱う店では、勿論ガーフを購入してもらった。
俺がガーフを好んでいるとシェスカから聞いたらしく、アリシアの宿でもガーフを扱うようになったとも聞いた。
アリシアの宿に食事ついでに飲みに行ってもよいのだが、やはりガーフは毎日飲みたい。
嫌な顔1つせずに買ってくれたシェスカは天使だと思いました。
ある日には、シェスカがTシャツにパレオスカートという、明らかにエルロイファミリアで購入したと思われる服装で出かけた事もあった。
シェスカははっきりとは話してくれなかったが、徐々に情報は集まっているようだ。
そんなある日。
シェスカに言われて食堂に全員が集まった。
アリシアが差し入れてくれたサンドイッチとガーフを楽しみながら雑談をする。
「アイリは最近見なかったけど、何してたの?」
「実は………木材加工の店に通って、ギターを作って貰ってたッス」
「おぉ! 出来そう?」
「いやー、先は長いッスよ。きちんと仕組みを説明できる訳でもないし、試行錯誤ッス」
「そっか………楽しみだな」
「購入資金を貯める為に、シェスカと一緒に仕事も少しだけやってたッス」
「そっか………俺も早く働かなきゃな」
「ジルはダメ」
気合いを入れ直した直後にシェスカに否定され、気勢を削がれた。
「少なくとも、エルロイファミリアをどうにかしない限り、わたしは賛成しないから」
「そういえばアリシア。情報は集まってる?」
「ああ、今日はその話をしに来たんだ」
アリシアはカップをテーブルに戻し、男前に両手を組んでこちらを見つめる。
「結果から言えば、状況的には真っ黒。ただし、ギルドを動かせる程の証拠がない」
「証拠がない?」
「ああ、監禁して作業させてる現場を抑えたり、被害者の言質がとれりゃすぐなんだが………」
「状況的にってのは?」
質問を重ねると、アリシアとシェスカの2人が揃って顔を歪める。
不吉な気配に、こちらの顔も険しくなってしまう。
「失踪してる人間が街に何人かいるってのがわかった。被害者はだいたいが腕はいいが名が知られてない職人見習い。そして、そいつらの作品と似た物がエルロイの店で売られてる」
「なるほど………この短期間ですごいな」
「………身近に被害者がいたからね」
シェスカの言葉に、先ほどの不吉な気配が現実の物となった。
「ヨシムネさんの娘さんが行方不明なの。娘さんはモンブーミルクの加工品の改良等をやっていた職人で、エルロイファミリアが関わる店の売れ筋の1つに、モンブーチーズがある」
「な? 真っ黒だろう?」
アリシアは歪んだ笑いを見せた。
アリシアの顔を歪ませたのは紛れもない怒りであることは明白で、その威圧感はシェスカに匹敵する程だった。
作中で紹介したトレーニングは、筆者が現役の頃に行っていた物です。
念のためのご注意ですが、実践する際は作中の情報だけでは不十分です。
トレーニングの正式な呼び方等、必ずしも正確であるとは限らないので、自力で情報を集めて実践するのはお止めください。
怪我などのリスクを避けるため、必ず専門的な知識のある方の指導の元で行ってください。
また、同じく芝居に携わる方の中には、筆者とは違った意見の方も勿論いらっしゃいます。
ジルくんの言う事はあくまでも、筆者個人が正しいと信じる見解であり、演劇界の常識ではありません。
あしからず、ご了承ください。
それでは、
ここまで読んでいただきありがとうございました。
良かったら、次も読んでくださいね。




