火攻め水攻め
次に、倭建の一行が到着したのは、相模または駿河です。
何で曖昧なのかと言うと、『記』では「相武(相模東部の事)」、『紀』では「駿河」と書かれているからです。
この後に続く話を考えると、どちらとも決めがたく感じます。
その検証は、また後ほど。
さて、当地の領主(国造)に「野原の中にある沼に荒々しい神がいるので見る?」と言われ、倭建たちは野原に分け入っていきました。
これまで省略していましたが、倭建は地方の有力者だけでなく土地土地の神々も切って捨ててきたのです。
ところが、今回は逆に騙され、国造が野原に火を点けて、倭建たちを焼き殺そうとします。
周りを炎に囲まれて絶体絶命の大ピンチ!
その時、倭建は倭比売の言葉を思い出して、もらった袋の口を開けると、火打石が入っていました。
――「こんな事もあろうかと用意していた」という台詞が聞こえてきそうです。
早速、倭建は例の剣で身辺の草を払った後、こちらから火を点けて向かい火を作りました。
『紀』では、剣が自ら鞘から抜け出して、草を払ったという説を載せています。
という訳で、この剣は八俣遠呂智の頭上にいつも雲が掛かっていたので「天叢雲剣」と呼ばれていましたが、これ以降は「草薙剣」と呼ばれるようになりました。
ちなみに、一見自暴自棄な「向かい火戦法」は物理学的根拠があって、燃え盛る炎に向かう気流に乗って点けた火が進み、ぶつかった所で双方の火が消えるそうです。
こうして難を逃れる事ができた倭建は、国造一族郎党を切り殺し、焼き尽くしてしまいます。
それで、この土地を「焼津」と名付けました。
地名説話としては、珍しく無理のない設定です。(他は結構こじつけが多い)
なお、倭建が火攻めに遭った場所ではなく、反逆者を処刑した場所というのがミソでしょう。
焼津の殺戮後、倭建一行は走水海を船で渡ろうとしました。
現在の神奈川県横須賀市には東京湾に面した所に「走水」という地名があります。
『紀』では倭建が「こんな小さな海、跳んで越せるわ」と大言壮語したので海が大荒れになり、『記』では何の前触れもなく舟がグルグル回り、航行不可能となります。
そこで、倭建に付いてきていた弟橘比売命(前回言及した「あの女性」です)が「相武の炎の中でワテの身を案じてくれはったから」と歌った後、人身御供となって海を鎮めました。
そのお陰で、倭建は無事に対岸へ上陸できたのです。
(余談ですが、『筑前国風土記』に、狭手彦連が那古若を海の神に捧げて舟を助けたという瓜二つの話が載っています)
ともかく、焼津の時と言い、走水の時と言い、倭建は自分の力を全然発揮していません。
さてさて、保留にしていた「相武駿河」問題ですが、「焼津」を現在の静岡県焼津だとすると『紀』の「駿河」が正解なのではと感じる一方、弟橘比売の歌でもしつこく「相武」を推している『記』にも一本筋が通っている気がします。
焼津市民の皆さんが倭建命をお好きなら「駿河」で、こんな野蛮で人任せな皇子は嫌だと思うなら「相武」にしておいてください。