声を大にして言えない作品と、なろうの基準への疑問
書籍繋がりで考えた。
子供のいる前では、大っぴらに書籍名を言うことが出来ぬ。しかしながら、間違いなく名著と言える本が世界には在る。
そんな書籍を思い出したのは、先日に書かれた感想で、ドストエフスキーの【罪と罰】を読んでいるというユーザーの話から・・・。
話題に上がった【罪と罰】も、「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」などと、厨二病全開の・・・しかし、官僚だの政治家だの、てめえの特権が何のために与えられているのかを理解出来ぬ馬鹿野郎に、よく見られる思考回路だろう。
だが・・・【罪と罰】は、紆余曲折を経て主人公が改心する物語であったはず・・・。『ハズ』と言うのは、私はあらすじを掴む程度で、セリフの拾い読み、文章の斜め読みしたくらいで、終えてしまっている。
なぜなら、自分にも確かに潜んでる優越意識が表現されている事が、殺人を犯したことに対する苦悩にあえぐ主人公が、自分と重なってどうにも見ていられなかった。
しかし、忌避したくとも、度が過ぎると、むしろ引き込まれてしまう書が・・・毒書と言える様な・・・毒を通り越し致死量を超え、クスリになるのか、それともすでにあの世に到達してしまったのか、はてまたこれは真理なのか・・・そんな本が在る。
マルキ・ド・サド著:悪徳の栄え 美徳の不幸・・・これは子供には到底、見せられない書物だ。せめて高校を卒業してから読みなさい。
それはそうだろう。題名・・・著者名の時点で怪しい雰囲気が満点である。
そう、サド。加虐性嗜好を意味するサディズム。この語源になった人物であり、その評価を決めた著作だ。
この二冊。掻い摘めば、姉と妹、それぞれの物語。
姉は奔放・放蕩で売春・殺人すら問題としない悪徳の権化。一方の妹は、まさに絵に描いたような社会道徳の殉教者な美徳の者。
物語ならば、妹の方が救われそうだ。
されど、題名の様に、悪徳を是とする姉は、盗み・強盗・売春・殺人・・・ありとあらゆる手段を用いて伯爵にまで上り詰め。
一方で、美徳を重きに置く妹は、犯され、捨てられ、それでも品行方正であろうとしても、はてには重罪の濡れ衣を着せられる有様。
この様に――現実とは、人格者などいらぬ。人でなしこそが成功者になれる。という事実をありのまま映す。当時、作者サドは、気が狂ったと牢屋に打ち込まれ獄死という末路・・・。ちなみに投獄を命じたのはナポレオン・ボナパルト。
さて、本題に入ろう。
マルキ・ド・サドの著作・・・こんな書籍なのだが、ここ、なろうで表現すれば、いかがな扱いになるのだろうか?
作品の表現のために、性描写は書かれているが、成り行きとしてはまさに自然の流れ。人の営みで隣を見れば有り得そうな話。官能目的のエロ小説ではない。ありふれているが、されど描かれていることは到底、子供には見せられるものではない・・・エログロが・・・残酷がすぎる。
これはR-15で投稿が出来るのか?それとも、ミッドナイトか、はてまたノクターンにするべきか?
日本語訳の【悪徳の栄え】は、その出版で最高裁まで揉めた話なのだが、運営はそれを考慮して、熟慮の上に運営をしているのだろうか?
どうにも、一度投稿された作品をアリにしておきながら、あっさりと手のひらを返す様に削除・罰則の赤キップを出す運営は、そこまで考えている様に思えない。
ナポレオンの様になりたいのだろうか?一方的に権力をもって、作者を牢獄に打ち込む様な・・・。その様に思える。
私の杞憂であればいいのだが・・・。
うん、変な思考なんだろうなぁ・・・(;´д`)トホホ…