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07


 刹那――視線の先の先生の身体が跳ねるようにびくりと震え、その唇から一筋の血が零れ落ちる。そしてそのまま――こと切れたように動かなくなる……ナサニエル先生の姿。


「――あ……、ぁ」

 僕は一歩も動けなかった。怖くて、怖くて……。膝が震えて、少しも動けない。前に進むことも、逃げることも出来なかった。


「――せん、せ……」

 僕の頭に警鐘が鳴り響く。逃げろ、早くここから離れろと、僕の本能が告げていた。なのに――。


 燃え盛る炎の中――茫然と立ちすくむ僕の視線の先で――男は先生から剣を引き抜くと、煩わしげに血を振り払い鞘に納める。そして炎のせいでそう見えるのか……赤く揺らめくような瞳で先生を睨みつけたまま僅かに腰を落とし、息絶えた先生のローブの中をまさぐった。それはまるで何かを探しているように――。


 あぁ、早く逃げなければ。あの男はやばい。今ならまだ逃げられる。あいつは僕の存在にはまだ気が付いていない。

 けれどそうは思っても、やはり僕の足は地面に縫い付けられたように一歩も上げることが出来ず――そして、その男から目を逸らすことさえできなかった。


 ――動け、動け動け動け、僕の足……!

 僕は口の中で何度も何度も呟いた。念じるように――祈るように。


 迫りくる黒煙と熱風に、身を焦がしながら――。


 視線の先の男がゆっくりと立ち上がる。先生の身体から離れた男の右手が、空に向かってゆっくりと掲げられた。そして何かを確認するように、自身の右手を仰ぎ見る男の赤い瞳。――その手に握られたものに、僕は戦慄する。


 赤い火柱で彩られた漆黒の夜空、それと同じ色に煌き輝くソレは――間違いなく、ユリアにあてられた黒い宝石の首飾りで。焔の色さえもろともせずに、凛と輝く黒曜石で。――男の唇が、にやりと歪んだ。


「――っ」

 気が付けば、僕は走り出していた。先ほどまでの恐怖が嘘のように――ユリアのことを思い出した僕の足は、まるで僕とは別の生き物になったかのように勝手に地面を蹴っていた。

 自分はどうするつもりなのか、どうしたいのか、それさえももうわからなかった。けれど、何故か思ったのだ。首飾りを取り返さなければ――と。


 僕は一直線に駆け抜ける。男めがけて。そんな僕の存在に気が付いたのか、男の視線が自分の右手から僕に向かって据えられる。男の両目が――まさか露ほども予想していなかったであろう僕の登場に――大きく見開かれた。


 ――だが、もう遅い。僕の足は止まらない。

 よく見れば赤いのは片目だけであるその男の顔が、驚きに満ちたように歪められた。首の後ろでくくられた金の髪が揺らめき、その右手が剣を引き抜こうと腰に伸びる。けれどその咄嗟の判断のせいで、男の右手からユリアの首飾りが飛び出した。闇色に輝くその首飾りは、そのまま地面へと落ちる。僕はそれを見逃さない。


 男も気が付いたのだろう。僕の狙いが首飾りだと。彼は結局剣を引き抜くことなく、地面に落ちた首飾りを拾おうと手を伸ばす。


 ――くそっ、間に合わない……!


 僕は地面を思い切り蹴った。そのまま首飾りに手を伸ばす。――そして同時に、どこからともなく飛んでくる一本の矢。それは僕ではなく男を狙っていたようで――男の頬を掠めると、その先の大木へと突き刺さった。


 僕の手に――首飾りが握られる。男の顔が引きつった。けれど、もうそいつの目は僕の方を向いていない。男の視線は、矢の飛んできた森の奥へと向けられていて――。


 誰だか知らないが助かった。僕はそのまま踵を返し、そこから逃げるように走りだす。


 ――あぁ、ユリア。


 僕は一度も振り向かなかった。遠く離れた背後から、ごうごうと炎の燃える音と共に剣の交わる金属音が僕の耳に届いてくる。それは激しく、鋭く、何度も何度も鳴り響く。

 そして誰も、僕を追って来なかった。


 ――もうすぐだ、湖は、もうすぐそこだ。


 僕はひたすらに走り続けた。炎の中を、燃え盛る木々の間を――。

 僕の肌を焦がす赤い焔。喉を焼く煙。首飾りを握り締めた右手は酷く汗ばみ、息をすることも出来ないくらいに心臓が痛い。そしていつしか全身が熱に侵され、足の感覚すら無くなった。音が聞こえなくなる――自分の息遣い、それすらも。


 それでも僕は走り続ける。ユリアを抱きしめる為に。僕のこの腕に、彼女を抱きしめる為だけに。


 そしてとうとう――僕の視界が、開けた。


 そこには夜空の色の水を一杯に湛えた巨大な湖が、赤い焔の中にぽっかりと浮かんでいた。漆黒の夜空に輝く丸い月を映し出した湖は――炎に揺らめきまるで日蝕の様だった。


「ユリア――ッ!!」

 どこだ、ユリア、君は一体どこにいる――!?


 僕は湖の岸にそって彼女の姿を探して走る。――そして、遂に…………彼女を――。


 ――なのに。




「…………ユ……リア……?」


 僕はそこで、動けなくなってしまった。視線の先に横たわる、彼女の姿に。……変わり果てた、ユリアの姿に。


「……あ……、あ――」


 火傷で全身を赤くして――地面に倒れた、君の姿に――。


「……ユ……リ……」


 刹那、ガクン――と、僕の視界が斜めに傾く。そして気が付けば、僕は枯れ草の地面にうつ伏せで転がっていた。立ち上がろうとしても、身体に少しも力が入らない。まるで身体が立ち方を忘れてしまったように、足の力が入らないのだ。


 ――あぁ、ユリア。どうして……。


 僕は必死で身体を引きずる。彼女に、触れたくて。彼女を、抱きしめたくて。


 僕は――手を伸ばす。いつの間にか、さっきまで右手に握り締めていた筈の首飾りは、ユリアの側に転がっていた。


「……は、……ぁ」


 ――熱い、熱い。息が、出来ない。ユリア、君は――死んだのか……?


 必死に伸ばした僕の指が、彼女の髪に触れた。美しかった彼女の星色に煌めくような髪は――もうその面影を残していない。けれど、天を仰ぎ見るように仰向けで地面に横たわる君の顔は……どうしてだろうか、いつもみたいに……微笑んでいて。僕に見せる、いつもの笑顔で……。


 ――あぁ、ユリア、君はどうして。


 どうして、笑っているの……?


 僕は彼女を抱きしめる。そして薄い毛布一枚だけを身体に羽織ったその姿に、僕は悟った。彼女に、何があったのか。


「……っ」

 あぁ、そうか。だから、だから君は死を選んだのか。だから、湖に入らなかったのか……。なのに、どうして、君はやっぱり……笑ってる。


 彼女の微笑みが……僕の心臓を酷く締め付ける。もう、涙すら出なかった。全てを焼き尽くす焔が、僕の涙すら乾かしてしまうから。


 怖かっただろう?熱かっただろう?あぁ、――ユリア、ユリア……ごめんね、ユリア。全部全部、僕のせいだ。


 燃えるように熱い彼女の身体を、僕は強く抱きしめる。固く閉ざされた目蓋は、もう二度と開かない。二度と――彼女の水面のような澄んだ瞳に、僕の姿が映し出されることはない。


「……ユリア」

 口から零れた彼女の名前は、酷く掠れて自分ですら聞き取れないような声だった。だけど、それでも、僕は何度でも彼女を呼ぶ。


 きっと彼女も、僕の名前を呼んだだろうから。僕に助けを、求めたんだろうから。


 ごめんね、ユリア。遅くなって。間に合わなくて……こんなことになってしまって、本当に……。


 祈るように胸元で重なる彼女の両手。そこに握りしめられているのは、去年僕が君に渡した、青い髪飾り。ラピスラズリの――そう、それは君の、誕生石の。


「――ユリア」


 闇夜に燃え上がる炎の中で、髪飾りが月の光に青く煌めいた。それはユリアの瞳と同じ色。――天高くどこまでも澄み渡る空の様な、全てを鎮める湖の透明な水面の様な……僕の一番、好きな色だ。


 僕は彼女を抱きしめたまま、ゆっくりと空を見上げた。暗い、赤い、夜空を――。丸い月だけが浮かぶ、あの日二人で眺めたような星空を。そして――。


 再び腕の中に眠る彼女に視線を落とせば、彼女はやはり微笑んでいて……僕は、決意した。


 側に落ちていた黒い首飾りを拾い上げ、彼女をしっかりと抱きしめて――僕は最後の力を振り絞る。僕は君を放しはしない。――もう二度と。


 感覚の麻痺した両足に力を込めて、僕は音もなく立ち上がった。そして、一歩――また一歩と踏み出す。湖に、向かって。首飾りを、強く握りしめながら。


 そうだ。君に託されるはずだったこの首飾り。もしもこれが君を殺してしまったと言うのなら、これは僕があの世へと持っていく。この世界から、消してやる。君を苦しめるものは全部全部、この僕が消し去ってやる。


 あぁ、ユリア。すぐに行くよ。君の、元へ――。


 僕は彼女を抱えたまま、暗い湖に足を踏み入れた。冷やりとした感覚が僕の足に伝わり――心地よささえ感じる。火傷が染みる筈なのに、もうそれすらも感じない。


 自分の命が長くないことは理解していた。だから、せめて僕は、最後まで君と共に。


「――愛しているよ、ユリア」


 僕の胸辺りまである水が、ユリアの髪を濡らして水面に漂う。


 あぁ、あと一歩。もう一歩踏み出せば――僕らは永遠に一緒になれる。そうだ、だって約束しただろう?僕らはずっと一緒だと。永遠に、共に生きるのだと。――だから。


 僕は遂に最後の一歩を踏み出した。足の下の水底の感覚がなくなる。僕の視界が一瞬で暗く染まった。口や鼻から、冷えた水が僕の肺へと流れ込んでくる。息はすぐに、出来なくなった。


 ――あぁ、ユリア。僕のユリア。愛しているよ、君のことを心から。この世界中の誰よりも、何よりも、君の幸せを願っている。だけどごめん。僕は君との約束を守れなかった。君を守ると誓ったのに、決して君から離れないと約束したのに。


 だからきっと次こそは、その約束を果たすと誓う。僕はもう二度と君から離れたりしない、君を放したりしないから。だからユリア、待っていて。僕のことを忘れないで。僕が君をもう一度愛するその時まで――君は……。 


 僕の意識が薄れていく。腕の中の彼女の顔が、視界が歪んで――見えなくなる。けれどそんな朦朧とする意識の中、右手に握る黒曜石が白銀のように輝いた。それは――僕の幻覚なのか、幻想なのか、……もうそれすらもわからない。そんなこと、もうどうでもいい事だ。


 僕は、薄れゆく意識の中で、腕の中のユリアの唇に、そっと口づける。


 ユリア――どうか、忘れないで。僕のことを。僕が君を愛したことを。君を心から愛する、愚かな男がいたことを――。


 僕はゆっくりと瞼を閉じた。


 必ず、君を迎えにいくよ――。そう誓うのと同時に――僕の意識は、深い湖の底へと沈んで行った。


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