02
それを合図に、馬車の速度が緩まった。
「おはようございます、旦那様、奥様、それに坊ちゃまも」
「おはよう、ライオネル」
「朝早くからご苦労だったな」
ライオネルは現在ウィンチェスター侯爵家に仕える騎士だ。だが、今日のように国家行事のある時は王城に赴き警護の任についている。その為、今朝は侯爵邸を早くに出発したのである。
ライオネルは主人からの労いの言葉に、いつものごとく裏表ない爽やかな笑みを返した。
「無事この佳き日を迎えられ、心よりお慶び申し上げます」
「ああ。そうだな」
「ありがとう、ライオネル」
ライオネルの笑顔に、ウィリアムとアメリアは先ほどまでの言い争いなどすっかり忘れてしまったようだ。いつものように仲睦まじい両親の様子に、ノアは満面の笑みを見せた。
「ねぇライオネル、仕事はもういいの?」
窓から顔を覗かせたノアが尋ねると、ライオネルはどこか悪戯っぽく微笑む。
「ええ、旦那様がたがいらっしゃるのに僕がお出迎えしないわけにはいかないですから。抜けてきてしまいました」
「じゃあこの後は一緒にいられるの?」
「うーん、それはどうでしょう。僕は参列を許されておりませんので。ですが、帰りはご一緒できると思いますよ」
「そっか!」
「そう言えば坊ちゃま。先ほど王女殿下付きの護衛が申しておりましたよ。王女殿下は既に首を長くしてお坊ちゃまをお待ちだと。本当に仲がよろしいのですね」
「うん!僕、グレース様大好きなんだ!今日はおくりものも用意したんだよ!」
「それはそれは。喜んで下さるといいですね」
「うん!」
馬車はゆっくりと王城へ向かっていく。それは日常となんら変わらない、微笑ましい会話と共に――。
*
王子誕生の祝いは、王城の広間にて滞りなく開始された。本日招かれている参列者は、王族と関りがある貴族の中でも主催であるアーサーと気の置けない間柄の者が殆どである為、雰囲気は和やかなものである。
ウィリアムらが会場に入ると、既にアーサーは大勢の者に囲まれ祝辞を述べられていた。ウィリアムもそれに続こうとする。と、それより前にアーサーとバチンと目があった。
「アーサー」
「来たか、ウィリアム」
そう言って二人が微笑み合うと、それを合図に人の波が引いていく。
「改めてお祝いを言わせてくれ、本当におめでとう」
「ああ、ありがとう」
アーサーは未だ国王には即位していない。現国王はなお意気軒高である為だ。
アーサーがまだ王太子という身分であるから、二人は今も昔のまま良き友人として付き合い続けている。とは言えこの二人に限って言えば、例えアーサーが国王に即位したとしても接し方が変わる訳ではないのであろうが。
「この度はおめでとうございます。心よりお喜び申し上げます」
ウィリアムの傍らでアメリアもふわりと微笑めば、アーサーもそれに喜びの意を返した。
アメリアは続ける。
「ところで、妃殿下はどちらに?」
「ああ、向こうのテラスにいる。先ほどエリックが泣き出してしまってな。侍女とあやしに行っている。グレースも一緒だ」
そう言いながらテラスに向けられるアーサーの眼差しは、あたたかな優しさで一杯だ。テラスの奥にいるのは――産まれたばかりの王子エリックを抱く王太子妃――カーラの姿。
――今より5年前、アーサーとカーラは婚姻を結んだ。
ヴァイオレットがこの国を去ってからというもの、アーサーは表にこそ出さないがそれはそれは意気消沈していた。それを必死に慰めたのがカーラである。
とは言え彼女はアーサーに恋心を抱いていたわけではなかった。憧れこそ抱いていたが、決して慕っていたわけではない。アーサーに女性遊びの趣味がある噂は聞いていたし、ウィリアムの手前、深く関わり合いになることも避けていたからだ。のにも関わらず、彼女はアーサーを慰め、元気づけようとした。愛する人と共にいられない痛みを深く理解していた彼女は、アーサーを放っておくことができなかったのだ。
アーサーはダミアでの一件以来、周りに気を配らねばならない立場に立たされた。町は焼け、住民に死者はおらずとも負傷者は多数、自らの抱える騎士も数名が命を落とした――その責任を感じていた。傷ついた心を抱えながらも、一人自室に閉じこもるようなことは許されなかった。例え周りがそれを許したとしても、自らがそれを許すわけにはいかなかった。復興の指揮と事件の後始末に半年以上の月日を費やし、失われた命の弔いと――残されたその家族一人一人に悔やみの言葉をかけ、月命日には自ら足を運んで花を添えた。休むことも――泣き言一つ言うことすら、彼はしなかったのだ。
勿論ウィリアムやアメリア、そしてエドワードやブライアンはそんなアーサーを支えた。公爵位を継いだヘンリーもまた同様だ。けれど彼らは事件の当事者のようなもの。ルイスやナサニエル、そしてローレンスやエリオット――彼らについて知り過ぎてしまっていたし、芳しくない状況を理解し過ぎてしまっていた。だから、あまり軽々しい言葉を吐くわけにもいかなかった。
ましてウィリアムは、アーサーがヴァイオレットを失ったように、ルイスを失ったのだ。二人の痛みはあまりにも大きく――けれどウィリアムにはアメリアがいた。これを難しい立場と言わずして、何と言うのだろうか。けれどそれを救ったのが、事情を何も知らないカーラだった。
彼女は文字通り、何の事情も知らなかった。事件当時彼女は両親と共に保養地に行っており、事件のことを知ったのも王都に戻ってからのことだった。けれどそんな彼女もこれだけはすぐに理解した。エドワードとブライアン、そしてウィリアムやアメリア、彼らが誰一人として保養地に来られなかった程の重大な何かがあったのだろう、と。
勿論それがアーサーと関わることだとは知る由も無い。だがその後のエドワードやブライアンのアーサーに対する態度によって、それがアーサーとも深い関わりあいがあることを察した。そして、それまで片手間だった執務を真面目にこなし、女遊びも一切やめ、やや横柄であった態度も改めたアーサーの姿に、けれどその横顔に垣間見える深い悲しみに、カーラは自らの心が揺れ動かされていることに気づいたのだ。
カーラはアーサーを慰め、元気づけた。深い事情は尋ねず、暇を見つけては兄と共にアーサーの元を訪れた。侯爵夫人である母親やアメリアに習い身に着けた社交のすべと教養をもとに、アーサーが少しでも気分転換できるように努めた。アーサーの苦悩の正体が一体何であるのかを、自ら物事を広く学ぶことによって知ろうとした。それは、カーラの持つ純粋さ故だった。
そうしていつしか、そんなカーラに心を惹かれたアーサーが彼女に婚約を申し入れ、今に至る。
16歳だったカーラも今は22歳。あどけなさの残るあの頃と違い、彼女は美しく成長した。今は王太子妃として、貴族の夫人たちの先頭に立つ役割を立派にこなしている。
――アーサーはテラスの向こうの暖かい日差しに目を細めると、その視線をアメリアの隣に立つノアへと落とした。自分を前にして緊張を隠せない様子のノアに、凛々しくも優しく微笑みかける。
「ノア、いつもグレースの相手をしてくれてありがとう。礼を言う」
「こ……こちらこそ、王女殿下のお相手をさせていただけて、とても光栄です」
「そうか。では今日も相手をしてやってくれるか?向こうのテラスで君を待っているから」
その言葉に、ノアは満面の笑みを浮かべた。「はい!」と元気よく返事をするとテラスへ走っていく。アーサーはその小さな後ろ姿を満足げに見つめながら、ウィリアムへ向かって呟いた。
「あの子はお前と似てないな」
「そうか?」
「ああ。お前のように捻くれたところがない。夫人に似たのだろうな」
――夫人とは勿論、アメリアのことだ。
ウィリアムは冷笑する。
「……ふ。その言葉、そのまま君に返すとしよう。エリック王子が君に似ないといいのだが」
「なんだと?」
「言葉の意味そのままだ。だってそうだろう?アルデバラン公がぼやいていたぞ。
然る公国からの側妃の申し入れ――返事を決めかねているそうじゃないか。聞けば大層な美姫だとか。まさかとは思うが、カーラを差し置いて――」
「――な、ない。あるわけがないだろう。政治的な問題だ。お前だって知っているだろう!公国からは三代に一度王家に姫を迎え入れることになっているんだ」
「……わかってはいるが」
「俺には弟がいないからな。はっきり言って困っている。……今さら母上にもう一人産んでいただくわけにも」
「……はは、冗談だろう」
「勿論冗談だ。……そこで、一つ相談なんだが」
「……何だ?」
アーサーは、ウィリアムに耳打ちする。
「エドワードかブライアンに娶ってもらうというのはどうだ」
確かに未だ婚約者すらいないのはエドワードとブライアンくらいなものだ。しかも二人なら、長男でないため爵位こそ告げないが今では立派な王太子妃の兄だ。王族の血筋ではないが、王家の一員と言っても過言ではない。
だが、ウィリアムはその言葉をすぐさま否定した。あの二人には無理だろう、それこそ何の冗談だ――と。その言葉に、アーサーは肩を落とす。予想済みではあったが、やはり無理か――と。
そんな二人の冗談か本気かわからないやり取りを横目で見ながら、アメリアは短い溜め息をついた。この二人は祝いの席でなぜこのような話をしているのだろうか、と。
もう勝手にやってくれ――。アメリアは半ばあきれ顔で二人の傍を離れる。彼女は息子ノアを追い、カーラの待つテラスへと向かった。
*
テラスへと一歩足を踏み出せば、爽やかな春風が首元を駆け抜けていった。アメリアのサファイアのイヤリングがきらりと揺れる。
彼女の視線の先には、自分に背を向けて庭園を眺めているカーラの姿。髪は後頭部でやや緩めに結い上げられ、そこには大小さまざまなパールがあしらわれた細工の凝った髪飾りが煌く。ドレスは桃色がかった薄いベージュで、動きやすさも兼ね備えたシンプルかつ優雅なシルエットだ。子を腕に抱くことを考慮しているのだろう。
「妃殿下」
アメリアはカーラを驚かさないようにゆっくりと近づく。そうして、彼女の横から声をかけた。
「まあ、アメリア様」
カーラはゆったりとした動作で身体をアメリアへと向ける。その腕の中には、すやすやと眠る赤子の姿があった。アーサーと同じ銀色の髪、目は閉じていて色はわからないが、顔立ちは中性的だ。赤ん坊なので当たり前だが、これは将来美しい王子に成長することだろう。
「エリック王太子殿下のご誕生、心よりお慶び申し上げます」
アメリアが祝辞を述べると、カーラはふわりと微笑んだ。
「ありがとう、アメリア様。でも、妃殿下はおやめになって。今は私達だけですもの、いつものように、カーラと」
「では――そのように、カーラ様」




