08
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まだ夜も明けきらぬ頃――ヴァイオレットは静かに宿を後にした。ベッドの上で静かに寝息を立てているアーサーを一人残し、ほんの今しがた窓から見えた、この町を後にしようとしているのであろう馬に跨るルイスの背中を追って。
「さようなら、アーサー様」
彼女の頬には一筋の涙の痕がある。それは彼女のアーサーへの強い想いを表わしていた。ベッドの中で、「すぐにとはいかないだろうが、君を結婚相手にと考えている」と、そう言ったアーサーの自分への気持ちと寸分違わぬ程の、狂おしい想いを。そして、そんなアーサーの言葉に一言も返すことが出来なかった、苦しい胸の内を嫌と言う程に。
――私、子供を産めませんの。
そう言わなければならなかった。そう言って、彼を、そして自分自身のこの気持ちを諦めさせなければならなかった。アーサーが“結婚”と、その決定的な一言を口にしてしまうその前に。いや――本来ならそれよりもずっともっと前に伝えておかなければならないことだった。昔の事故の後遺症で、二度と子供を望めぬ身体になってしまったことを。
だが彼女はどうしてもそれを伝えられなかった。なぜならそれを言えば、アーサーを悲しませることがわかっていたから。「それでもいい」と言わせてしまいそうな程に、彼の自分への想いが強いと確信してしまっていたから――。
「……どうか、お元気で」
馬に跨った彼女は暗闇の中、宿を振り返り別れの言葉を呟く。元よりアーサーとは別れるつもりだった。それに、ルイスがウィリアムやアメリアらと別れナサニエルを追うつもりならば、自分もそれに着いて行こうと――真夜中のアメリアとルイスの話を廊下で扉ごしに聞いてしまったときから、彼女はそう決意していた。どうしたってもうこれ以上、アーサーの傍に居ることは許されないのだから。
――彼女はどこか名残惜しそうに空を見上げる。
もう間もなく日が昇るだろう。それまでに町を出てしまわなければ。彼女は今度こそ意を決し、森の方角へ向かったルイスを追いかけるべく手綱を引いた。
*
「――ルイス!」
それはあまりに突然だった。よく聞きなれた声だった。十五年、聞き続けてきた主の声だった。だからルイスは、思わずその名前を口にせざるを得なかった。
「……ウィリアム、様」
東から太陽が昇ろうとしている。そのぼんやりとした光に照らされて、目の前に突然現れた人影は間違いなくウィリアム・セシルだった。
「……何故、ここに」
ついつい間の抜けた声を発してしまう。だが、それは無理もないことだった。一体どうしてこんな時間に、そしてこんな場所にウィリアムがいるのだろうかと、宿から離れた町の外れに彼が現れるのかと、それを不思議に思うのは自然なことなのだから。
だが、ルイスはすぐにその理由に気が付いた。――あぁ、アメリアとの会話を聞かれていたのだな、と。
「ナサニエルを追うんだね」
「――」
そしてこの言葉に、もう一つの事実に気が付く。この男はウィリアムではない、エリオットの方だ。ルイスは眉をひそめる。
「何をしに来た」
「何をって……。君、随分薄情だな。ウィリアムに別れの挨拶の一つもないのかい?君たちの縁ってそんなものだったの?」
「……」
朝日にぼんやりと浮かび上がるエリオットの顔は、皮肉気に笑っていた。それはウィリアムであったなら決して見せることのない表情だった。少なくともルイスは、一度だってウィリアムのこんな表情を見たことはない。
「僕に……ウィリアムと別れの抱擁でもさせる気なのか」
ルイスは馬から降りる素振りも見せず、エリオットを見下ろす。それはどこか高圧的に、わざとらしく。
「まぁそれも悪くない。ウィリアムは君と話をしたいと思っているしね。
……だけど僕は違うよ。ルイス、君はもしかして本当に忘れてしまったのかい?僕は、君は町を出る前に絶対に僕のところに来ると思っていたんだけどね」
「……」
そう言いながら、エリオットは馬に近づいてくる。そうして胸元から何かを取り出した。
「……それは」
それは黒曜石だった。ソフィアの力を宿した黒曜石。エリオットから奪還する筈だった、母親の遺品だ。
朝日に輝く石から視線をそらすルイスに、エリオットは続ける。
「これは君の物だ。君は僕や彼女に気を使ったつもりかもしれないけれど、置いていってもらっちゃ困る」
そう言って、馬上のルイスを睨みつけた。
「確かにこの力を君に返せば僕は消える。でも、それが本来のあるべきかたちだ。本来なら僕の意識は、この石と関わらなければ千年前に消えて無くなる筈だった。今の僕は存在しない筈だったんだ。それに、彼女だって左目の力を君に返しただろう。それなのに、僕だけがこの力を持ち続けるわけにはいかない」
「だが……それではユリアが……」
「甘えるなよ!それで彼女の今までの苦しみが無くなるとでも思ってるのか!?彼女があんな言い方をしてまで君を送り出したのは、君に目的を果たして欲しいと思っているからだ!君に幸せになって貰いたいと願っているからだ!」
エリオットは声を荒げ、馬上のルイスの胸ぐらを掴んで引き寄せる。
「僕は消える。それでいい。彼女には手紙を書いてきた。彼女のことだからとっくに読み終えているだろう。でも、彼女は僕を追っては来ない。彼女にとって僕はもう過去なんだ。彼女にはウィリアムがいる。
だから君も前を向け!僕のようにいつまでも過去に縛られるな!同情なんてくそくらえだ!」
「……っ」
「それに僕はとっくに知ってるんだ。君の身体の不調はソフィアの力のせいなんだろう。中途半端に維持しているから身体が保たないんだ。この僕の力と、アーサーの右目……それで全て揃う。バランスが整えば、君の命は保持される」
「何故……それを」
確かにその通りだ。ソフィアの七つに分かれた力。それが揃えばそれぞれがそれぞれの力の波長を調えあい、それこそ結果的に、ソフィアのような長命となることだろう。今までのように、一部の力が暴走し身体を侵すこともなくなる。
「ナサニエルに聞かされた。あの森の屋敷でね。そんな嘘ついたって何の利益にもならないし、事実だろうって。……それに」
そう言って、エリオットはルイスの胸ぐらを掴む右手をようやく放した。そして、胸元からあるものを取り出す。それはナサニエルから渡された懐中時計。エリオットはその時計の二つあるうちの小さい方のネジを三度引いた。すると――。
「これは……」
この時計は仕掛け時計になっていたのだ。スライドした時計の底には一人の女性の肖像画が描かれていた。その女性こそ、まさしく――。
「……母上」
ルイスは呟いて、ぐっと喉を詰まらせる。
「そうだよ。これは君の母親だ。そしてこの時計はナサニエルから渡されたもの。君には見覚えがあるはずだ。
――わかるだろう?彼は本当はソフィアを……」
「……」
それ以上は言われずとも十分だった。何とも思っていない相手の姿を、いつも身に着けておく時計に描く筈がないのだから。
ルイスはエリオットから時計を受け取り、強く強く握りしめた。両目を固くを閉じ――何かを誓うように。
――そうして……。
「――ルイス!」
その誓いが確かになるのを待っていたかのように、二人に追いついてきたのはヴァイオレットだった。いくらかの荷物を馬に括り付け、これから旅にでも出るのかという出で立ちに、二人は悟る。
――彼女もまた決意したのだ、と。
「ご一緒させて頂きますわ」
そう言って、馬をルイスの横に並ばせるヴァイオレット。その顔には凛とした笑みが浮かべられていた。
「僕が断っても?」
「ええ。私、例えあなたが嫌がったって勝手に着いていきますわよ」
その言葉通り、ヴァイオレットは迷いのない眼をしている。
彼女は選んだのだ。アーサーの傍で生きるよりも、ルイスと共に行くことを。皆、それぞれの道を自ら選んで進むことを――。
「それじゃあ、僕はそろそろ逝くよ。君も最後にウィリアムと話したいだろうし」
「――あぁ。だけど、本当にユリアのことはいいのか」
「君も結構くどいんだね。いいって言ったろう?千年彼女を追いかけていた僕が言うのもなんだけど、あんまりしつこい男は嫌われるしね」
「……そうか」
そう言って、二人はどこか吹っ切れたように微笑み合った。
「じゃあ、元気で。ヴァイオレット、君もね」
「……ああ」
「ええ、あなたも、どうか安らかに」
ルイスとヴァイオレットは、その最後を見届けるようにエリオットをじっと見つめる。
エリオットはそんな二人に見守られながら、ゆっくりと目を閉じた。この身体をウィリアムに返す時間だ――と、一人心の中で呟いて。アメリアの幸せを願い、ただそれだけを祈り、静かに静かに眠りに落ちる。
――さようなら、と、この世に別れを告げる。
そこにあるのは悲しみではなかった。なぜなら彼は、彼の魂はウィリアムの中で生き続けるのだから。そしてアメリアの中の思い出と共に、生き続けるのだから。
「ありがとう、エリオット」
ルイスの声が、――その今までにない優しい声音が、エリオットの魂を優しく包み込む。
本当ならアメリアから貰いたかった筈のその言葉。けれど、そうでなくてもエリオットにはもう十分だった。長い長い、千年もの時間から――彼はようやく解放されるのだから。
――眩いばかりに光る、首にかけられた黒曜石の輝きが収まるのと同じくして、ウィリアムの中からエリオットの意識がすっかり消え失せる。エリオットの魂がウィリアムの魂と一つになり、本来のかたちを取り戻す。ソフィアの力が、黒曜石に戻っていく。
そうしてルイスとヴァイオレットが見守る中、ウィリアムはゆっくりと目を開けた。




