07
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外は暗い。ウィリアムと別れた私は、一人宿の個室の窓から外の景色を眺めていた。
「君が一人になりたいと言うなら構わない。だがその前に、せめて医者に診てもらってくれないか」――そう言って、心配そうに私を見つめる彼の瞳が私の脳裏から離れない。けれど私は、その必要はないとわかっていた。ソフィアの――顔さえ知らない千年前の自分の母親の血をこの身に吸収した瞬間から、そんなものは無意味になったのだと、私は確かに理解していた。
かと言って、この身体の寿命が延びたわけではない。ソフィアやルイスのように、長い時間を生きられるようになったわけではない。ただ、ナサニエルから受けた銃の傷がきれいさっぱり無くなっただけ。失われた筈の大量の血も、今は何事もなかったかのように、確かにこの身に流れている。
「……」
私は悩んでいた。銃に撃たれる寸前に思い出してしまった古の記憶を……今の状態のルイスに伝えるべきかどうか。否――本当は答えなど一つしなかない。私は彼に話さなければならない。ユリアが死んだあの日のナサニエルとの記憶を、一つ残らず全て。「誰にも言ってはなりません、そう、誰にも」――と、苦悩の表情を浮かべ、まるで私に懇願でもするかのように告げた、ナサニエルの言葉を。
そうでなければ、ルイスは立ち直ることが出来ないだろうから。このまま私が口を閉ざせば、母親に置いていかれた子供のようにナサニエルの背中を見つめる森でのルイスの寂しい心を、救うことなど出来はしないのだから。
「……結局、あなたは失敗したのよ、ナサニエル」
二階の窓から覗く、すっかり日の落ちた小さな町の寂しげな景色。けれどそれでも、今日は多分いつもより騒がしい。複数の松明の火が、せわしなく動いている。
「勘違いしないでちょうだい。私はね、貴方を許したわけじゃないのよ。許すつもりもないのよ」
誰もいない部屋で、誰にも聞こえる筈のない声で、私は一人呟く。それは、私の前に二度と姿を現すつもりがないであろう、ナサニエルに向かって。
「あなたはユリウスを愛しすぎた。結局、あなたはただの人間だったってことよ」
そうしてあなたは結局、この先もルイスを苦しめる。いや、もしかしてそれこそが真にあなたの望むことだったのかもしれない……。それでも私は、ルイスに言わなければならないのだ。傷ついた彼の心を救う為に、彼を立ち上がらせる為に。
その後のことは……そう、私の知るところではない。私はただ、ナサニエルの手によって忘れていた、忘れさせられていたあの日のユリアの記憶を彼に話し、決断をゆだねるだけ。少し寂しいけれど、結局、私は最後の最後まで蚊帳の外の人間なのだから。本当の当事者は私ではなくソフィアとユリウスだけなのだから。
私は決心し、時計の針が真夜中を過ぎるのをただ待ち続けた。そうして皆が寝静まったであろうころ、ルイスの部屋の扉を静かに叩いた。
*
「話があるの。ナサニエルのことよ」
ドアの隙間から覗くルイスにそう告げると、彼はその名前は聞きたくないとでも言うように顔をそむけた。けれど、部屋には入れてくれた。
中は暗かった。僅かな月明かりが窓の向こうから差し込むのみ。当たり前だ、今は真夜中なのだから。けれど彼が眠っていた気配はない。ベッドは綺麗にメイキングされたまま……。
彼はそんなベッドの端に無言のまま腰を下ろして、小さく俯いた。私はそれを気にもとめない振りをして、ルイスに背を向け窓際に立つ。月を見上げながら――静かに話し始める。
「私、思い出したのよ。千年前、私が死んだ日の……ナサニエルとの記憶を」
ルイスは何も言わない。今、どんな顔をしているのかもわからない。けれど私は、続ける。
「エターニアの軍服を着た男たちによって、私は以前おばあさまと住んでいた森の中の家に連れていかれた。そしてそこで、酷い扱いを受けたわ。何人もの男たちから……繰り返し。痛くて怖くて、私はいつの間にか意識を失っていた。そうして気が付いたら、家が燃えていたの」
そう、この記憶は今まで忘れたことは無かった。この千年の間、一度だって。けれど、忘れていたことが一つだけあった。意識を失い、家が燃えていると気づくまでの間に、私は一度目覚めていたのだ。
「でもね、私は本当は家が燃えていると気づく前に、一度だけ目を覚ましていたのよ。そのことをずっと忘れていた。ナサニエルに忘れさせられていた。彼は、私にソフィアの左目の力を移したのよ。一度は彼が手にした筈の、ソフィアの左目を……。そして、私の記憶を封印した」
私は全てをルイスに話した。あの日、私が耳にしたナサニエルの嗚咽を。狭い部屋の隅で壁に額を擦り付け、ソフィアの名前を繰り返し呟いては懺悔する彼の震える泣き声を――。
「私をお許し下さい」――そう、何度も、何度も繰り返すナサニエルの擦れた声を。
「……泣いて……いるの?」
起きてしまった私が、混濁する意識の中でそう尋ねると、彼は文字通り背中をびくりと震わせた。けれど、その後振り向いたときには、そこに涙の痕は残っていなかった。だが、彼は間違いなく泣いていたのだ。聞き間違いな筈がない。
そう、ナサニエルだってそれはわかっていただろう。わかっていたから、私の左目に口づけ、ソフィアの力を私に移した後、彼は言ったのだ。
「今見たことは、決して誰にも言ってはなりません。そう、誰にも――決して」――と。
そうして、彼は続けた。
「私はいつか貴女の兄君を殺さなければなりません。ですからそのときが来たら、私が兄君を手にかけるその前に、貴女が私を殺すのですよ。――貴女の中に流れるお母上の血を以って。それが、貴女の役目であり、運命です」
彼の瞳は潤んでいた。あぁ、先生もこんな頼りない顔をするんだな――と酷く冷静に思ったことも、今は鮮明に思い出せる。人間離れしていると思っていたそれまでのどんな彼より、最も人間らしい表情だった。
この記憶は間違いなく、夢などではない。妄想でもない。私の左目に託されたソフィアの力に刻み込まれた、疑いようのない記憶なのだ。
「ナサニエルはね、確かにソフィアを殺してしまったのかもしれない。その力を手に入れようとしていたのかもしれない。そしてルイス――貴方の事を、殺そうとしていたのかもしれない。……だけど、だけどね」
私は続ける。
「少なくとも、彼の心はそうじゃなかった。本心では、そうしたくないと思っていた。それでもそうしなければならない理由があった。――そういうことじゃないかしら」
これは、アメリアとしての言葉だ。ユリアの言葉ではない。ユリアの気持ちではない。だってユリアからすれば、ナサニエルのしたことを許せる筈がないのだから。どんな理由があったって、許すことは出来ないのだから。
だけどそれでも、アメリアとしてなら、私は少しだけ冷静になることが出来る。ルイスの心を、少しだけでも軽くすることが……出来るかもしれない。
「ねぇルイス。私はね、ナサニエルを許すつもりはないのよ。エリオットも私も苦しんだ。アーサー様だって、貴方の弟のローレンスだって、長い時間を苦しんできた。誰が一番つらかったかなんて、比較できるものでもない。だけど、ルイス。貴方がナサニエルをどう思うかは自由なのよ。貴方がこれからどうするかも、貴方が決めること。
私は正直言って、貴方を兄だと心から思うことは出来ない。だって、兄妹として過ごしたことなんてないんだもの。だけどそれでも、貴方のことは好き。ウィリアムだって、貴方を大切に思っているわ。この先もずっと一緒にいたいって、いてくれたら、ってそう願ってる。私だって同じよ。
でも、それは貴方が決めること。ナサニエルは生きてるわ。彼は自分では死ぬことが出来ないのよ。私の記憶を忘れさせ、そのときが来たら思い出すようにと私に暗示をかけたナサニエルは――それでも最後の手段としてソフィアの血液を大切に取っておいた。それは、彼が死ぬ為にどうしても必要なものだったから。ソフィアの血でもなければ、彼は死ぬことができないのよ。
でも、その血液は私が使ってしまった。彼は……これからどうするのかしらね」
恐らくナサニエルは知っていた。私がエリオットが死ぬ未来を見て――それを防ぐ為に自らを犠牲にすることを。そして、瀕死の私を救う為にソフィアの血を使ってしまうことも。けれどそれでも構わなかったのだ。私がソフィアの血をこの身に吸収した瞬間から、ナサニエルが死ぬ為に必要なものはソフィアの血液ではなく、私の血液になるのだから――。
それが、千年前に彼が私に言い残した言葉。“貴女が私を殺してください”――と言った、言葉の真実。
けれど私はナサニエルに、この身体に流れる血を渡すことが出来なかった。そして、きっとこれからもその時は訪れないだろう。ナサニエルの方から私の前に姿を現すそのときが来るまでは。……ならば。
「ルイス……、私達は長く生きすぎた。それはナサニエルだって同じよ。例え身体が変わっても、何度死んでも私たちの意識は死にはしない。記憶を忘れることもできない。その苦しみは計り知れない。その点で言えば、私はナサニエルの気持ちが理解できる。彼のしたことに決して納得は出来なくとも、頭ではね。
彼は本当はソフィアのことも貴方のことも裏切りたくないと思っていたとして、それをこの千年の間隠し続ける苦しみは並大抵のものではない。だから、私は貴方がナサニエルを追うと言っても止めはしない」
「……」
「決めるのは……貴方よ」
私はそう言ってルイスを振り返る。苦しげに両目を閉じて顔を伏せている彼の目の前に、立つ。そして、両手で彼の頬をおおった。
同時にルイスの肩が震え、ゆっくりと両目が開かれる。その黒い瞳が、私を静かに見上げた。
「……貴方に、返すわね」
――ナサニエルから強制的に譲り受けた、ソフィアの左目を。
「目を……閉じて」
呟けば、ルイスは黙ってまぶたを下ろした。私はその左目に口付ける。そっと……優しく。
――そうして私は部屋を出た。結局ルイスは何も言わなかった。これからどうするつもりなのか、どうしたいのか、何一つ。
でも、それでいいのだ。確かに千年前私達は血を分けた兄妹だったのかもしれないが、今はもう違うのだから。私やウィリアムの為にここに残って欲しいと言えば彼はそれに応えてくれるかもしれないけれど、少なくとも今の私には、それを言ってしまえるだけの覚悟が出来ていないのだから――。
*
静かに夜が更けていく。私は結局朝まで一睡もすることなく、宿の一室の小さな窓から、青白く輝く欠けた月をただ一人……見上げ続けた。




