06
「お前は……」
目の前のヴァイオレットを見つめたまま、ローレンスが――アーサーが――呟く。その言葉には、やはり彼女はナサニエル側の人間であったのだという確信と、けれどそれを認めたくない複雑な感情が入り混じっていた。彼女がルイスでも自分でもなくナサニエルを庇ったという目の前の現実に、今まで不確かだったヴァイオレットへの自分の気持ちを悟ったような、そんな悲しみが滲んでいた。
「一先ず撤退を。ここは私が――」
ヴァイオレットが背後のナサニエルに対してそう促す。するとナサニエルは無言の肯定の意か、微かに目を細めたあとサッとその身を翻し、森の奥へと走り去ろうとした。だが勿論、俺たちはそれを黙って見過ごすわけにはいかない。
「そこを退け、ヴァイオレット!!お前もここで死にたいか!」
ローレンスが罵声を上げる。だが、彼女は一歩も引かなかった。男女の力の差を感じさせることもなく、彼女はローレンスの剣をただじっと受け止めている。
「いい、俺が行く!」
こうなったら仕方ない。ルイスも頼れない今、ナサニエルは俺が追うしかない。幸い武器は持っている。エリオットが用意していた長剣――。俺の力がナサニエルに敵うとは到底思えないが、今の俺の中にはエリオットがいるのだ。俺一人ではない。
だが、走り出そうとする俺の腕を掴み、制止させる者がいた。振り向けば、アメリアが地面に座り込んだまま俺の手首を握りみしめ、小さく首を横に振っている。これは一体どういうことだ……?
「何故、止める」
再び俺が前方を向けば、既にナサニエルの姿はどこにも見えなかった。そして、それと同時に俺たちの背後から現れる複数の気配。
「行くな、ウィリアム!」
「ローレンスもだ。その剣を治めろ」
「……エドワード?それに、ブライアン?」
そこにいたのはエドワードとブライアンだった。二人は息を切らせながら、間に合った――と言いたげな様子で俺の横を通りすぎ、ローレンスとヴァイオレットの間に割って入る。
「彼女は敵じゃない。その振りをしていただけだ。ナサニエルなら問題ない。この先に包囲網を敷いた」
「ああ。指揮はヘンリーが。だから剣を下ろせ」
二人がそう言うな否や、ローレンスの眼の色が変わった。今まで闘争心と憎しみで溢れていたローレンスの赤い右目が本来の紫に戻り、表情も俺の見慣れたアーサーのものに戻ったのだ。
「……ヘンリーが?何故」
アーサーの右腕から力が抜け、困惑気に呟く。どうして――アルデバラン公爵の息子である――従兄弟のヘンリーがこんな場所にいるのか、皆目見当がつかないと……。勿論それは俺も同じだった。二人が俺たちに内緒で彼をここに呼びよせていたということなのだろうが……これは問いたださねばならない。
だが、俺とアーサーが再び口を開こうとした瞬間、それを遮るように今度は森の奥から銃声がとどろいた。それも一発や二発ではない。まさに数十発という規模で響き渡る銃声に、俺とアーサーの間に緊張が走る。だがエドワードとブライアン、そしてヴァイオレットは事前にそうなることを知っていた様で、発砲音が鳴りやむと同時に、お互いに顔を見合わせて何か合図を取り合っていた。
「とにかく、今は森を出るのが先だ。ナサニエルのことはヘンリーに任せて、俺たちはここを脱出する」
「火の手はすぐそこまで迫ってる。早くしないと逃げ遅れるぞ!」
その言葉に応えるように、ヴァイオレットはアーサーの右手を掴んで真っ先に走り出した。だが、アーサーとて黙ってそれに従うわけがない。
「この手を放せ!ヘンリーが居るなら尚更、俺もそこに向かわなければ!」
「いいえ!アーサー様は私と共に行くのです!それがアルデバラン公ヘンリー様と交わしたお約束でございますから!貴方を無事に隣町へお連れする――それを条件に、あの方のお力添えを頂いたのです!」
「何……?ヘンリーが……アルデバラン公だと?」
「ええ。あの方は御父上より爵位をお継ぎになられました。今ナサニエルを包囲しているのはヘンリー様の私兵ではなく、公爵家の私兵です。ですから何もご心配なさらず。とにかく今はこの森から出ることだけをお考えになってくださいませ!
それにどうかご安心を。私、この森のことなら熟知していますわ。一時期ここに住んでおりましたから――。
さぁ、行きますわよ!皆様、しっかりついて来て下さいませ!」
それは有無を言わせない気迫だった。それに、どうやらアメリアも同じ考えの様で……。本当にここから立ち去っていいものかと悩む俺の視線に、彼女は静かに頷くのだ。そうして俺は――確信する。
アメリアは、もしかしたらこうなることを予想していたのかもしれない。もしくは事前に知らされていたのだろう。そうでなければ、こんな状況でこのように冷静でいられるわけがないのだから……。なら、恐らく今ここから立ち去ることは、彼女の本意には反しないだろう。
だが、問題はルイスだ。先ほど一度正気を取り戻したように見えたルイスは――この場から逃げ去ったナサニエルの行動にショックを受けたのだろうか――再び酷く茫然とした様子で、ナサニエルの消えた森の奥を見つめている。エドワード、ブライアンの存在にさえまるで気が付いていないとでも言う様に……。
「ルイス、立てるか!?逃げるぞ!」
俺はそうやって急かすが、ルイスは立ち上がらなかった。それどころか、ろくに視線すら合わない。何度名前を呼んでも、ルイスからは言葉一つ返ってこないのだ。
「ルイス!しっかりしろ!」
「……」
「ルイス!!」
こんな状態のルイス、今まで一度だって見たことはない。今までも、ルイスの余裕のない姿を見ることは何度かあった。だが、それはいつだって俺と二人きりのときだった筈だ。今回の当事者であるアーサーやアメリアの前でならいざ知らず、エドワードやブライアンの前でこんな姿を見せるなど……今まで一度だって無かったことだ。
だが、アメリアを抱えて走ることは出来ても、俺の力ではルイスを抱えてこの森を駆け抜けることなど出来はしない。
「こっちを見ろ、――ルイス!」
俺はとうとうルイスの肩を大きく揺さぶった。するとようやくルイスの視線が俺の方を向く。それは親に置いてきぼりにされたときの、子供のような顔で。悔しいが、ルイスにとってナサニエルがどれほど大きな存在なのかを思い知らされる。
そうして、その事実を知っているのだろうか。アメリアが俺の腕を放し、ゆっくりとであるが――自ら立ち上がった。そうして、信じられないようなことを口にする。
「ウィリアム、私は一人で走れるわ。だからあなたはルイスを」
「――なんだと?駄目だ、君は血を流しすぎた、走るなんて無茶なことはさせられない」
「大丈夫よ。いざとなったらエドワードかブライアンにおぶってもらうから。いいわよね、二人とも?」
「あぁ。というか、今からおぶったっていいんだぜ?」
「俺たちこう見えて結構体力あるし」
「結構よ。どうしてもってときだけお願いするわ」
その口ぶりは、そしてその表情はかつての悪名高きアメリア・サウスウェルを彷彿とさせるもので、どういうわけか俺をとても安心させた。今の今までの非現実的な現実から、俺の本来の現実へと引き戻すように。そして、ルイスの居場所は確かにここにあるのだと、そう証明するように。
「ルイス、行くぞ」
俺はアメリア達に続き、ルイスの手を無理やり引いて走りだした。煙の立ち込める森の中を――ただ一心不乱に。その間中、ルイスはずっと無言だった。それでも俺の手を拒む様子はなく、ルイスの左手を握る俺の右手を、しっかりと握り返してくれている。
それだけで十分だった。今の俺には、ただそれだけで……。
そうして俺たちはヴァイオレットの誘導のおかげでほどなくして森から抜け出した。そこから森を振り返れば、既に森は殆ど火の海だった。まだ夕暮れ前だと言うのに森は赤く染まり、山から吹き降ろす西風の影響で発生した熱風が、森の外にいる俺たちの頬を焼くほどに。
俺たちはその後、燃え盛る森を背後に、エレックの用意してくれていた馬を使って無事ダミアの隣町に辿りついた。その頃にはルイスの様子も随分落ち着いていたが、それでも思い詰めた様子は変わることなく、誰のどんな質問にも答えようとはしなかった。そしてまた、それはアメリアも同じだった。皆の前では毅然と振舞っていた彼女だったが、エレックの用意してくれていた宿に辿り着くや否や、「少し考える時間が欲しい」とだけ言って一人部屋に閉じこもってしまった。医者に身体の状態だけでも見て貰うべきだ――という俺たちの意見など全く聞かずに。
確かにここ数週間の間にあまりにも多くのことがあり過ぎて、そういう精神状態になってしまうのも無理はないだろう。だが、だからこそ俺は彼女の傍にいたかった。俺の中のエリオットの記憶が、その気持ちがあまりにも大きすぎて、切なすぎて――彼女をほおっておくなんて出来なかった。だが、それでも彼女は、しばらく一人にして欲しいと言うのだ。結局俺は、その言葉に従うほかなかった。
ヘンリーが帰還するまで、アーサーと俺はエドワードとブライアン、そしてヴァイオレットから話を聞いた。内容は主に、どうしてヘンリーがここにいるのか――ということだ。結論を言ってしまえば、アメリア救出の為に王都を出発する前に、エドワードとブライアンがヘンリーに助力を求めていたらしい。“近頃アーサーの様子がおかしく、周辺で不審な事件が起こっている。今後その身が危険に晒される可能性が高い。どうか力を借りたい。鍵はヴァイオレットが握っているだろう”――と。それと同時に、地下組織にヴァイオレットを探させていた。そして居場所が分かり次第、ヘンリーに伝わるようにしておいた。とは言えこれは賭けに過ぎなかった。シーズンオフの今、ヘンリーは既に王都を離れていたし、ヴァイオレットの居場所がわかったとしても実際に彼女と接触することが出来るかはわからない。だが、ヘンリーは見事ヴァイオレットと接触を果たし、ナサニエル側であった彼女を自らの側に寝返らせたのだ。
事実、アメリアをさらいダミアに連れ去ったのはヴァイオレットとナサニエルで間違いなかった。ヴァイオレット本人がその場でそう自白した。
ヴァイオレットはまだ幼いころ両親と共に馬車に乗っているところ事故に合い、そこで両親を亡くしている。本人も大怪我を負い、一時は助からないとまで言われたらしい。だが、それをナサニエルとルイスに助けられたのだそうだ。そうして傷の癒えるまでのしばらくの間、彼女はダミアでナサニエルやルイスと共に過ごした。その後母方の実家であるパークス家に引き取られ、城で侍女として働くことになったと言う。
彼女はそこでアーサーと出会い、アーサーは彼女に恋をした。だが彼女はパークス家の意向により侍女を辞め政略結婚させられることとなり……だがその結婚先の家が没落した為居場所を失い娼婦にまで身を落とした。ルイスとナサニエルはそれを利用し、アーサーの中のローレンスを呼び起こそうと考えた。
「勿論私だって、ただで利用されるつもりはありませんでしたわ。けれど……ルイスとナサニエルからアーサー様についての話を聞かされ、私は二人に協力することにしたのです」
ヴァイオレットは静かに語った。ルイスとナサニエルから聞かされたというアーサーの秘密――それは彼の中に潜むローレンスの存在だった。アーサーの中に巣くうローレンスの精神が幼いころからアーサーを苦しめ、そしてそれはこれからも生涯続いて行くのだと言うことを。ローレンスをアーサーの中から消し去らない限り、アーサーに平穏が訪れることはないだろうと言うことを。結果的にそれは、ナサニエルのついた嘘だったのだが――。
「私――その話を聞いたときに自覚しましたの。恐れ多くもアーサー様が私を好いて下さり、傍に置いて下さっていたこと自体が奇跡であったのだと。そして私自身も、その時間が人生で最も幸福な時間であったのだ、と。
……それに、その時の私はもうどこにも居場所がありませんでしたもの。ですから、命の恩人であるルイスとナサニエルの頼みを受けることで、せめてもの恩返しになれば――と、そう考えたのですわ。
それがまさか、こんな大事になるなんて……」
そう言って、彼女は酷く後悔しているように両目を閉じた。だが、決して涙を見せることはなかった。アメリアや俺たちに危険を及ぼした張本人である自分が、泣くことは許されないと。どんな罰も受ける覚悟でいるのだと、声一つ震えさせることなく彼女は断言した。アーサーに庇ってもらおうなどとは露ほども考えていないのだと、その場にいる全員に知らしめるように。
そうして日が暮れしばらくしたころ、俺たちは帰還した現アルデバラン公ヘンリーと合流し、ナサニエルがどうなったのか――その結果を告げられた。
結局のところ、ナサニエルを仕留めることも、捕まえることもできなかった。ヘンリーとその兵士らの話では、ナサニエルは十数発の銃弾をその身体に受けても倒れることなく、最後は自ら炎の中に飛び込んで行ったという。普通なら生きていられる筈もないが、心臓を射抜かれても動いていたということから、恐らく炎に飛び込んでも死ぬことはないのではないか――つまり、逃げられたということ。それが俺たちと、ヘンリーらとの共通の見解だった。しかしそれを確かめようにも夜の森は危険ということで、ナサニエルの捜索は翌日に持ち越しとなり、その日は宿で各々身体を休めることとなった。




