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05



 何度見ても大きな屋敷だ。街の中心部でもないのにこの屋敷だけは石造りで、よく手入れされた広い庭はここに住む者の裕福さを象徴している。


 鉄格子の門の前で馬を降りると、僕に気付いたマシューさんが中に入れてくれた。けれど彼の顔にはいつもの穏やかな笑みはなく、僕を心配するように顔を曇らせている。


「ここに、ステファン――、僕の弟がいると聞いて……」

 僕の言葉に、彼は更に顔を暗くした。こっちじゃよ、と、唸るようなその低い声に、僕は悟らざるを得ない。――ステファンはもう、助からないんだろう、と。


 正面の玄関から中に通された僕は、マシューさんに連れられて階段を上がり、端の部屋に通された。それまでの間、彼は僕に一言も話さなかった。そして僕も、何も言うことが出来なかった。


 ベッドと数脚のソファがあるだけの、けれど清潔感は保たれたその部屋は、普段は使われていない客室の様だった。リーズベルの奥様が、ベッドの傍の椅子に腰かけている。彼女は部屋に入ってきた僕の存在に気が付くと、こちらを振り向きながら静かに立ち上がった。僕を見つめるその瞳は、微かに潤んでいる。それは憐みか、同情か。――どちらにせよ、いつもは凛とした気品と強さを漂わせている奥様の、僕の知らない顔だった。


「手立ては尽くしたのよ。でも、お医者様は時間の問題だと。――ごめんなさいね、エリオット」

 奥様が僕の名前を呟く。彼女の視線が――ベッドの上の――ステファンに注がれた。


「……っ」

 そこには、その言葉通り――変わり果てたステファンの姿。三か月前別れたときからは想像もしなかった、弟の痛々しい姿。


 顔色は悪く、呼吸は荒い。額にはびっしりと汗が浮かび、彼の上半身に巻かれた包帯は――血で赤く滲んでいた。


「……ステファン」

 僕はベッドに近づき、ステファンに声をかける。それと入れ違いに、奥様は僕に気を使ったのか部屋から出て行った。


「……にい……さん」

 僕の声に応えるように、彼は微かに瞼を上げる。虚ろな瞳が、僕を見上げた。それと同時に、自嘲気味に歪められる彼の唇。


「……遅いよ」

 それは僕の良く知る、いつもの彼の生意気な口調。こんなに酷い傷にも拘らず、弱音を吐くことのない強い意志。――あぁ、ステファン、ステファン。

 誰がこんなことを、一体誰がお前にこんな酷いことを――。


「何が……あったんだ」

 僕の声は震えていた。自分でも驚くくらいに、酷く擦れていた。これじゃあ、ステファンの方がよっぽど大人だ。僕は唇を噛み締める。けれど、ステファンはそんな僕の想いになど構っている余裕も無いと、低い声で唸った。


「――聞いて」

 その声にハッと彼を見つめれば、その虚ろな眼差しのその奥に――言いようのない憎悪が見え隠れしていた。僕を見つめる彼の真剣な顔。その表情に、僕は拳を握りしめる。――そうだ、僕が狼狽えている場合では無いんだ。一刻も早く、ユリアを連れ戻さなければならないのだから。


 僕は頷き、ステファンの言葉の続きを待つ。彼は一度だけ息を吐くと、僕を睨みつけるようにして唇を薄く開いた。


「――姉さんが、連れて行かれた」

「……ローラが?」

 ――ユリアではなく、ローラ?それは一体どういう意味だ。


「誰が……どうして」

 僕が問えば、ステファンは憎しみに顔を歪ませ吐き捨てるように続ける。


「兄さんが……姉さんに渡した首飾り。その、元の持ち主を探してるって奴らが……。姉さんは、人質だって」

「――な」

 嘘――だろう?

 僕は言葉を失くした。ステファンの言葉に。彼の、酷く憤ったような表情に――。


「兄さん――。あの首飾りは……兄さんのものじゃ、ないんだろう?」

「――っ」

 瞬間、僕の全身が燃えたぎるように熱くなる。それはまるで地獄の業火に焼き尽くされているかのように。

 あぁ、そうだ。確かにあれは僕のものではなかった。――あの首飾りは――黒い、あの宝石を……持つべき主は……紛れも――なく。


「あ……あ、ぁ」

 僕の両足から力が抜ける。思わず、その場に崩れ落ちそうになった。けれど何とか、踏みとどまる。


 僕の心に沸き上がる、強い焦燥感。それと同時に、真っ黒な黒雲に包まれるように――僕の心が、言いようのない恐怖に侵食されていく。


 あぁ、ユリア。今の言葉が真実ならば――この状況は、全部全部僕のせい。君が連れ去られたのも、ステファンがこんな傷を負わなければならなくなったのも――全部全部――僕のせいだ。


「……父さんは、抵抗して……怪我を。だから、僕が……」

 刹那、ステファンの顔が痛みに歪んだ。額から流れる冷や汗が、まるで大粒の涙のように彼の顔を濡らしていく。その瞳は、ローラを連れ去った何者かへの憎悪と、僕への失望で満ちていた。

 家族をめちゃくちゃにした、僕への――。


 あぁ、嘘だ。誰か嘘だと言ってくれ。僕のせいで――僕のせいで――ユリアが、ステファンが……ローラ、までもが……。

 膝が――いや、全身が震える。僕は何てことをしてしまったのだろう。僕があの首飾りをローラに渡しさえしなければ、こんなことにはならなかった筈なのに。あぁ、僕は……何てことを……。


 もう僕は、それ以上何も言うことが出来なかった。後悔してもしきれない。僕のせいで、僕のせいで――。あぁ、あんなもの、湖に捨ててしまえば良かったんだ。そうすれば、こんなことには……。


 けれどそうやって打ち震える僕に、ステファンは容赦しなかった。彼は苦し気に顔を歪めながらも、僕を憐れむような眼で見つめる。――そして、しっかりしろよ、と十二歳とは思えない声音で告げるのだ。


「……あいつら……言ってたんだ。森に、火を放つ……って。あの人は、きっとそこに……」

「――っ」

 あの人というのがユリアのことだと言うのは、すぐにわかった。


「早く……アストフィールドに……。それで、母さんに……伝えて」

 刹那――彼の頬に伝う、一筋の涙。普段は家族の前でだって決して涙を見せることのない、ステファンの……。それはきっと、彼の本心を表わしていて――。


「帰れなくて……ごめん……って」

 ステファンの瞳が揺らめく。その声は、酷く震えていた。――僕は、言葉を無くす。


「な……何、言って……」


 僕の心臓が握り潰される。喉が、締め付けられる。まるで、息の仕方を忘れてしまったみたいに。


 僕の目の前で――ステファンの瞼が、ゆっくりと落ちていく。


「――ステ、ファン……?」

 駄目だ、駄目だよステファン。


 僕は彼の手を強く握り締めた。その手は怪我からくる発熱のせいか、酷く熱を帯びていた。けれど、もう僕の手を握り返すような力は残っていなくて。それどころか、もう、少しの力も入っていなくて――。


 僕は、悟る。

 彼の命が、もう永くないことを。


 でも、僕は――そんなの、決して認めない。だって、僕のせいでステファンが死ぬなんて。そんなの、そんなこと……。


「駄目だ、駄目だよ。死ぬな。……死なないで、ステファン」

 逝っちゃ駄目だ。お願いだ、逝かないで、お願いだ。


「ステファン、一緒に帰るんだ!なぁ――ステファン!」

 僕は必死で弟の名を呼んだ。けれど、そんな僕を嘲笑うかのように、その時はやって来る。


 浅くなる呼吸。けれどいつしか息遣いすら聞こえなくなり――そしてとうとう、その心臓が……動きを、止めた。


「……ステ……ファ……、あ――ぁ、ああッ」


 固く閉じられた彼の瞼。その眼が二度と開くことは無い。二度と――その瞳に僕を映すことは無い。


「あ……あ、あぁああああッ!」

 ステファン、ステファン――、僕の弟。僕のたった一人の弟。僕が殺した。僕が、殺したんだ。


 もう涙すら出なかった。認められなくて、信じられなくて、許せなくて。


 自分自信を――そして、こんなことをした奴らを。


 僕の心が、憎しみと怒りに支配されていく。それ以外、何も考えられなくなる。


「……許さない」

 許さない、許さない。僕は――、絶対に許さない。ステファンを殺した奴らを――ユリアを連れ去った奴らを――。絶対に、許せるものか。


「……殺してやる」


 殺してやる、全員――例え差し違えてでも。ステファンの仇を――そして、ユリアを必ずこの手に取り戻す。これ以上奪われてたまるものか。

 あぁ、そうだ。――彼女は誰にも渡さない。彼女は、僕のものなんだから。


「待っていて、ユリア。直ぐ――迎えに行くからね」


 僕は部屋を飛び出した。マシューさんがすれ違いざま、僕を見て酷く顔を青ざめていた。けれど、そんなこと気にしていられない。僕は一刻も早く、アストフィールドに戻らねばならないのだから。彼女を迎えに行かなければならないのだから。


 僕はフォレストに飛び乗る。故郷に向かって手綱を引いた。


 ――あぁ、待っていて、ユリア。僕が必ず、迎えに行くから。


 僕はユリアの姿を思い浮かべ、呟く。それは何度も、何度でも――。沈みかけた夕日を背にして、僕はフォレストと共に、果てしなく続く広野を全速力で駆け抜けていった。


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