05
数秒か――それとも数分か。一瞬が永遠にも感じられる。俺はただその時間を、彼女を抱きしめたまま堪えることしか出来ない。
「お願いだ、アメリア。どうか目を開けてくれ」
そう、祈るように呟いた。するとその声に応えるかのように、彼女の瞼がぴくりと動く。
「――!アメリア、アメリア聞こえるか!」
俺が声を荒げれば、今度こそはっきりと彼女の表情が動いた。苦し気に呻いて、先ほどまで固く閉じられていた瞼が――ゆっくりと上がる。
「……ウィリ……アム」
「――っ」
その声に、俺の心臓が大きく跳ねた。何故ならそれは、彼女の囁いたその名前が、紛れもなく俺自身の名前だったからで。“エリオット”ではなく、確かに俺の名前だったからで――。
「あぁ――、本当に……本当に良かった」
俺の喉の奥から、絞り出すような声が漏れ出る。それは、今まで生きてきて一度だって感じたこのとのない強い安堵と、心からの感謝の想い。嬉しくて、嬉しすぎて――勝手に涙が溢れてくる。俺と……そしてエリオットの、彼女に対する切なる想いに堪えられず、……俺の涙が彼女の頬を濡らしていた。
「……ごめんなさい。心配、かけたわね」
「…………いいんだ」
この期に及んで俺の心配をしてくる彼女に、俺は必死に笑顔を浮かべようとして……けれどやっぱり上手くできずに、俺は息を吹き返した彼女の肩に顔を埋める。こんなにみっともない姿をさらすなんて、普段なら自分のプライドが許さない筈なのに、今は本当に取るに足らないことだと思える。そうして俺は、ようやく知るのだ。
あぁ――きっとこの気持ちこそが愛なんだ、……と。
「アメリア……君を……愛してる」
俺は今まで何も知らなかった。知ろうともしなかった。君の俺に対する深い愛情を。俺という半身が欠けたことで、歯止めが利かなくなってしまった……エリオットの彼女に対する狂おしい程の愛を。それが俺と一つになったことで、ようやく元の形を取り戻したのだ。そして……俺はその事実を、今ようやく理解したのだ。
「……アメリア、もうどこにも行かないでくれ。これからは……俺が君と共に生きると約束するから。――だから」
彼女の肩に顔を埋めたまま、俺は繰り返す。擦れた声で君の名前を、何度も、何度でも。そんな情けない俺の背中を、彼女の暖かい両手が優しく包み込んでくれた。
「勿論よ。……私もあなたを愛しているから。もう二度と、あなたの傍を離れないと誓うわ」
まるで女々しいことしか言えない俺に、やっぱり君はとても逞しくて。……とても、優しくて。
――だが、俺は決して忘れてはならない。こうなった全ての元凶を。“ナサニエル”の犯した罪の大きさを。アメリアが無事であったからと言って、許されることではないことを。そして、まだ何一つ解決していないのだと言う事実を。
俺が顔を上げれば、ルイスがアメリアをじっと見つめていた。その顔には確かに安堵の色が映っている。だがそれ以上に、彼は苦悶の表情を浮かべていた。――それは、今まで信じ続けていたナサニエルに裏切られ続けていたのだという現実が受け止められないような――深い苦しみの色。
アメリアはそんなルイスに対し、優しく微笑みかける。
「ルイス……、いいえ、ユリウスお兄様」
「――っ」
“お兄様”――と、そう呼ばれて、ルイスの肩がびくりと跳ねた。まさかそう呼ばれるなどとは思ってもみなかったと言うように、彼は困惑気に顔を強張らせ……それでもアメリアから視線を離さない。そんな彼の頬に、彼女の右手がそっと添えられる。
「ありがとう。私を見つけてくれて」
「……ユリア。僕は……君を……」
刹那――ルイスの顔が再び歪んだ。今にも溢れ出しそうな涙を必死にこらえるように……彼は奥歯を噛み締めて、両目を固く閉じる。
「いいのよ。何も言わないで。あなたは何も悪くないわ。だから、そんな顔しないで」
その言葉通り、彼女の表情には何の迷いも見えなかった。先ほどまで死にかけていたのに――いや、確かに一度彼女は死んでいたというのに――それすら忘れてしまっているかのように、彼女は苦しそうにするわけでもなく、怯えることもなく、そして俺やルイスを責める素振りも見せない。それどころか恐らく彼女は、自分を撃ったナサニエルにさえ柔らかい眼差しを向けるのだ。
アメリアの視線を追うように、俺とルイスもナサニエルに視線を向けた。すると、アメリアの無事を確かめたローレンスが今度こそナサニエルの首筋に剣を突き立てようとしているところだった。
「お前が神の血を受け継いでいるというのなら……私がここでお前を殺したところで、何の解決にもならないのだろうな」
吐き捨てるように、ローレンスが呟く。
「千年前のあの日、私はこの森で確かにお前を殺した。お前の心臓に刃を突き立て、その動きが止まるのを確かに確認した。だが――お前は今こうやって生きている。兄上と同じように……あの頃の姿そのままで」
「ええ。その通りです。私はあの日一度死んだ。貴方の手によってね。――ですが、今こうして生きている。それは私の身体に流れる神の血のおかげ……。ソフィア妃の血によるものではありません。私はあれを一滴も口にしていませんから。
ですから貴方の仰るとおり、私をここで殺しても無駄というもの。――とは言え、このままでは貴方の気が済まないのでしょう?ですから、どうぞ、ご自由に。ユリウス殿下の目の前で、私を殺してみせなさい。我が首を刎ね、心臓を抉り、この身体に流れる血を一滴残らず燃やしつくせば……万に一つくらいの確率で、私の存在を永遠に消し去ることが出来るかもしれません。――まぁ、その光景を……そこにいらっしゃるお優しい兄上殿下にお見せする覚悟が、貴方におありなら……ですが」
その挑発するような言葉に、ローレンスは体中から殺気を立ち昇らせた。まるで怒りに心を支配されてしまったかのように。今にもナサニエルの喉を掻き切ってしまいそうな程に。
だが、どうにかそれを踏みとどまっているのは、ルイスの存在があるからなのだろう。項垂れたように地に膝をつき、未だに立ち上がることすら出来ないでいる、ルイスに迷いがあると悟っているから。ナサニエルの裏切りを受け止めきれないでいる彼に、これ以上残酷な“死”を見せることに――どうしても躊躇いがあるからだ。
そうであるから、ローレンスは奥歯を噛み締めて、切っ先を喉もとから逸らすのだ。
けれど――やり場のなくなった怒りの矛先を抑えきることは出来ず――ローレンスはナサニエルの左肩に、深く剣を突き刺した。
「――っ」
刹那、ナサニエルの顔が痛みに歪んだ。貫かれた傷から伝った血が剣を伝い、瞬く間に地面を汚した。赤黒い痕が水溜りのように広がっていく。
その光景を目の当たりにしたルイスは、いつしか顔を背けていた。もう何一つ見ていられない、と。だが、この状況を止めることも出来はしないと。
彼は理解しているのだ。本来ならナサニエルに手を下すのは自分の役目であることを。だがどうしてもそれが出来ないでいる自らに対して、苛立ちを感じている。だからルイスは、ただ苦し気に顔を歪めて目蓋を固く閉じるのだ。
――あぁ、ルイス。
俺の中にどろどろと広がっていく、この強い焦燥感。何も出来ないのはルイスだけではない。この俺も同じなんだ。ローレンスやアメリアと違い、俺はこの手でナサニエルに制裁を加えることも、ルイスを救うことも出来ていない。俺は何一つなし得ていない。
この状況に恐れおののいているわけではないのに。足が竦んで動けないわけではないのに。ルイスも、アーサーも、一人残らず救いたいというその目的ははっきりしているのというのに、その為にどうするのが正解なのか、俺はこの期に及んでまだ決めかねているのだ。俺が何を為すべきか、何もわかっていないのだ。
だが、だからと言ってこのまま何もしないわけにはいかない。俺にだって――俺にしか出来ないことがある筈だ。ルイスに、俺の気持ちを――言葉を伝えることは出来る筈だ。
だから俺は必死に手を伸ばす。俺の気持ちを察したのだろう、アメリアの微笑みに促されるように――、ルイスに向かって。
「――ルイス」
「――っ」
俺がルイスの右手にそっと手を置けば、彼はびくりと身体を震わせて驚いたようにこちらに顔を向けた。――あぁ、これではまるであの時と真逆だな。俺とルイスが雨の中、初めて会ったときのように。自分の置かれた状況にただ怯え、それを受け入れることが出来ないでいる俺に、ルイスが手を差し伸べてくれたのだ。ルイスにとっては不本意で、実際に俺を救う為に差し伸べた手ではなかったことは理解している。けれど、あのとき俺が救われたのは疑いようのない事実。だから今度は俺が、ルイスに手を差し伸べる番だ。
「怖がるな、ルイス。俺がいる。俺は何があってもお前の味方だ。俺だけじゃない、アーサーもローレンスも、エドワードやブライアン、そしてアメリアだって、皆お前を心配してここまで来たんだ。お前は一人じゃない。だから信じてくれ。あそこにいるアーサーを、そしてお前の弟であるローレンスを、俺たちを。
もう一人で苦しまなくていい。全て抱え込もうとしなくたっていいんだ。お前が俺に近づいたのは、俺を利用する為だったと知っている。ソフィアの力を回収する為だったのだと知っている。だがそれでもいい。俺がずっとお前に救われ続けていたことは変わらない。これからもずっと変わらない。だから、そんなに苦しそうな顔をしないでくれ、ルイス!」
「……ウィリ……アム、――どうして……。だって、僕は……貴方に」
「あぁ、確かにお前は俺を裏切った。でも、今俺が言った言葉は本心だ。俺はお前を恨んでない、少しもだ。寧ろ、感謝すらしている。俺はお前のおかげでこうやってアメリアに再び会うことが出来た。エリオットと一つになることが出来た。お前はお前の目的の為だけにそうしたのだろう、それはわかっている。だが、それは俺自身もずっと願ってきた筈のことだったんだ。お前がお前の為にしてきたことは、図らずも俺自身の為だったんだよ。
だからルイス、お前が俺を騙していたことや裏切っていたことに後ろめたさを感じていたとしても、ナサニエルの裏切りについて自分を責めているのだとしても、そんな必要はないし俺にはそんなこと関係ない。俺はお前が大切だ、これからもお前が必要だ。お前がソフィアの力を持っているからじゃない。お前がアメリアのかつての兄だったからでもない。俺は、ただ一人の人間として――お前のことを、心から大切に思っているんだ」
「……っ」
「これからは俺がお前を支える。お前がずっと俺にそうしてくれたように、これからは俺がそうするから。だから、そんな顔しないでくれ。一人で抱え込まないでくれ。今度は俺がお前の心を癒すから」
俺はルイスの手を握りながら、何度でも繰り返す。“お前が大切だ”と、何度も、何度でも。ルイスはその言葉を聞くたびに泣き出しそうな顔をした。けれどその表情は苦しさではなく、何かに許されたような……許されたかったと言うような、そんな切なさを含んでいる。
俺にだってわかっているんだ。ルイスがそんなに簡単に自分自身を許せないことを。ナサニエルを責めることが出来ないことを。だって千年だぞ。俺と過ごした十五年なんて一瞬とも呼べるほど、ナサニエルの過ごした時間の方が長いのだ。だから、ルイスが簡単に俺の言葉に頷くことができないのは、無理からぬこと。
だがそんなルイスの苦しみを増幅させるかのように――再びナサニエルが口を開く。「仲良しごっこは済みましたか?」――と。ローレンスの剣によって肩を貫かれた状態のまま、ニヤリと暗い笑みを浮かべるのだ。それは、俺たちを嘲笑うかのように。
「これ以上は聞くに堪えません。貴方がたの綺麗ごとを聞かされるのはもううんざりですよ」
その言葉に、再びローレンスから殺気が立ち昇った。今度は別の場所を貫くつもりだろうか。ローレンスは怒りにまかせたまま、ナサニエルの肩から剣を引き抜く。これ以上ないと言う程に目を血走らせ、右手には血管が浮き上がらせながら。
そして次の瞬間、その切っ先は再びナサニエルに――。
「――な」
だが、それは寸前で止められた。俺たちの視線の先で――美しい金の髪が翻る。ローレンスとナサニエルの間に突如現れた一人の女性が、両手に構えた短刀でローレンスの剣を受け止めていたのだ。その光景に、俺は思わず横を振り向きアメリアの姿を確認した。ローレンスとナサニエルの間でなびいたその髪の色が、アメリアの髪と同じに見えたからだ。だがそれは違った。アメリアは俺の隣にいる。それならあれは一体誰だ――?
そう考えるとほぼ同時に答えは判明した。ローレンスの口から囁かれた――その名前。
「……ヴァイオ……レット……?」
そう、そこにいたのは王都から姿を消した筈のヴァイオレットだった。彼女はナサニエルを庇うようにして――ローレンスと対峙していたのだ。




