03
*
“死なないで、お願いだ。僕を置いて逝かないで”
そう、誰かが泣いていた。
俺の目の前で、俺の姿をした別の誰かが泣いていた。血だらけの彼女を腕に抱きしめ、ただ……ひらすらに泣いていた。
“死なないで、死なないで”――と、そう繰り返し、むせび泣く俺の背中が……震えていた。
「祈りなさい」
俺の額に添えられる、冷たい銃口。
“あぁ、僕は死ぬんだな”――もう一人の俺が、酷く冷静な頭で考える。
“でも、彼女と共に死ねるのなら――”――俺の分身であるエリオットが、静かに囁く。
けれど俺はその言葉に、どうしても納得出来なかった。彼女と共になら死んでも構わないと……そうは思えなかった。まだ生きたいと、生きなければならないのだと、そう思った。
だから俺は、必死に抗う。待て――待ってくれ、と。俺はそいつに問いかける。
“本当に死んでいいのか?出来ることはもう無いと言い切れるのか?こんなところで死んで、後悔はしないのか?”
そう、俺の中のエリオットに問いかける。だって俺はまだ何一つ成しえていないじゃないか。アーサーを守るといったあの言葉だって、果たせていないじゃないか。
腕の中の冷たい亡骸を抱え、俺は自問自答する。
“俺は――お前は、本当にこんなところで死んでいいのか?何もかもを諦めてしまうには、早すぎるんじゃないのか?”
だが――尋ねる俺に、エリオットは静かに背を向ける。
「だって、もう疲れちゃったんだ。僕には――彼女のいない人生なんて、考えられないんだ」
そう言って、彼はゆっくりと目を閉じる。両目から溢れんばかりの涙をこぼしながら、酷く切なげに、……寂し気に。
けれど俺は、それでも納得できなかった。確かに彼女のいない人生なんて考えられない。目の前のこいつがそうであるように、俺だって彼女が大切だ。世界中の誰よりも、何よりも大切だ。
俺の閉じた世界を無理矢理こじ開け、外に連れ出してくれたのは彼女だった。彼女のいない人生なんて、考えられるわけがない。――だが、だからってこの命を捨ててしまっていいのか?
俺にはある筈だ。彼女以外にも、彼女と同じくらい大切なものが……この世界にはある筈だ。
それに、アーサーに言われたじゃないか。決して諦めるなと。他の誰が諦めても、お前だけは諦めるなと。もう一人の俺が諦めてしまったとしても、俺だけは決して諦めてはならないと。――だから。
「エリオット、聞いてくれ。きっとまだ方法はある。何かこの状況を打開する方法がきっとある。だって、まだ何も終わっていないんだ。俺たちにはまだ、この力が残されている。この、ソフィアの力が。
だから――お願いだ、俺に力を貸してくれ」
「無理だよ。ナサニエルになんて勝てっこない。それに、死んだ人間を生き返らせる方法なんてない。ユリアはもう帰ってこないんだよ。それなら死んだ方がましだ」
エリオットは、悔し気に俯く。だが――それでも俺は諦めなかった。
「駄目だ。俺たちは死ねない。まだ死ねない。アメリアが守ってくれたこの命を、簡単に捨て去ることは出来ない」
そう必死に説得する。だが、エリオットは首を縦に振ろうとはしなかった。
「そんなに諦められないなら、君一人で生きればいいよ。もう、僕は消えるからさ。……それでいいだろう?」
そう言って、ただひたすら俯き続ける。その表情は伺い知れない。だけど、それでは駄目なのだと、俺は言い続ける他なかった。
「駄目だ。一緒じゃなきゃ駄目なんだ。今まで本当に悪かった。お前を一人にして本当に悪かった。何も知らず、知ろうともせず、お前も彼女も傷つけ続けてきて本当にすまなかったと思っている。だが――もう終わりにしよう。今度こそ、俺は逃げない。お前からも、彼女からも、ナサニエルからも。
だって、俺たちは二人で一人なのだろう?二人揃って一人前なのだろう?なら、俺達が力を合わせればきっと……今まで出来なかったことだって、二人一緒でならやり遂げられる。あの日守れなかった彼女との約束を――今度こそ守ることが出来る」
「そんなの嘘だ!出来っこないよ。だってユリアはもう死んだ。死んだ人間は生き返らない。約束は再び破られてしまった!」
「だが――俺たちはただの人間とは違う。俺も、彼女も、ルイスもアーサーも――ナサニエルだって、この世に生きている全ての人間とは異なる存在だ。諦めるのは早いと――そうは思わないか?」
「……」
俯くエリオットに、俺は続ける。俺の耳に届いてくる外界の音に――耳を澄ませて。
「ほら、聞こえるだろう?蹄の音が近づいてくる。状況は今に変わるだろう。だからまだ諦めるな。共に生きるんだ、エリオット。だって俺たちは――二人で……一人なのだから」
そう、必死に語りかける。
するとようやく彼の瞳が俺を見た。そして、彼は俺に問いかける。……虚ろな表情で。――どうして、と。
「君は……僕を許すのかい?彼女がこうなったのは、僕のせいなのに」――と。
けれど、それでも……それでも、俺は……。
「行こう、エリオット」
俺は彼に一歩ずつ歩み寄り、その手を取った。
瞬間、エリオットの姿が霧散し――俺の全身に鋭い痛みのようなものが駆け抜ける。
あぁ、そうだ。それは……それは、研ぎ澄まされた神経の感覚。長い間忘れていた、心の痛み。つまりこれは……エリオットの……。
“わかったよ、君がそこまで言うのなら……僕はこの心と欠けた魂を君に返し、君と一つになってもいい。そもそもは君が僕の本体、僕を受け入れると言った君を……僕が拒否することは出来ないのだから。けれどどうかこれだけは知っておいて。
僕らが一つになれば、ソフィアの呪いは解けるだろう。だがそれは同時に、転生後に記憶を持ち越せなくなるということだ。今死ねば――僕らは二度と彼女に会えなくなる。それでも、君は今ここで生を選ぶのか。彼女は既に息絶えたというのに、それでも君は――”
あぁ、そうだ。わかっている、そんなことは、当の昔からわかっている。わかっていた。きっと俺は……わかっていた。それでも俺は、今を生きると決めたから。
二度と諦めたりしないと、自分に、周りの大切な人々に――堅く誓ったから……。だから――。
*
そうして、俺は目を開けた。それとほぼ同じくして、鳴り響く4度目の銃声。
だがその弾丸は俺の額を撃ち抜くことなく頬を掠め、背後へと飛んでいった。目の前のナサニエルが、驚愕の表情で俺を見つめる。そしてその視線は、銃を握る右手へと向けられた。そこに突き刺さる、短刀に――。
ナサニエルの手の甲に突き刺さっているのは、俺の隠し持っていた短刀の切っ先だった。ライオネルが所持していたという、アメリアの短刀――。
「――っ」
ナサニエルは突然の事態に、俺の正面から飛びのいた。その拍子に突き刺さっていた刃が抜け、血が流れ出す。
あぁ、知っているぞ。俺はお前のその顔を知っている。一度目は俺が馬車に轢かれかけたとき。そして二度目は――今このときだ。
俺はアメリアの身体を地面に横たえ、静かにそこから立ち上がった。右手にアメリアの短刀を握り締めながら。……俺は今からこの男に、報復しなければならないのだから。
「……あぁ、残念だ。本当に残念だよ。お前のことを心から信頼していたのに……、なぁ、アル……?」
俺がそう呟けば、目の前の男は顔を歪めた。アル……と、俺に今の名で呼ばれたことに。何故ならこの男をそう呼ぶのは、この俺しかいないのだから。
「……ウィリアム、ですか」
「あぁ、そうだ。……ここで俺が出て来るとは、流石のお前も予想外だっただろう?」
「……ええ、そうですね。正直、申しますと……」
そう言って、そいつは俺から更に距離を取ろうと背後へと飛びのく。そして、血に染まった銃口を再び俺に向けた。
「ですが……私にとってはむしろ好都合。貴方はエリオットよりも、遥かに単純で脆弱ですから」
「それはそうだな、否定はしない。――だが、その右手で本当に当てられると思うか?」
「……私を見括らない方が身のためですよ」
そう言って、再度引き金を引こうとする。――だが。
「――ナサニエル、止めろッ!」
俺の悪あがきとも言えるわずかな時間稼ぎが功を奏したのか、馬の嘶きと共に――俺たちの間に割って入るように一人の男が躍り出た。馬に跨り俺に背を向けナサニエルと対峙するそいつは……紛れもなく、俺が探し求めていたルイスだった。
そしてそれと同時に、ナサニエルの背後から音もなく現れるもう一人の人影。それはアーサーだった。彼は右手に握る剣を振りかぶり、ルイスに気を取られているナサニエルの背中に問答無用に斬りかかる。
だが、ナサニエルは直前でそれに気が付き半身すれすれのところで避けた。
「――ッ、これはこれは……ローレンス様ではありませんか!」
流石のナサニエルも突然の背後からの攻撃に焦りを隠せないのか、動揺した様子で俺たちから距離を取る。右手に握っていた銃を左胸にしまい込み、傷の負っていない左手で、器用に腰の剣を抜いてみせた。そうして、二人は対峙する。
「兄上!ユリアは――!?」
そんな状況の中、アーサーが……いや、ローレンスが叫んだ。それはアメリアの容体を尋ねる問いかけ。
俺がハッと我に返れば、いつの間にか俺の背後――アメリアのすぐ傍で、ルイスが膝を落としていた。もう心臓の止まってしまった彼女の身体を抱き起こして――怒りとも嘆きとも取れない表情で、彼女をじっと見つめていた。
「兄上ッ!ユリアは無事なのか!?どうなんだ!」
アーサーの身体を借りたローレンスの罵声が森に響き渡る。彼はナサニエルに剣の切っ先を向け、その視線を微動だにしないまま、ユリアの無事を確かめようとしているようだった。だが、きっと彼はわかっているのだろう。彼らも4度の銃声を聞いていた筈なのだから。彼女が無事ではないことを、既に知っている筈――。
そしてとうとう、少しの沈黙の後ルイスが呟く。
「何故……このようなことに……」――と。
その言葉に、ローレンスの顔色が険しくなった。アメリアの状態を悟らざるを得ない、この状況に。――そしてルイスは、そんなローレンスよりも動揺しているようだった。
「あぁ……僕には聞こえていたぞ、ナサニエル。お前の放った銃声が。――お前はユリアではなく、エリオットを殺そうとしたのだろう?勿論それすら僕は許可した覚えはないが……ユリアを撃ったのは不本意だったのだろう?――だが……!」
ルイスはアメリアの身体を抱きしめながら、ナサニエルをじっと見据え声を荒げる。
「答えろ、ナサニエル!まさか忘れているわけがあるまいな!その右胸に隠し持った小瓶を――、母上の血液を、どうしてユリアに使わない!ユリアの心臓は確かに止まってしまった。だが、その魂は未だこの身体にとどまっている!今すぐにそれを使えばまだ間に合う!早くそれを僕に渡せ!!」
今まで一度だって見たことのないような顔で、ルイスはナサニエルに命令する。
けれど奴は頷かなかった。恨めしそうな顔でルイスを見返し、ナサニエルは拒絶する。ただ一言「それは出来ません」――と。その返答に、ルイスの顔が歪んだ。
「何故だ。お前は僕の味方では無かったのか……?どうしてこんな勝手なことをした、どうして僕の命令が聞けない。お前が復讐したかった相手はローレンスなのだろう?なのにどうしてウィリアムを狙う、何故ユリアを見殺しにしようとするんだ。
母上が亡くなって以来、お前はずっと僕の傍にいてくれた。お前だけは、いつだって僕の傍に……。それは全部嘘だったのか?お前は僕に忠誠を誓ってくれたんじゃなかったのか?僕らの望みは……同じものではなかったのか?」
――あぁ、ルイス……。
俺の視線の先で、責めるように縋るように……ルイスは声を絞り出す。その姿は、俺の知らないルイスそのもので。十五年共に過ごしてきた中で一度だって見たことがない、頼りなさげなルイスの横顔で。
――けれどそれでも、その瞳はあの日教会で別れたときとはまるで別人の、とても人間らしい色をしている。
「ナサニエル……答えてくれ。僕らが城を出ることになった原因を作ったのは……千年前のあの日、僕らに毒入り菓子を用意したのは……本当に、お前だったのか……?」




