01
ユリア――。それが私の、記憶に残る最初の名前だった。
「いいかい、ユリア。絶対に森の外に出てはいけないよ。外は危険なものがいっぱいなの、ここにいれば安全だからね」
私を育ててくれたおばあさんは、毎日のように私にそう言って聞かせた。おばあさん以外の人に出会ったことがない私は、それを何の疑いもせずに信じていた。そう――あの日、エリオットに出会うまでは。
「僕の名前はエリオット。君の、名前は――?」
木から落ちた私の下敷きになって頭を打ったあなたは、私の顔を見るなり目を輝かせた。そうして、屈託のない笑顔でそう尋ねたのだ。
そしてその瞬間、私の世界は……変わったのだ。
私はいつしかエリオットに連れられて森を出るようになった。
最初は森の側の草原や野原。そして、町にも出かけるようになった。
私はおばあさんに心配をかけまいとその事実を隠していたけれど、今思えばおばあさんは全て気づいていた。気づいていて、でも、おばあさんは私に何か注意するようなことは無かった。エリオットを遠ざけることも、彼の悪口を言うようなことも無かった。
ただその代わり、それと同じころ町に一人の医者がやってきた。それが、ナサニエル・シルクレット先生。遠方から来たと言う彼は、豊富な知識と見事な医者の腕前ですぐに町の皆の信頼を勝ち取った。
そして皆の強い要望を受け入れるという形で、まともな医者のいない小さな町に住んでくれることとなったのだ。
私の先生への第一印象は、千年たった今でもよく覚えている。
町の人達と笑顔で言葉を交わす彼を遠目から眺めたとき、私は彼を“怖い”と思った。
丸い眼鏡の奥に光る切れ長の藍色の瞳が、全てを呑み込んでしまう深い深い湖のように、底知れぬ何かを秘めているように感じられて足が竦んだ。
男性にしては長すぎる藍色の美しい髪も、よく通る中性的で穏やかな声も、隙のない話し方も……背筋のピンと通った立ち姿でさえ、子供の私からしたって全てが余りにも完璧に見えて、この人はどうしてこんな小さな町に居座ることにしたのだろうと、とても不思議に思ったのだ。
でもその理由が、今ならわかる。
彼は私のおばあさんから私の様子を伝え聞き、そんな私の行動を終始監視する為に町にやって来たのだと。だからあんなにも、完璧すぎる程に優しかったのだと。
町の人々は皆エリオットと私の交際を反対していたけれど、先生だけは決して反対しなかった。
エリオットの相談に乗り、最後まで私たちを応援してくれていた。私を蔑み恐れる町の人々を冷静に諫め、エリオット以外で唯一私の存在を認めてくれた人。エリオットがかつて最も尊敬し、信頼していた人――。
だから、先生が教会で私たちを拐ったと知ったとき、何かの間違いだと思った。
千年前の姿のままの先生の姿に、その眼鏡の奥の暗い瞳に、先生を初めて見たときのことを思い出した。
ダミアの屋敷で目を覚ましたエリオットの様子がおかしいのは……、エリオットが私に何かを隠して泣き出しそうに微笑むのは、きっと先生のせいなのだろうと気付いていた。ただ、気付かないふりをしていた。
エリオットが、言いたくなさそうにするから。
エリオットが、私には知られたくないっていう顔をするから。
でも、それが彼を……エリオットを苦しめてしまった。彼を、こんなにも追い詰めてしまった。
だから今度は、私が必ず彼を助ける。彼の力になる。もう二度と、彼を一人ぼっちにさせたりしない。
*
「アメリア様、これから如何致しますか。あの男がナサニエルなのでしょう。お許しを頂けるのなら、私が背後に回り……隙を見て」
「いいえ、もう少し様子を見るわ。それよりもう少し近づきたいわね。ここじゃ遠すぎて声が聞こえない」
「では風下に移動しましょう。今より音が流れてくる筈です」
「そうね、そうしましょう」
一日のうちで最も太陽が天高く昇った頃、ダミアより少し南に行ったあたりの国境沿いの森の中で、私とマーク卿は茂みに隠れエリオットとナサニエルの様子を伺っていた。
私たちから少し離れた木々の少ない開けた場所で、ウィリアムの身体を手に入れたエリオットとナサニエルが対峙している。
遠目から見ても、二人の間の空気が怖いほど張り詰めていることが伝わってくる。剣こそ構えてはいないが、二人はお互いから決して視線を放そうとしないのだ。
考えるに、先生はエリオットがレトナーク行きの馬車から逃げ出したことを勿論知っているはずだ。
つまり、自分が裏切られたのだと言うことをよく理解している筈。それが、どういうわけかエリオットは再び彼の前に姿を現した。
果たしてその理由を先生は知っているのだろうか。先生は本当に全てを……エリオットの望む答えを知っているのだろうか。
風下に移動した私たちの元に、二人の会話が風に乗って流れて来る。
「何をしに戻ってきたのです。一度この私を裏切っておきながら。わざわざその首飾りを届けに来たというわけでもないでしょう」
それは先生の声だった。静かで――冷ややかな、私の知らない先生の冷たい声音。けれどエリオットはそんな先生に、さして違和感など感じていないと言うように言葉を返す。それが先生の真の姿だと、知っていたかのように。
「僕はどうしても貴方に確かめたいことがあって戻って来た。貴方の返答次第では、この首飾りの力をもう一度使う覚悟でね」
「……そうですか。では……伺いましょう」
エリオットの言葉に、先生は迷うことなく答えた。まるで既に、何を尋ねられるかわかっているとでも言いたげに。
「手短に聞くよ。……千年前に僕らが死んだ日、ユリアをさらったのは…………彼女を殺したのは……、お前か」
――っ!
エリオットの問いに、私の心臓が飛び跳ねる。あの日の光景が脳裏に蘇り、喉元を締め付けられるような感覚に襲われた。
「僕はずっと大きな思い違いをしていた。首飾りを狙っていたのはローレンスだったと……ユリアを殺したのは彼だったのだと、ずっとそう思っていた。目の前で貴方がローレンスに殺され、首飾りを手にしたあの光景に……そこに広がる凄惨な景色に、僕は大きな思い違いをしてしまったんだ。首飾りを持っていたのは確かにお前だったのに……僕は、ローレンスこそがユリアをさらった犯人だと思い込んでしまった。
だが、違ったんだ。ローレンスはユリアをさらってなどいなかった。兵士を使ってユリアをさらったのは……ナサニエル、お前だったんだ」
「……ほう。何故そう思うのかお尋ねしても?」
「簡単なことさ。もしもローレンスが兵を使ってユリアをさらおうとしたのなら、兵士の格好のままでユリアの前に現れるのは不自然だ。自分がやったと言っているようなものじゃないか。
それにあの日のお前は返り血一つ浴びていなかった。――にも関わらず、兵士は皆殺しにされていた。つまりあの日部下であった筈の兵士たちを殺したのは、お前ではなくローレンスだったということ。
このことから考えられることは、だた一つ」
エリオットは一瞬の沈黙の後、続ける。
「お前にはユリアをさらった犯人がローレンスであると見せかける必要があったんだ。ユリウスがローレンスのことを心の底から憎み……二人の間の溝を決定的なものにする為に」
「…………」
エリオットの言葉に先生は沈黙した。それは勿論私も同じで……隣にいるマーク卿も、同じようで……。
――だって、そんなこと考えもしなかったのだ。
確かにあの日、私は隣国であったここエターニアの兵士にさらわれた。森に連れていかれ、随分つかわれていなかったであろう寂れた小屋に閉じ込められて、兵士たちに襲われた。
本当に怖かった。わけがわからなかった。どうしてこんな目に合わなければならないのか、見当もつかなかった。
だけど、その間一度だって先生の姿は見なかったのだ。先生の名前だって、聞かなかったのだ。
それなのに、あの日私をさらうように兵士たちに指示したのが先生だったと?全て先生が……仕組んだことだったと言うの?私たちに優しく接してくれていた先生の姿は偽りだったと……全てが嘘だったのだと、そう言うのか。
「教えろ!どうしてユリアを見殺しにした、何故彼女を傷つけた!彼女は何もしていない、あんな酷い目にあわされる理由なんて、死ななければならない理由なんて、何一つ無かったんだ!
お前はローレンスを憎んでいた。だから、その娘である彼女のことも少なからず憎んでいたのだろう。だが、何年も彼女の傍にいて、彼女を見ていて――ユリウスだって望まなかった筈なのに……それでも彼女を殺さなければならなかった理由があるなら、今ここで言ってみろ!!あの時僕がローレンスから首飾りを取り返していなければ……その力を使っていなければ、ユリアはここにいなかったんだ。あの日死んだユリアが蘇ることは、二度と無かったんだぞ!」
エリオットの悲痛な叫び声が森の中でこだまする。聞き耳など立てなくとも、この耳にはっきりと聞こえてくる。
先生の屋敷で、首飾りの石の力を使ったせいで私を苦しめることになってごめんと……そう懺悔した唇で、……今度こそ全てを終わらせると、私を眠らせた辛そうな声で……、彼は、それでも消えることのない私への愛の言葉をぶちまける。
「お前たちにとっては……転生しても記憶の残るお前らにとっては、死などさしたる意味もないのかもしれない。
だが、僕らにとっては違う!一度死んだら記憶は二度と戻らない、二度と同じ人生は歩めないんだ!例え魂が変わらずとも、その身体に出来上がるのは全く別の人格。そして、別の人間として生きるんだ。
お前たちと僕たちは、全く違うんだよ。なのに、……それを知っていて、どうしてユリアを殺したんだ。お前なら、そんなことせずとも立ち回れたんじゃないのか。ローレンス相手でも……彼女を犠牲にしない方法があったんじゃないのか?いくらでも方法は……あったんじゃないのか……?」
彼の声が……震えていた。私の前ではいつだって冷静で、声だって張り上げたことのないエリオットが……取り乱していた。
「僕は彼女を守れなかった。彼女が死んだのは、そもそもは僕の責任だ。彼女を森から連れ出した……僕の。ずっとそう思っていたし、今でもとても後悔してるよ。だけど、だからといって彼女を傷付けた張本人であるお前を……お前たちを、僕は決して許すことは出来ない。ソフィアのこともユリウスのことも何一つ知らされず、ただ死を選ぶことしか出来なかった彼女の苦しみを少しも理解していないお前のことを、僕は心底許せない!!」
エリオットが叫ぶ。自らと、先生への憎悪を隠しきれずに……いや、恐らくもう、彼は何一つ隠す気はないのだろう。彼はただ、思いの丈をぶつけているだけ。――何一つ、信じることも、許すことも出来ずに……。
だけど、先生は――。
「成程、貴方は全てを知ってしまったのですね。そのウィリアムの身体で、彼の記憶を盗み見た。つまりローレンスはアーサーに全てを伝えてしまったのだと……そういうことなのですね」
「……それが一体何だと言うんだ」
「いえ、こちらの話です。――ですが、残念です。全てを知っても尚、貴方はユリアと生きることを選ぶと思っていたのですが、……どうやらその賭けに私は負けたようだ。
ですから申し訳ありませんが、貴方には今ここで死んでもらわなければなりません。ユリウス殿下がこちらにいらっしゃる前に」
「――何?」
そう言った先生が、胸元から取り出したのは拳銃だった。この周辺諸国では使用を禁止されている筈の――。
それを静かにエリオットに向けて構える先生の姿に――私は悟る。
先生は、敵なのだ。少なくとも、エリオットの敵。彼は本当にエリオットを殺すつもりなのだ。剣なんかよりもずっとずっと殺傷能力の高い、銃を使ってまで……。
そして、その刹那――私の脳裏に蘇る、あの記憶――。
エリオットが私の目の前で“銃に撃たれて”死ぬ光景――。
――あぁ、そういうことだったのね。
瞬間、私は全てを思い出した。そうして、全てを理解した。私がずっと見ていた悪夢は、エリオットが目の前で殺されたと思っていた、そう思い込んでいたあの記憶は“今から起きる筈の未来の出来事”だったのだ――と。
「――伯爵……っ」
私の隣で、マーク卿が今にも茂みを飛び出そうとする。けれど私はその腕を掴んで止め、代わりに自分が飛び出した。
「アメリア様ッ!」
背後から、マーク卿が私の名前を叫ぶ。
その声に、エリオットがこちらに顔を向け――とても驚いたように顔を歪めた。けれど、先生は動じない。指にかけた引き金を、今にも引こうとしている。
私は走った。剣は抜かなかった。だって私は、まだナサニエルを殺せない。まだ、彼の口から真実を聞いていないのだから。
だから、私は――。
そうして、広い広い森に一発の銃声が響き渡った。本当だったらエリオットの心臓を撃ち抜いていた筈のその銃弾は、私の突然の介入によってその進路を変え――私の胸を、貫いた。




