04
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その日は唐突に訪れた。
「ユリア、今日の予定は?」
「特に無いわよ。あ――でも、この前マシューさんからリーズベルの奥様が私のジャムを気に入って下さったって聞いたから、今日作って届けようかと思ってるの」
「そうか。もう時期も終わりだしね。きっと喜ぶよ。でも、僕らの分もちゃんと残しておいてくれよ。あれが無いと冬が越せないんだ」
「ふふ。大げさね、わかってるわよ」
僕はユリアといつものようにたわいもない会話をして、身支度を整えた。そして昼食のパンと葡萄酒を受け取って、彼女の額にそっと唇を落とす。
「じゃあ、行ってくるね」
「ええ、気を付けて」
いつもと同じ朝だった。いつもと同じ一日になる筈だった。それはユリアの誕生日を残り一週間に控えた頃。――そう、何事もなく過ぎ行く日々に、僕はすっかり気を緩めてしまっていたんだ。
秋の始めの清々しい日差しが降り注ぐ中、ユリアを家へと残していつものように家を出た僕は、一人街の中心部へと向かっていた。石造りの大きな建物が多く、大通りの左右にはずらりと露店が立ち並ぶ。ここでは果実や野菜は勿論、花や布、そして家畜の売買も行われていた。大抵のものは全てここで手に入れることが出来る、この街の要だ。
「エリオット、今日は早いじゃないの」
「おはよう、おばさん。今日は新しい現場だからね、下見をしておかないと」
「やぁ、エリオット。ユリアは元気かね」
「もちろんさ。また寄らせてもらうよ」
僕は掛けられる声に笑顔で言葉を返しながら、露店を通り過ぎていく。この街に越してきて三か月、大きな街だと言うのにここの人たちは直ぐに僕らの顔を覚え、そしてこうやって毎日声をかけてくれている。それはとても嬉しい。だけど、本当に商売上手だな、なんて思ってしまうのは流石に意地が悪いだろうか。
「ええーと、今日は確か……」
僕は大通りから少し細い道へと入り、灰色一色の壁が左右にそびえたつ路地裏を抜け、目当ての場所へ向かう。
僕は今、読み書き計算が出来ることを買われ、建築の仕事をさせてもらっている。設計は出来ないけれど、資材の材料費を計算したり、寸法を測って決まった式に当てはめ、数字をはじき出すような仕事だ。この仕事についてそろそろ二ヵ月になる。給金も悪くないし、ユリアと二人で暮らすには十分だ。
「おう、今日も早いな」
今回の仕事の現場に着くと、現場監督のローガンさんが僕に向かって右手を上げた。体格のいいローガンさんは、まさにザ・漢という風貌だ。彼は僕に笑顔を向けたあと、視線を建物の上の方へと移した。そしてなんだか難しそうな顔をする。
「今回はちょっと面倒な仕事になりそうだな」
「……」
僕がその声に彼の視線を追うと、地上10メートル以上の高さの外壁の上部分に大きな亀裂が入っていた。どうやら先日の大雨のときに大きな雷が落ちたらしい。今回はその修理と言うことだ。
「……難しいというと?」
僕が尋ねると、ローガンさんはうーん、と右手で後頭部をかく。
「見てみろ。隣の壁が近すぎて足場が組めん。こりゃあ上から吊るしかねぇな」
「吊る?」
確かにここは路地裏だ。そもそも建て替えを殆ど想定していない石造りの建物は、この中心部で酷く密集して建てられている。だから、大掛かりな修理は新築よりも面倒な仕事になりがちだ。
「お前、吊られるか?」
「え、僕ですか?」
「お前が一番小柄だしな」
「……あぁ。まぁそれは否定しませんけど」
そういう訳で、僕が吊り下げられて傷の詳しい具合を見ることが決定した。
皆が集まって作業が始まる。僕は、傾斜のある屋根の上から、仲間に命綱を支えられながら、壁を伝って降りていった。隣の壁との距離が狭い為、そこに背中をぴったりと付けていれば良くて、それ程恐怖は感じない。
ひび割れた壁の様子を確認する。欠けた部分から大凡の深さや細かい傷の具合も確かめ、午前中の作業は滞りなく終了した。
大きな木の陰に入り、皆で昼食を囲む。そして談笑した。中には僕と同じ歳の子供を持つ人もいる。そうでなくても皆結婚していて、子供がいる人ばかりだ。だからだろうか、皆僕のことをとても可愛がってくれている。
「そいやぁお前、結婚はまだしねぇのか」
ローガンさんの唐突なその問いに、僕は思わず飲みかけの葡萄酒を吹き出しそうになった。そうだ、ここでは僕もユリアも既に成人していることになっている。実際に僕は先月成人に達したが、ユリアはまだである。
「はい。……あ、でも来週、教会に結婚証明書を提出しようと思ってます。この仕事も、続けられそうですし」
そう言って無難に微笑み返せば、彼は「そりゃあいい!」と大声で笑って僕の背中を勢いよく叩いた。……とんだ馬鹿力だ。背中がじんじんと痛む。
「はは。これからもよろしくお願いします」
「おう」
そして僕らが休憩を終えて午後の作業に取り掛かろうとしていると、何事かあったのだろうか。一人の女性が血相を変えて僕らの方へと走ってきた。良く見れば、その人は僕の家の近所の家のおばさんだ。
「エリオットはいるかい!?」
彼女は蒼い顔で僕の名前を呼ぶ。その表情は、どう考えても平常ではない。
「おばさん、どうしたんですか」
僕は手を止め、ローガンさんに目配せしてからおばさんの元へ走る。彼女は僕の姿を確認すると、何かにまくし立てられるように口を開いた。
「すぐリーズベルのお屋敷へ行きな!ユリアが連れ去られたって、あんたの家の傍で倒れていた子供がそう言ったんだ。子供の名前はステファン。あんたの弟なんだろう!?」
「――っ」
――は?なんだよ、それ。全く意味がわからない。
僕はおばさんの言葉の意味を理解できず、茫然と立ち尽くす。
「ユリアが……」
連れ去られた?どうして?誰に?――そもそも、どうしてステファンがこの街にいるんだ。
「早く行っておやり!子供はリーズベルの屋敷で手当てを受けているが、……助かるかはわからないそうだよ」
「――、……なん」
助かるか、わからない……?それは、死ぬ――と、そういうことか?
決して嘘をついているようには見えない、おばさんの真っ青な顔。
その震える瞳に、僕の全身から血の気が引いた。バクバクと心臓の音だけが耳に響く。全身に震えが起きて、その場に崩れ落ちそうになった。
「おい!しゃんとしねェか、エリオット!」
「……あ」
低い罵声に顔を向ければ、ローガンさんが険しい表情で僕を見ていた。そして、彼の右腕が僕の身体を支えてくれていることに気付く。
「チッ。おい、お前ら!今の話聞いてたな。俺はこいつを送って来るから、残りの仕事は頼んだぞ」
ローガンさんは他の皆にそう言って、僕の腕をぐいと掴むと歩き出した。
*
「おい、お前の家、こっちで合ってるのか」
背中からローガンさんの声が聞こえる。僕はその問いに、ただ短く「はい」とだけ返した。
僕らは馬に乗っていた。ローガンさんが大通りで誰の物ともわからない馬を、勝手に拝借したのである。後でちゃんと返すから大丈夫だと彼は言っていたけど、本当に大丈夫なのだろうか。そんなことを考えながらも、僕の頭はユリアとステファンのことで一杯になっていた。
「……ユリア」
僕らの家に、――リーズベルの屋敷に近付けば近付くほど、僕の頭が酷く冷静になっていくのがわかる。ユリアとステファンのことだけで満たされた僕の心は、こんなことをした誰かに対する怒りと憎しみで冷え切っていた。
あぁ、そういえば――。僕は三ヶ月前のことを思い出す。ユリアのおばあさんが亡くなった、あの日のことを。あの夜燃やした、手紙のことを――。
あぁ、もしもユリアを連れ去ったのが、ユリアの本当の家族だったとしたら――そして、ステファンに怪我を負わせたのがそいつらだったとしたら――?許せる筈がない。僕は、そいつらを決して許さない。
「――ッ」
僕は奥歯を噛み締める。そうしている間に、僕らの乗る馬は丘の上の僕の家へと辿り着いた。
僕はさっと馬から降り、木の扉へと手をかける。鍵は開いたままだった。心臓の音が煩い。――ユリア、君は。
扉をゆっくりと押す。ぎぃと音がして、家の中の様子が僕の視界に映し出される。そして、やはりそこに――彼女はいなかった。
「……ユリア」
部屋の中に足を踏み入れれば、部屋の中は朝と変わらず何時も通りだった。ベッドも乱れていないし、テーブルの上も片づいている。木の床に何か散乱しているということもなく、誰かが入った形跡は見られなかった。ただ一つ朝と違うことといえば、台所の鍋に、ユリアの作りかけのジャムがあるくらいだった。
「――おい、エリオット」
家の扉の外から、ローガンさんが僕を呼ぶ。
「お前の馬か」
その問いに耳を済ませれば、外の馬小屋の方からフォレストが僕を呼んでいた。
僕は馬小屋に向かう。フォレストは酷く動揺した様子で、僕の姿を確認すると何かを知らせるように嘶いた。
その姿に、僕は確信する。先程のおばさんの言葉は決して間違いではないのだと。だってこんなに動揺したフォレストを見るのは、初めてのことだから。それに、ユリアは出掛けるとき、必ず鍵をかけるのだ。それが、空いたままになっていた。――つまりそれは、そういうことだ。
「……フォレスト、落ち着け」
僕は呟く。そして、暴れるフォレストの手綱を強く引いて、彼の目をじっと見据えた。すると、彼は次第に落ち着きを取り戻す。
「お前が無事で……本当に良かったよ」
これは本心だ。お前が無事で良かった。だってそうできゃ、ユリアを迎えに行くことが出来ないのだから――。
僕はフォレストを馬小屋から連れ出すと、彼に跨がる。ローガンさんは、そんな僕をただ黙って見ていた。
「お前、これからどうするんだ」
ローガンさんの低い声。僕は、何とか平静を装って唇を開く。
「裏の館へ。――弟に会ってきます」
僕は呟いて、馬上から彼を見下ろし、続けた。
「ローガンさん。短い間でしたが、……お世話になりました」
それは、ただの予感だった。何となく、そう言っておかなければならないような気がしたのだ。きっと、もうここには戻ってこれないだろうと――そんな気がしていたのだ。
けれど彼は、頷かなかった。ローガンさんは僕の言葉に不愉快そうに顔を歪めると、切れ長の瞳を更に鋭く尖らせる。
「戻って来い。嬢ちゃんと二人で。待っててやるから」
「……」
あぁ、何て人のいい。――僕は今度こそ、精一杯微笑む。それで、この人の気が済むのなら。
「はい。……必ず」
それが、僕とローガンさんの交わした最後の言葉だった。そして僕はステファンに会う為に、僕の家の裏にある、丘の上のリーズベルの屋敷へと馬を走らせた。