01
長い長い夢を見ていた。とても幸せで、暖かな夢……。
そこにはいつも隣に彼がいて、私に微笑みかけてくれる。朝起きたらおはようの口づけを交わし、昼は手をつないで市場を歩き、夜は私を抱きしめて愛を語ってくれる。そんな幸せな夢。
彼の腕に包まれて、彼の体温だけを感じて眠る夢。
――君を愛してる。君だけが僕のすべてだ。
そう囁きながら、彼は私の背中に指を這わせる。
抱きしめられて……彼と一つになって、声にならない喜びを噛みしめる……夢。
でも、私はわかっていた。これは夢だ。全部全部偽物だ。だって私たちは……私たちは――。
私は顔を覆った。彼の笑顔を目の前にすると、涙が溢れて止まらなくなった。眩しくて、嬉しくて、でも――切なくて。
「どうして泣いているの?」
彼が私に問いかける。でも、私は答えられない。苦しくて、苦しくて、何一つ言葉にならないのだ。
「僕に話してごらん?君の涙を見ていると、僕の心臓は今にも張り裂けそうな程に痛むんだ。だから――」
私を抱きしめる彼の腕。首筋にかかる吐息。耳をくすぐるさらりとした髪。そのどれもが懐かしくて、愛しくて……一瞬も離れていたくなくて、私は彼を抱きしめ返す。
「ごめんなさい……私……」
私――あなたを置いていってしまったわ。約束したのに、あなたと共に生きるって約束したのに。私は、それを守れなかった。
私はそう、心の中で叫ぶ。すると彼は、私に優しく囁いた。
「大丈夫。大丈夫だから涙を拭いて。僕は必ず君を迎えに行く。約束するよ。
だから君はどうか忘れないで。僕のことを、僕が君を愛したことを。決して忘れないでいて。そしたら僕は必ず君を見つける。今度こそ君を幸せにする。君をもう二度と泣かせはしないと誓うから……」
「――っ」
――あぁ、エリオット、エリオット。私、絶対に忘れないわ。何があろうとあなただけを愛すると誓う。だから、必ず迎えに来て。もう一度私を抱きしめて――。
「あぁ、ユリア、……僕のユリア。君への愛に誓って、必ず、君を迎えに行くよ――」
そう囁いた彼の声が、だんだんと遠ざかっていく。今まで私を抱きしめていた彼の腕が、いつの間にか――手の届かない場所へと離れていく。
「待って!待って!行かないで!私を一人にしないで!」
叫んで必死に手を伸ばしても、私の指先は空をかき――彼には決して届かなかった。
「大丈夫、何があろうと僕らは一緒だ。今は一緒にいられなくても、僕はいつだって君の側にいる。だから怖がらないで。それに君はもう一人じゃない。友人も、家族もいる。……それに」
――優し気に、寂し気に……何かを言いかけたエリオットの姿が、淡い灰色の霧の向こうに消えていく。私の視界から消えていく。
「エリオット……!」
そして遂に、彼の姿は見えなくなり――けれどその瞬間、私は誰かから名前を呼ばれたような気がして、――目を、開けた。
*
「――っ」
――あれ、……ここって、どこだったかしら?
眠りから覚めた私は混乱した。ゆっくりと起き上がって辺りを見回す。けれどやはり、視界に広がるのは見覚えのない天井。知らない部屋。貴族の屋敷であることには間違いないが、自分の部屋でもなければ、ウィリアムの部屋でもない……。
「ここ……どこ」
一人呟いて、青ざめる。
私は確かさっきまで、エリオットと一緒に居た筈だ。ナサニエル先生の屋敷の部屋で――。そう、そしたら彼が私に……。
「……痛っ」
けれどそのときのことを思い出そうとした瞬間、酷い頭痛が私を襲った。まるで何かに阻まれているみたいに、頭がズキズキするのだ。それに――どうしてだろう。頬が……濡れていた。
「……しっかりしなきゃ」
私はゆっくりとベッドから降り、窓から外の様子を伺う。日はまだそれほど高くない。恐らくご午前中であろう。
また、ここは二階のようだった。けれどやっぱり景色は全く見覚えがなくて、私はとても不安になった。
「……そう言えば、前にもこんなことあったわね」
それは私が湖に落ちたときのこと。あのとき私はライオネルに命を助けられたのだ。それを思い出して、ハッとする。エリオットはどこに行ったのだ――と。
それと同時に、どこからか怒声が聞こえた。それは間違いなく、ライオネルの声で……。
「――!」
私は弾かれたように部屋を飛び出した。声は下の階から聞こえてくる。階段を一気に駆け下りて、声のするほうへと走った。
するとそこには人だかりが出来ていた。使用人たちがドアの辺りを塞ぎ、張りつめた表情で中の様子を伺っている。
「放してくださいマーク卿!僕はどうしても彼女に伝えなきゃいけないことがあるんだ!」
「黙れマクリーン!これ以上暴れれば下手すりゃ極刑だ、お願いだから大人しくしててくれ!」
「そんなことはわかっています!僕はどの様な処分を受けようと構わない!だからどうかその前に、一度でいいからアメリアと話をさせてください!お願いです!」
廊下にまで響きわたってくる二人の声。その主は間違いなくライオネルで……エリオットではなく、ライオネルのもので。
――一体、どうなってるの?
私は廊下の角から様子を伺う。状況把握もままならない今、使用人に見つかっては不味い。けれどこのままでは恐らく、ライオネルの処遇は良くないことになってしまうのだろう。
――落ち着け、落ち着くのよ。
私は何度も深呼吸をした。今のライオネルはエリオットではない。そして彼と言い争いをしている相手はマーク卿と呼ばれていた。名前に敬称……つまり、相手は正規の騎士ということだ。
――大丈夫、大丈夫よ。私は貴族だもの。見たところ私の姿は貴族の格好。先程の部屋もきちんとした客室だった。だから大丈夫。
私は拳を握りしめる。
――しゃんとするのよ、だって私は……アメリア・サウスウェルなんですもの。
私は角を曲がり、騒ぎの起きている部屋の使用人たちの背中に向けて低い声を放った。
「一体何の騒ぎなの?」
瞬間、彼らの顔が一斉にこちらを振り向いた。彼らは一瞬で顔を青くして廊下の角に寄る。私はその中から一番年長そうな従僕に視線を向けた。
「そこの貴方、今日は何月何日か教えて下さる?」
すると彼は困惑げな表情を浮かべつつも躊躇いがちに口を開く。
「……10月10日でございます」
――10日?確か私がダミアに着いたのが4日だった筈。ということは、あれからもう6日が過ぎているということ?だけど、どうして私は何も覚えていないの……?
私は少しの間考えてから、使用人たちの前を横切った。そして開け放たれたままの扉の前に立つ。するとやはり部屋の中にはライオネルが居た。――マーク卿と思われる人物に、うつ伏せで床に身体を押し付けられた状態で。
だが、私はそれ以外のことに目を奪われた。
部屋が荒らされているのだ。割れた食器と料理が床に散乱し、椅子がいくつか倒れている。テーブルには、誰かが靴のままで上がったであろう靴跡が残っていた。
それに、部屋にはライオネルとマーク卿以外にもう一人騎士がいる。その一人は痛みを堪えるように顔を歪めながら、自らの足に布を巻いていた。彼の側には血に濡れたナイフも一本落ちている。
――一体ここで、何が……。
私は奥歯を噛み締める。覚悟を決めて、部屋に足を踏み入れた。するとマーク卿がこちらに気付いたらしく、ハッと顔を強ばらせる。そして、「来てはいけません!」と叫んだ。その声にライオネルも私の存在に気付いたようだ。床に押し付けられたまま必死に頭をもたげて、私の顔を仰ぎ見た。
それは、今にも叫びだしそうな、泣き出しそうな必死な表情で。その様子に私は一瞬で理解する。ライオネルは、私が知らないことを知っているのだ、と。
――ならば。
「マーク卿、ライオネルは私の命の恩人なの。ですからその手を放して下さらない?何があったのかは知らないけれど、彼が私に危害を加えることはありません。勿論、他の誰かにも。サウスウェルの名にかけて断言致しますわ」
私はマーク卿を見下ろしてきっぱりと告げる。すると彼は驚いたように両目を見開いた。
「……正気を……取り戻されたのですか?」
「……」
――正気ですって?
それを聞いた瞬間、私はようやく思い出した。記憶の中のエリオットの最後の言葉を。彼は、私の記憶をしばらく消すと言ったのだ。
つまり、私は彼の言葉通り、記憶を消されていたと言うこと……?
「……そうね。昨日までの私がどうだったかは知らないけど、今の私は確かにサウスウェル伯を父に持ち、ファルマス伯の婚約者であるアメリアに間違いないわ。
それよりこれは一体どういうこと?ここで何があったの?ライオネルをすぐに解放して」
「――ですが」
マーク卿は躊躇いつつも、ライオネルを拘束する腕の力を一応は弱めたようだ。ライオネルの苦しそうだった顔色にほんの少し赤みが戻る。と同時に、ライオネルが口を開いた。
「アメリア、すぐにエリオットを追いかけるんだ!彼は伯爵の体を支配して、ナサニエルに会う為に西の国境へと向かった!早くしないと取り返しのつかないことになる!」
「――。それは……どういうこと?」
エリオットがウィリアムの身体を支配している?それ以前に、ライオネルは自分の中にエリオットが居ることに気付いていたと、そういうこと?
私は詳しい話を聞きたいと、マーク卿に目配せした。すると流石の彼もライオネルの拘束を解き、私たちから2歩離れてこちらを見守る体勢をとる。
拘束を解かれたライオネルは、二、三度咳き込んで身体を起こした。彼は傷が痛むのか床に腰を下ろしたまま、あばらをさすっている。
それと同じくして、私は廊下にいる使用人たちにも下がるように合図を出した。全員の気配が無くなったのを確認し、私はようやくライオネルと視線を合わせる。すると彼は「ありがとう」と私に呟いて、張りつめた顔で話し始めた。
「……彼はずっと葛藤していた。僕の意識はエリオットに封じられ表に出てこれなかったけど、エリオットの思考を感じることは出来たんだ。だから僕にはわかる。
彼はもう君のところには戻らない覚悟だ。千年前の真実を知る為に、伯爵を道連れにして死ぬつもりなんだと思う。彼はダミアでナサニエルと取引していたんだ。君の千年の記憶を消し、伯爵の身体でエリオットとして生きることと引き換えに、彼の魂に刻まれたソフィアの力をナサニエルに引き渡す取引を……。だから彼は君の記憶を消した。でもそれは一時のことだった。彼は完全に消さなければならなかった筈の君の記憶を、ナサニエルには内緒で一時的なものに留めたんだ。
その理由がわかるかい?それは、彼の中で君のもとに戻れる確証が……無かったからだよ」
ライオネルはまくし立てるように、けれど落ち着いた声でそう言って、私から視線を反らす。
「……だから、早くエリオットを追いかけて、アメリア。もしまた彼がソフィアの力を使ったら、彼の魂はきっと、粉々に砕けて消えてしまうよ」
「――っ」
彼の言葉が、鋭い刃のように私の心に突き刺さる。




