05
ウィリアムは心の奥底に広がっていく今まで一度だって感じたことのない感情に、自分が自分で無くなるような心地を感じていた。
知らず知らずのうちに、アメリアを抱き締める腕に力が込められる。それは何も知らない者から見れば感動の再開に見えるかもしれない。あるいは、愛し合う者同士の抱擁だろうか。
けれど今この場に流れる空気は、そんな生易しいものではなかった。アメリアを抱くウィリアムを、離れた場所からじっと見つめるエリオットの瞳。それはウィリアムの器量を推し量るように瞬き一つしないのだ。
そのエリオットの射るような眼差しが、アメリアの涙が、そして自分をエリオットと呼ぶ声が――ウィリアムの心を苦しめていく。再び再開出来たなら決してアメリアを放さないと、二度と一人にはしないと……もう泣かせはしないと、そう誓った想いを全て打ち砕いてしまいそうな程に。
けれどそんな、今にも叫びだしたくなるような気持ちを、ウィリアムは喉の奥で何とか押し止めていた。アーサーやルイスや、他の皆の姿を思い浮かべ必死に耐えていた。
何があろうと折れてはいけないと、諦めてはいけないと。立ち止まってはならないと――前を向けと……そう言ってくれたアーサーの言葉を何度も心の中で繰り返しながら。
何故なら彼はもう、何ものからも逃げはしないと――それだけは心に決めていたから。
*
――どれくらいそうしていただろうか。
「伯爵」――と、背後からトリスタンに声をかけられ、ウィリアムは意識を引き戻した。ハッとしたように顔を上げ、声のした方にちらりと視線を流す。するとトリスタンが言いにくそうな顔で、自分を……いや、その腕の中のアメリアの様子を伺っていた。
「……お眠りになってしまわれたようでございますね」
「――え?」
その言葉を受けて腕の中のアメリアの顔をそっと覗き込めば、彼女はトリスタンの言った通り、すやすやと寝息をたてていた。それにいつのまにか温室の外は闇に包まれている。どうやら日が暮れてしまったらしい。
――俺はどれ程の時間、こうしていたんだ?
そう思いつつも、ウィリアムはアメリアの寝顔を見つめる。それは彼の良く知るアメリアの穏やかな寝顔だった。安心しきったように自分の胸に身を委ね、子供のような顔でリズムよく深い呼吸を繰り返すアメリアに、ウィリアムの表情もどことなく緩む。
「私がお部屋までお運び致しましょう」
トリスタンはそう言ったが、ウィリアムはそれを断り自らの腕にアメリアを抱えた。そして未だ椅子に腰掛けこちらを見つめたまま微動だにしないエリオットへ視線を向けると、無表情で尋ねる。
「ライオネル……いや、エリオットか。彼女の部屋はどこだ。案内してくれ」
それは感情をエリオットに見せまいとするような表情で、エリオットもそれを感じ取ったのだろうか。彼は隠す素振りもなく、深いため息をついた。
今さらウィリアムが取り繕ったところで、エリオットにはウィリアムの感情など手に取るようにお見通しだった。千年の間ウィリアムを追いかけるアメリアを、彼はずっと見守り続けていたのだ。そんな彼にウィリアムの考えがわからない筈がない。それにウィリアムの魂は、エリオットの魂の欠けた部分。つまり、本来のエリオットの持つ性質のうち、今の彼に欠けている性格や感情が、ウィリアムのそれであるのだから。
しかしだからこそ、エリオットは正直なところウィリアムに少しばかり関心していた。彼は、以前のウィリアムならば今ほど冷静ではいられなかったであろうと予想していたからだ。アメリアを見つめるあの瞳に、もっと素直な感情を写すだろうとエリオットは考えていた。だからこれは少々面倒なことになったかもしれないな、とも感じていた。
それはエリオット自身の目的の為に。彼にとってのベストは、より深くウィリアムの心を傷つけることだったのだから。しかしそれは、どうもそう簡単では無さそうだ。エリオットはそう悟っていた。――ならば……、と考える。
「こっちだよ。着いてきて」
エリオットは椅子から立ち上がりウィリアムらの横を通り過ぎると、温室の出口の方へと歩き出した。闇に落ちた暗い庭を横切りながら、彼は一人静かに頭を巡らせる。
いっそ正攻法で行くべきか――今のウィリアム相手なら全てを正直に話してしまっても良いかもしれない。きっと協力を得られるだろう。ユリアの記憶を取り戻す為だと言えば、条件付きではあるだろうがその身体を差し出すかもしれない。それほどまでに、今の彼は冷静だ。……だが、しかし――と。
「……なぁ、エリオット。そっちは屋敷の方ではない気がするが」
「…………大丈夫、あってるよ」
エリオットの真の目的は千年前の真実を明らかにすることだった。それを達成する為には、どんな手段も厭わない覚悟だった。
だから彼は考える。目的を達する為に最も確実な方法を――ウィリアムやアメリアにとって……最も卑劣な選択を。
――ごめんね、ウィリアム。今の君の強さは僕の予想の上をいったよ。だけどそれでも僕は、どうしても君の身体を手に入れなければならないんだ。だから……。
エリオットがウィリアムの身体を手に入れる為には、何としてでもウィリアムの心を奪わなければならなかった。その為にウィリアムの心を揺さぶり、深く傷つける必要があった。だからエリオットは心に決める。ウィリアムに対し、一片の容赦もしない――と。
エリオットは背後に皆を引き連れながら、ほくそ笑む。それは酷く歪んだ笑顔で……だがそこにいる誰が、どうやって初対面であるエリオットの考えを知ることが出来ただろう。誰も知り得はしない。それは記憶を失う前のアメリアでさえ――。
エリオットは屋敷の本宅ではなく、離れへと彼らを案内した。「ここを好きに使っていいと言われてるんだ」そう微笑んで、彼らを中に招き入れる。
「彼女の部屋は二階の東側、一番奥だ」
そう伝えて、三人を部屋へと向かわせた。その姿が二階へと消えると、エリオットは一人キッチンへと向かう。手持ちぶさたな様子でボーッとしているメイドに声をかけ、アメリア以外の四人分の夕食をこちらへと運ぶように指示をした。
メイドは頷き、灯りを片手に裏口から本宅の方へと歩いていく。エリオットはその背中が闇に紛れて見えなくなるのを確認し、ズボンのポケットに手を入れた。そっと小さな包み袋を取り出すと――唇を薄く開く。
「さて……最後の晩餐会の始まりだよ、ウィリアム」
一人きりのキッチンでそう囁いて、口許をニヤリと歪ませた。
*
同じ頃、ウィリアムらはアメリアをベッドに寝かせた後、これからどうするかについて話し合っていた。
「――して、伯爵。これから如何いたしますか。まさかアメリア嬢が記憶喪失とは……このような状態では伯爵と別行動で王都にお帰しするのは難しいかと思われますが……。それにライオネルのことも……彼は一体どうしてしまったのか。伯爵は先程“エリオット”を知っているとおっしゃいましたが、あれは一体どのような意味だったのですか」
「ええ、そうです。先程のライオネルは我々の知る彼とはまるで別人でした。自分の名前さえ偽って――。あいつは明らかに異常です。アメリア嬢の様子が可笑しいのも全てライオネルの仕業であるかもしれません」
トリスタンとマークはウィリアムに小声で問いかける。もしも誰かがドアの外で聞き耳を立てていようとも、決して聞こえないように。するとウィリアムは疲労を隠せない様子で、肺から深く息を吐きだした。
「……そうだな。確かにこんな状態の彼女を一人で王都に帰すのは難しいだろう。だからと言って一緒に連れて行くわけにも行かない。……何にせよまずは、この約二週間の間に一体何があったのか、エリオットから聞き出すほかない。アメリアの記憶が消えているのは……認めたくはないがどうやら事実のようだからな」
「……そう……ですね」
そしてしばらく沈黙が続いた。が、それを打ち破るように部屋の扉がノックされ、エリオットが姿を現した。――瞬間、トリスタンとマークは気を引き締める。
エリオットは扉を開けたまま、部屋の入り口で立ち止まっていた。
「……遅かったな」
ウィリアムが呟けば、エリオットはにこりと微笑む。
「下に夕食を用意してもらうように頼んでたんだ。君たち、お腹は空いてる?そこの騎士様お二人も一緒にどうかな。客人の僕が言うのもおかしいけど、味はなかなかいけると思うよ。――話したいこともあるしね」
そう言って、ウィリアムをどこか挑発するように目を細めた。するとウィリアムもエリオットを睨むように見つめ返し、低い声で答える。「ありがたく頂くとしよう」――と。
そして三人は、エリオットに連れられダイニングルームへと向かった。




