04
ウィリアムは顔を歪めた。エリオットに何かを言いかけて……けれどどうにか押し留まる。エリオットの言葉が真実であろうとなかろうと、今ここで立ち止まっている暇などありはしないのだ……と。
「彼女はどこだ」
ウィリアムが尋ねれば、エリオットは小さく息を吐いた。自分の言葉を肯定しないウィリアムに対し、だがそれも致し方ないことだと考えているようなため息だった。
「……着いてきて」
エリオットはそう言って歩き出す。けれど進む先は屋敷の中ではなかった。エリオットは三人を引き連れて屋敷の裏手に回り込む。そしてそこにそびえ立つ巨大な温室の扉の前に立つと、ウィリアムを振り返った。
「彼女はこの中にいる。心の準備はいいかい、ウィリアム」
「言われなくとも」
そうしてウィリアムら三名は、エリオットに続き温室の中へと足を踏み入れた。
中は見事なものであった。水路が張り巡らされた花壇には色とりどりの花が咲き乱れ、他にも観葉植物や、ウィリアムたちが見たこともないような木々が温室の天井に届いてしまう程の高さにそびえている。
三人は曲がりくねった通路をエリオットに着いて進んだ。すると温室の中央の他より一段高くなっている空間に、確かにアメリアが居た。彼女は丸テーブルの椅子に腰かけ一人静かに本を読んでいる。俯き加減の瞼から覗く透き通った碧い瞳は以前と変わらず美しく――腰の辺りまで無造作に流れる金の髪は、青いドレスに良く映えていた。
その姿は彼女を知る者が見れば間違いなく、アメリア・サウスウェル本人であり、それ以外の何者にも見えない。もちろん現に彼女はアメリア本人であり、記憶を無くしたところで、その姿かたちが変わるわけではないのだから。
しかし、だからであろう。ウィリアムはアメリアの姿を目の当たりにして、足を止めてしまった。その落ち着いたように見える横顔が自分の良く知るアメリアと重なって困惑した。彼女が本当に記憶を無くしているとするなら――自分は彼女にどう接すればいいのか、急にわからなくなってしまったのだ。
「ユリア」
しかしエリオットは、立ち止まったウィリアムには気にも留めずアメリアに声をかける。すると彼女は、本から顔を上げてゆっくりとエリオットを仰ぎ見た。
「……あら、ライオネル」
そう呟いて、微笑んだ。それはウィリアムの見たこともないような優しい顔で――。ウィリアムは理解した。アメリアが自分の知らない顔で微笑んでいるという現実に……彼女は恐らく、彼女ではないのだということを。
「どうしたの?夕食にはまだ早いわよね?」
アメリアが問えば、エリオットはどこか切なげに微笑み返す。
「……君に、お客様だよ」
囁くように呟いて、いまだウィリアムの姿に気づかないアメリアの視線を誘導するようにゆっくりと背後を振り返った。
「……エリオットが、来てくれたよ」
そして――今にも泣きだしそうな顔で笑った。
「――え?」
同時に、ウィリアムの姿を捉えるアメリアの碧い瞳。そこに映し出される、ウィリアムの姿――。
「……エリ……オット?」
刹那――アメリアの頬に一筋の涙が零れ落ち……その涙は温室の外から差し込む夕日を受けて赤く煌めく。それは神秘的な、紅の色。
その足が地面を蹴り、エリオットの横を通り過ぎた。そしてそのまま……ウィリアムの胸へと飛び込んだ。
「エリオット……エリオット!……やっと、会えた」
「……君……は」
――本当に、記憶を無くしたのか……?
「エリオット……私、ずっと待ってたのよ。……あなたを……あなたが来てくれるのを、ずっとずっと……待ってたのよ」
「――っ」
自分の胸に縋り付き声を上げて涙を零すアメリアに、ウィリアムは顔を歪ませる。先ほどのエリオットの言葉は間違いなく真実で、本当に彼女は自分の知るアメリアではないのだと――それをまざまざと思い知らされたのだ。
「どうして急にいなくなったりしたの?私、起きたら知らない場所にいて、あなたも居なくて……凄く怖かったのよ。
身体だっていつの間にか成長してるし、……こんなドレス着せられて……。この屋敷の人たち皆、私のことをアメリアって呼ぶし。
ねぇエリオット、これは一体どういうことなの?ここはエターニアなんでしょう?どうして……私たち隣国にいるの?どうしてそんな貴族みたいな服着ているの?アメリアって……誰?……私……一体、どうしちゃったの?」
「……っ」
アメリアの揺れる瞳。止めどなく溢れる大粒の涙。不安と恐怖に肩を震わせ、今にも嗚咽に変わってしまいそうな弱々しい声。そして、自分を“エリオット”と信じて疑わない、愛しげな眼差し――。
その全てに……自分の知るアメリアとは全く別人である彼女の様子に……自分を見ているのにそうではない婚約者の姿に、ウィリアムは今にも眩暈を起こしてしまいそうになった。
それは勿論、背後に控えるマークとトリスタンも同様であった。彼らもまた、茫然としたまま口を利くことができないでいた。
ウィリアムがエリオットの方へと視線を泳がせれば、彼は先ほどまでアメリアが座っていた椅子に腰かけ、物言わぬ顔でこちらの様子を伺っている。それはまるでウィリアムがどう答えるのか試すような、鋭い眼差しを称えて。
――もしや俺は今、彼に試されている?
それに勘づいて、ウィリアムは右手を強く握りしめた。何一つ助け船を出そうとも、アメリアを宥めようともしないエリオットの姿に、きっと彼は自分がここでどうするかを見ているのだろう……と、そう思わざるを得なかった。
だからウィリアムは覚悟を決める。この場を上手く納めることができなければ、ライオネルの姿をした本物のエリオットがきっと黙っていないだろうと。何故ならアメリアを見つめるエリオットの眼差しは……今でも彼女を愛していると、そう告げているからだ。
それに彼は誓ったのだ。アメリアを無事に連れ帰ると、アーサーやエドワード、ブライアン、ハンナ、……そして自分自身に。例えアメリアが記憶を失っていようとも、それが変わることはない。
それにもう一つ。ローレンスの言葉を信じるなら、エリオットは自分の分身であり、過去の記憶を知る者だ。しかも千年前のアメリアの恋人で、ソフィアが生み出した力にも関係している。とするなら、彼の協力なしには千年前に起きた出来事の全てを知り得ない。ルイスの奪還も難しくなるだろう。
だからどうしても、まだ敵か味方かも良くわからないエリオットを、この場で見定めなければならない。そして同時に、自分を認めさせなければならない――と。
「……ユリア」
ウィリアムは視線をアメリアに戻すと、遂にその名を口にした。今まで空いていた両手を彼女の背中に回し――強く強く、慈しむように抱きしめる。彼女の体温を確かめて、その首筋に顔を埋めた。
「遅くなってすまない。君が無事で……本当に良かった」
――あぁ、そうだ。これはまぎれもない俺の本心。彼女が無事で、こうやってちゃんと生きていてくれた。それだけで今は十分だ。彼女が俺のことを覚えていなくとも、彼女は彼女に違いないのだから……。
「ユリア、もう大丈夫だ。何も心配しなくていい。今までずっと一人で怖かっただろう?でもこれからは俺がいるから。もう二度と――君の手を離したりしないから」
「……エリ……オット」
「だからもう泣かなくていい。泣かなくて……いいんだよ。……ユリア」
「……ふ、……うっ」
アメリアの声が嗚咽に変わる。歪められた唇から、掠れた声が漏れた。それは“エリオット”――と。何度も、何度でも。
「……エリオット、――エリオット。ここにいて。そばにいて。……もう、…………どこにも……行かないで」
次々と涙を溢れさせウィリアムの胸にすがり付いて泣きわめくアメリアは、年相応の一人の少女でしかなかった。ウィリアムの知る落ち着いた微笑みも、何かを悟ったような切なげな瞳も、大人びた所作も、何もかもが違っていた。
けれどただ一つ確かなのは、本来の彼女は今腕の中にいる彼女であったのだということ。それが千年生き続けるうちに、自分の知る彼女になったのだろうということだ。
「……大丈夫。俺はもう……どこにも行かない」
泣き続けるアメリアを宥めるように、ウィリアムは何度も囁いて、彼女の頭を優しく撫で続けた。
大丈夫だよ……大丈夫だ、と。
「……エリ……オット」
少しずつ、アメリアの嗚咽が小さくなっていく。涙はいつの間にか……収まっていた。
だがそれでもウィリアムは、アメリアを抱き締める左腕の力を緩めることなく、頭を撫でる手を止めはしない。
それは彼が、頭では……理性ではこの状況を理解していても、心ではまだアメリアの変化を受け入れられていないことを、自分自身わかっていたからだ。
自分の腕の中で……自分以外の男の名前を愛しげに呼び続けるアメリアをまだ直視することは出来ない。そう、本能的に感じていたからだ。もし今そうしてしまえば、きっと張りつめていた何かが切れてしまう。そんな気がして……彼はアメリアを抱き締めたまま、顔を上げられずにいた。
――エリオット……か。……結構……キツイな。
自分が抱き締めている相手が、自分の名前を呼んでくれない。エリオット――とそう呼ばれる度に、ウィリアムは心臓が締め付けられる心地を感じていた。
「君が無事で……俺は……ただ、それだけで……」
無事で良かった。生きてくれていた、それだけで本当に十分だった。この腕の中に返って来てくれた。その事実だけで、喜ばねばならないことは理解していた。
それにエリオットの目もある今、アーサーや皆の為にも、こんなところで綻びを見せる訳にはいかないことも。――そんなことは、誰に説明されずとも分かりきっていた。
だがそれでも、どうしたって心は乱されてしまう。分かっていても、思うことを止められはしない。感じることを、捨て去ることは出来ない。
「ユリア……君が……無事で……それだけで」
ウィリアムは繰り返す。それは確かに彼の本心で……本心の一部であって。彼はその感情で、他の気持ちを全て押し込んでしまおうと何度も何度もそのフレーズを繰り返した。
ぶちまけたくなる黒々とした想いを消し去るように。忘れ去るように。――けれどそうしようとすればするほど、そのもやもやした霧が心を黒く黒く塗りつぶしていってしまう。
「……俺、は」
――あぁ、どうして君は俺を覚えていない。どうして俺の名前を呼んでくれないんだ。ならばいっそ全てを忘れていてくれた方が良かった。俺だけじゃなく、エリオットのことさえも忘れてくれていて欲しかった。初めて会ったときのように、冷たい顔で微笑んでくれた方が……俺のことなんて知らないと……俺と結婚など出来ないと――そう言ってくれた方が、ずっとずっとマシだった。
それがまさか……自分がエリオットと呼ばれようとは……一体誰が予想出来ただろう。
彼女が愛しているのは……彼女が千年の間ずっと追いかけていたのは、俺ではなくエリオットだったのだと……どうして気付かずにいられるだろう。
知りたくなかった、知りたく……なかった。
それでも俺はもう君を放せない。君が俺を愛していなくとも……俺はもう君を自由にしてあげられない。俺はエリオットではないのだと……そこにいるライオネルが本物のエリオットだと……俺は、言ってあげられない。




