02
ウィリアムは感情を押し殺すことが出来ないまま、喉の奥から必死に言葉を絞り出す。
「――もしも……もしも万が一、どうあってもルイスが俺たちの話を聞き入れず……それでも俺が、一瞬でもルイスを庇おうとしたならば、そのときは……」
薄暗い部屋で、ウィリアムの顔が切なく歪んだ。
「そのときはどうか――君の手で……あいつを……ルイスを――」
――言いかけて、けれどそれ以上はどうしても続けられないと言うように、ウィリアムは言葉を飲み込んだ。
だがアーサーは、ウィリアムの言わんとすることを察して代わりに続ける。
「――ルイスを、俺の手で殺せと?」
「――っ」
それは酷く冷静な、凪の様な声で。
「お前が出来ないから、俺にそれをしろと言うのか?」
「…………あぁ。…………そうだ」
アーサーの瞳が細められる。彼はテーブルに置いたグラスを再び手に取り、目の前へ掲げて二、三度揺らした。それをしばらくじっと見つめ――香りを楽しみ、音もなく口に含む。味わうように、一度だけ喉を鳴らした。
そして――わざとらしく溜め息をつく。
「お断りだな」
「――っ」
それはどこか呆れたような物言いで、ウィリアムの肩がびくりと跳ねた。アーサーは続ける。
「一応言わせてもらうが、俺はルイスと親しくない。あいつのことは正直言って今でも良く知らないし、何の思い入れもない。寧ろこれまでずっと得体の知れない男だと……不気味にすら思っていたほどだ」
アーサーは、再びグラスをテーブルに置く。
「殺すのは容易い。アメリアを拐い……コンラッドを含む数名が命を落とすその原因を作ったと――俺たちの誰か一人でもそう主張すれば、それだけで奴を追い詰めることは出来る。実際にはナサニエルやルイスが簡単にその命を差し出すとは思えないが、俺が一言奴らを殺せと騎士たちに命じれば、彼らは彼らの全てを掛けてそれを成し遂げようとするだろう。そして俺は、ローレンスから話を聞かされていなければ、過去の記憶を見せられていなければ、進んでそうしていただろうと思っている。
――だが今は、少し違うんだ」
アーサーはそこまで言って、再び息を吐いた。深く、深く――肺の空気を空っぽにするかのように。
沈黙が部屋を満たす。
ウィリアムはもう何も言わなかった。いや、何も言えなかった。普段では考えられない程に饒舌な友人の姿に。
「俺は未だにあいつを信用してないし、信頼もしていない。それは前と変わらない。けれど俺は、かつてのルイスを知ってしまった。アメリアや、ローレンス、そして……ナサニエル。千年前、彼らの間に起きた悲劇を知った。そして同時に、自分の犯した過ちを知った」
薄暗い部屋の中で、アーサーの眼光が妖しく光る。
「だから今の俺にはもう、ルイスを責める資格はないし、責めようとも思っていないんだ。未だ全てを知ったわけではない俺には、例えあいつにこの命を狙われようとも、ルイスをどうこうすることは出来ないと。――それは、ナサニエルに対しても同じだ。俺はきっと、彼らにそれだけのことをしたのだろう。或いは、そんな状況にさせた落ち度や隙が、俺にあったということだ。
だが……それは何もしないと言っているのではない。もしも俺の中のローレンスが、ルイスやナサニエルに手を出そうとするならば……彼がこの俺の身体を支配し、何らかの行動を起こそうとしたときは……俺は止めない。ローレンスを止められない。……だから」
二人の視線が絡まる。窓から差し込むぼんやりとした月明かりが、二人の頬を照らした。
「お前がルイスを庇っても、俺はそれを責めたりしない。お前を恨んだりもしない。何故なら俺は知らないからだ。ウィリアム――お前が、どんな時間をルイスと過ごして来たのか、お前がルイスをどう思っているか、真に理解することなど出来ないからだ」
「……アーサー」
「ウィリアム――お前は言ったな。あの日夢の中で、昔の俺の姿をした少年を目の前にして、“人は変わる。だからこそ愛し合い、許し会うことが出来る”と。そして、“それを俺に教えられた”――と」
「あ……あぁ」
「俺は、あのときお前の言葉に救われた。そして今、それが確かな実感となって俺を支えている。
確かに時が経てば人は変わる。互いに信頼しあっていたユリウスとローレンスの溝が深く大きく広がっていってしまったように、悪い方向にだって変わってしまう。だが変わるということは、その溝を埋めることが出来るということだ。相手を理解する機会は、必ず訪れるということだ。だから俺は諦めない。お前が俺の存在を認めてくれたあのときから、お前が俺に寄り添うと言ってくれたときから、俺もお前の力になるとそう心に決めていたから」
いつになく真剣なアーサーの眼差し、揺るぎのない声、そして全身からほとばしる強い決意に、ウィリアムの瞳が揺れ動く。
「だからお前も諦めるな。絶対に、何があろうと、アメリアもルイスも手放したくないのなら、見苦しく最後まで足掻け。罵られても否定されても、傷付くことを恐れるな。お前は一人じゃないのだから。俺も、エドワードもブライアンも、皆お前の後ろにいるのだから。それでもお前が倒れそうになったときは、俺たちが背中を支えてやる。何度でも背中を押してやる」
「……っ」
「だから俺は何度でも言う。ウィリアム――お前だけは絶対に諦めるな。アメリアも、ルイスも……二人が何かを諦めてしまったとしても、お前だけは決して諦めてはならない。必ず道は開けると――そう信じて突き進め。前だけを見ろ。
俺も諦めないから。ローレンスの想いを必ずルイスに届けると約束するから。――俺の全てを掛けて、二度と同じ過ちが、悲劇が繰り返されないように。
ヴァイオレットのことだってそうだ。彼女にこんなことをさせてしまった理由には、必ず俺の存在がある筈。だからそんな彼女をこのままにしてはおけない。誰が何と言おうと、俺は必ず彼女を取り戻す。彼女がそれを望まぬとも、俺はヴァイオレットを絶対に諦めない」
「…………アーサー」
ウィリアムの瞳が大きく見開かれる。瞬きすら――呼吸すらも忘れて。アーサーの言葉に、心に、突き動かされて。
――あぁ、君はもう決めたんだな。本当に、もう迷わないんだな。大口を叩いておきながらこんなにも不安定な自分と違い、君は……。
ウィリアムの唇が歪む。頬には一筋の涙が伝い――声にならない声が、掠れた空気だけが、静まり返った部屋に響いた。
「あぁ…………君って……やつは」
――まさかこの期に及んで、君のそんな言葉が聞けるとは思わなかった。まさかこんなにも、自分のことを理解してくれているとは思わなかった――と。
「……ありがとう」
――と、ウィリアムが呟いた。するとアーサーは半分呆れたように微笑んで、窓から覗く月を見上げる。「飲み過ぎたのか?」と。そんなアーサーの問いに「そのようだ」――と、俯いたまま微笑み返すウィリアム。
そうして二人の夜は過ぎていった。静かな静かな、誰一人邪魔者のいない二人だけのこの時間を――彼らは深く深く、お互いの心に刻み込んでいた。
*
翌日の早朝、ウィリアム宛に早馬にて二通の手紙が届けられた。一通はハンナから、もう一通はエターニアの南西の土地を収める領主からだった。
また、ハンナからの手紙には更にもう一通の手紙が添えられていた。それはまさに、アメリアからウィリアムへ宛てられた手紙である。そこに書かれていたのは、自分とライオネルの無事を知らせ、そして、レトナークで落ち合いたい、という内容だった。
ウィリアム、アーサー、そしてエドワードとブライアンの四人はこれを読み、一先ずアメリアの無事を確認出来たことに深く安堵した。けれどそれもつかの間、ハンナからの手紙に書かれた内容に顔を曇らせる。
何故ならそこには“これは罠だ”と書かれていたからだ。結論を言ってしまえば、アメリアの手紙は“炙り出し”が使われていた。ハンナが昔アメリアから聞かされていた方法でだ。それに気付いたハンナが手紙にろうそくの火を近付けたところ、そこにははっきりと“これは罠だ。決して私を迎えに来てはいけない”――と、そう書かれていたのである。
そしてもう一通、領主からの手紙にはこのようなことが書かれていた。
『貴殿からの書状に記されていた、サウスウェル伯爵家令嬢のアメリア嬢、及びライオネル・マクリーンと思われる二人を、マクリーンから直接保護の申し出を受け、こちらの屋敷で預かっている。だが誠に申し上げづらいことに、マクリーンは肋骨を折る重症、アメリア嬢は健康状態に問題はないものの様子がおかしく、食事も殆んど召し上がらない。どうか急ぎ参られたし』
――と。
「……アメリアが?」
手紙を囲んだ四人のうち、最初に呟いたのはエドワードであった。あの図太い神経の持ち主、アメリアの様子が可笑しいとは一体どういうことだろうか――と。
けれどそんな兄の言葉を遮るように、ブライアンは口を開く。
「いや、それよりもっと可笑しいのは、ライオネルが保護を申し出たってところじゃないか?ハンナからの手紙には、レトナークで落ち合おう。……けれどそれは罠だから、来るな。って書いてあったんだよな?」
それに続くのはアーサーだ。
「とするとつまり、アメリア及びマクリーンはレトナークにどうしても行きたくなかった。だからそこに向かう道中で領主に助けを求めた――ということだろう。
いや――だが待てよ。貴族や領主たちに出した書状には、ナサニエルとルイス――ヴァイオレットの特徴も記してあった筈だ。けれどこの手紙には少なくとも、二人以外のことについては一切書かれていない。とすると……俺が思うにこの二人は――」
「――別行動、か」
アーサーの言葉に被せるように、今度はウィリアムが呟く。
「ナサニエルとルイスは顔が割れている、ダミアからは出られない。だからアメリアとマクリーンが自ら逃げ出したように見せかけて、俺をレトナークに誘い出そうとしたと、そういうことだろう。……だが、その目的がわからない。俺を呼び出したところで、精々俺とアーサーを別行動させられるくらいだろう。罠とは一体どういう意味なんだ」
ウィリアムの顔が陰る。ナサニエルのしようとしていることに全く見当がつかないからだ。それに領主からの手紙に、アメリアから伝言が何もないのも気になる。ハンナから届いた自分宛ての手紙には“炙り出し”を使っておきながら、領主からの手紙には一言も添えられていないなど可笑しいではないか、と。
そんな風にじっと考え込むウィリアムの様子を伺いながら、エドワードが再び呟く。
「――もしかして、別人なんじゃないか?今アメリアと一緒にいる、ライオネルはさ。ほら、エターニアを出る前に話しただろ。“もうすぐ君を迎えに行ける”――って件の」
「――ッ」
その言葉に、他の三人の顔が即座に歪んだ。
「だってさ、ウィリアムを呼び出したい理由なんてそれくらいしか思いつかないだろ?アメリアとライオネルが二人だけでお前と会おうとする訳……他にあると思うか?」
「……いや、無いな」
エドワードの問いに、ウィリアムは無意識のうちに拳に力を込めていた。手の中の手紙が握りつぶされる。
けれど、次の瞬間には……無意識のうちに微笑んでいた。
「だが――もしもこれが罠だったとしても、俺は行く。そこに彼女がいるのなら、行かない理由は何もない」
そう言って、窓の外から差し込む朝日に目を細める。その視線はアメリアが今いるであろう、南へと向けられていた。
「だから、俺たちは今から別行動だ」
「――は?」
「別行動!?」
驚いた声を上げるエドワードとブライアンに対し――ウィリアムは続ける。
「俺はアメリアのところへ行く。だから、エドワード、ブライアン、お前たちはアーサーと共にこのままダミアへ向かえ」
「――な、いや、でも」
「お前一人で行くのは流石に――」
「大丈夫だ。俺を誰だと思ってる。それに、俺はルイスのことも諦めていないんだ。アメリアの無事をこの目で確かめたら、その足で俺もダミアへ向かう。だからそれまで、お前たちにアーサーとルイスのことを託したいんだ。一番怖いのは……多分、ナサニエルだからな」
怖いくらいに真剣なウィリアムの瞳。そして、全身からほとばしる闘気のようなものに、二人は気圧されごくりと喉を鳴らした。
けれどアーサーは、アーサーだけは、そんなウィリアムの横顔に心から安心した様子で両目を閉じる。昨夜の会話を――ウィリアムの涙を思い出し、安堵の息を吐いていた。彼はもう大丈夫だ、と。
「わかった。ではお前に騎士を二人貸そう。マークとトリスタン――二人いれば、いざというとき一人をアメリアにつけられる。ダミアへはお前と、どちらかの騎士一人の二名で追い付いて来い。――必ずだ」
アーサーの不敵な笑みにも、そしてその“必ず”という言葉にも、ウィリアムが躊躇うことは、もうない。
「分かった。必ず追い付く。君の好意に感謝する」
ウィリアムはそう言い残し、二人の騎士を引き連れてアメリアの待つであろう南へと向かっていった。




