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06


「――か……はっ」

 少年が呻く。貫かれた左肩から滲む血が、彼の服を汚した。


「――く、……そ」

 痛みに顔を歪め、けれどどうにか男から逃げ出そうと、少年はその右手で剣を掴んで引き抜こうとする。手のひらがぱっくりと裂け血が流れるが、それでも少年は躊躇わなかった。


 ――しかし、男はそれを許さない。


「その右目、返してもらうぞ」


 金色に煌めく前髪の奥の碧い双眼をこれでもかと見開いて、男はギロリと少年を見据える。どこか狂気にとらわれたように唇の片方の端を上げ――突き刺した剣ごと少年を石の床へと押し倒した。


「……ぐあッ」


 再び少年が呻き声を上げる。苦し気に頬をひきつらせ唇を噛み締めて、自分に跨る男を睨みつけた。けれどそんなもの、何の役にもたちはしない。


 男は自分を恨むように顔を歪める少年に顔色一つ変ることなく、少年の傷口を抉るように勢いよく剣を引き抜いた。そして刃にしたたる血もそのままに、鋭い切っ先を少年の喉元に突きつける。貫通した少年の肩から、心臓の鼓動にあわせて止めどなく血が溢れ出し、灰色の床に血だまりを作っていった。


 アーサーはその光景を、茫然としたまま眺めることしか出来ない。あまりの悲惨な光景に、指一本すら動かすことも許されず――。


「この僕を……殺すと言うのか」


 抗うように、少年の擦れた声が呟いた。けれどそれでも、男は眉ひとつ動かさない。それは遥か遠い昔から、こうなることがわかっていたかのように、……少年の息の根を止めることを、心に誓っていたかのように――。


「――さらばだ」


 茫然と立ち竦むアーサーを置き去りにして、男の低い声が放たれる。少年の顔が屈辱に歪んだ。それと同時に振り下ろされる剣の切っ先。肉を貫く鈍い音と共に、血しぶきが舞う。それが男の白い服を紅に染め、灰色の床に点々と赤い華を咲かせた。


 ――そして次の瞬間、今まで碧い瞳だった男の右目にほんの一瞬赤が宿り、けれどすぐに瞳の奥に吸い込まれるように消えていった。


「――な」

 何だ、これは……。


 アーサーはただ立ち尽くしていた。彼はもう、何一つ言葉にすることが出来なかった。今しがた目の前で起きた、あまりに凄惨な出来事に。少年を切り裂いたと同時に、赤く変わった男の瞳に。――その、躊躇いの無さに。


「……う」


 血の臭いが鼻をつく。嗅いだことのない強い鉄の臭いに、喉元まで何かがせりあがってきた。思わず腕で鼻を庇う。けれど、視線だけはどうしても反らせなかった。


 ――何だ……何が、どうなっている。


 血の海に沈み、両目を見開いたまま力なく横たわる少年は、誰の目から見ても死んでいるのは明らかだった。ぼんやりとした空虚な瞳で宙を見上げたまま事切れた少年は、もう一瞬たりと動くことはない。


 アーサーは一歩も動けなかった。足が地面に縫い付けられたように、少しも動かすことが出来なかった。けれどそんな彼の視線の先で男は音も無く立ち上がり、血を振り払うように剣を振りぬき鞘に納める。そして眼だけで、アーサーを一瞥した。


「……お前、アーサーだな」


 その声に、アーサーはびくりと肩を震わせる。そして混乱したままの頭で、やはり似ているなと、嫌に冷静に考えた。


 そう――似ているのだ。男の声は、紛れもない自分自身の声に。いや、声だけではない。髪や瞳の色こそ違うが、男の顔立ちや背格好は自分と全くの瓜二つ。


「……お前は……誰だ」

 アーサーは必死で声を絞り出した。すると男は微笑み、殺気を一瞬で消し去る。


「今しがたこいつが呼んでいた通りだが?」

 男は足元で息絶えた少年を一瞥してから、再びアーサーを見つめてほくそ笑む。


「我が名はローレンス。この庭の真の主。そして、千年前のお前自身だ、アーサー」

「――っ」


 その男――ローレンスの微笑みは、まるで先ほどまでの彼とは別人であるかのように柔らかだった。恐らくアーサーは、一度だってこの男――ローレンスのように優しく微笑んだことはないだろう。その、目の前で自分自身が笑っているという奇妙な感覚に、アーサーはますます困惑せざるを得なかった。

 けれど一つだけわかるのは、目の前のローレンスは、自分を襲う気は無さそうだということ。


「本当に……お前がローレンスなのか?ならば――この子供は一体誰だ」


 アーサーは血の臭いを避けるように鼻を庇ったまま、ローレンスを睨むように見つめる。するとローレンスは何かを察したように右手を顎に当てて、あぁ、と呟いた。


「これは私を監視する為だけに生まれた私の偽物だ。――だが、すまない。お前は血に慣れていないのだな」


 その言葉と同時に、ローレンスの白い装束から血の跡がぼんやりと浮き出てくる。それはそのまま砂となり、空中に舞って消え去った。そしてまた、地面で息絶えた少年の亡骸も血だまりと共に床の下へと沈んでいく。その光景にアーサーは目を見張った。


「――何を」

 しているんだ――そう言いかけて、同時に気付く。ローレンスが自分の背後をじっと見つめているのだ。振り向けば、そこにはいつの間にか黒い霧から解放さたウィリアムが、冷たい床に横たわっていた。


「ウィリアム……!」

 アーサーはすぐさま駆け寄り声をかける。体を何度も揺さぶった。


「ウィリアム、起きろ!」

「――う……ん」

「おい、しっかりしろ!」

 アーサーの声に、ウィリアムの瞼がうっすらと開く。


「……アー……サー?」

 そしてぼんやりとした瞳でアーサーを見つめた。


「大丈夫か?どこか痛むところは――」

「……いや、大丈夫だ。少し頭痛はするが」


「そうか。……良かった」

 どうやら大きな怪我は無さそうである。アーサーはほっと息をつき、身体を起こそうとするウィリアムの背中を支えた。


「さっきの子供は……?」

 上体を起こしたウィリアムは、辺りを見回して呟く。そして、はた――と視線を止めた。ローレンスの姿に気づいたのだ。


「――あれは、君……なのか?」

 ウィリアムの瞳が驚いたよう見開かれる。無理もない。ローレンスはアーサーと瓜二つの姿をしているのだから。


 けれどローレンスは静かに(かぶり)を振った。そして平然と続ける。


「私はただの記憶に過ぎない。この回廊に囚われた過去の幻影、魂の奥底に閉じ込められた千年前の人格だ。身体はとうの昔に朽ちているからな」

 

 彼はそう言って二人のすぐ側まで来ると足を止め、その場に片膝をついた。「だが、それよりも」とその口が呟き、視線が二人と同じ高さで交わる。


「ローレンス……?」

 アーサーは眉をひそめた。なぜローレンスが自分たちに膝をつくのか――と。


「まずはお前たちに心から礼を言う。よくぞこの私を見付けてくれた。奴の罠にかかりここに閉じ込められてからというもの早千年。実のところ、もう二度と外には出られることはないのだろうと、半ば諦めかけていたのだ」


 ローレンスはそう言って、王らしからぬ様子でにこりと笑みを深くした。それはただの一人の青年の様に―――。


 その姿に、二人はわけもわからず顔を見合わせる。その顔は、これが本当に元国王なのか――と言いたげだった。二人は想像していたのだ、ローレンスはもっと恐ろしく冷酷な男であろうと。史実では、血をもって国を制したと、そう綴られているからだ。それがどうだろうか。確かに先ほど少年の命を奪った際の殺気は恐ろしいものであったが、今のローレンスには殺気も、国王たる威厳もない。アーサーとウィリアムに跪き、礼を申すと、そう言ったのだ。


 そんな二人の物言いたげな表情に気が付いたのだろう。ローレンスは「ふむ」と何か考えるように宙を仰いで眼を細めた。その表情にはやはり、緊張感の欠片もない。


「何から話せばいいのかわからないが、この私を呼んだということは何か良くないことが起こっているのだろう?お前たちは、ユリウス兄上のことを知っているのだな?」


 この言葉に、二人は再び顔を見合わせた。やはりローレンスはルイスの弟なのだ、と。だが同時に二人はとてつもない違和感を感じていた。二人の知る限りでは、ローレンスとルイスは互いに恨み合っていた筈だ。けれども目の前のローレンスからは、そのような感情を全く感じられ無い。

 アーサーは躊躇うように口を開く。


「ローレンス……お前はその兄に命を狙われているぞ。正しくはこの右目を、だが。ユリウスは今の名をルイスと言うが――あいつはどうやらお前を恨んでいるようだ。その理由を直接聞いたわけではないが、歴史ではお前が王妃ソフィアを殺し、彼女からこの右目を奪ったのだと言われている。それは……真実か?」

「……」


 アーサーの真剣な表情に、ローレンスは片膝をついたままの状態で視線を床に落とした。再び右手を顎にあて、何かを考える素振りを見せる。そして暫くの沈黙の後、どこか他人事の様に「成程な」と呟いて、再び視線を二人の高さに戻した。


「大凡の状況は掴めたが、どう説明したらいいものだろうか。――結論だけ言ってしまえば、それは真実ではない。確かにこの右目はソフィアのものだ。だが決してあの方から奪ったのではない。ソフィアが私に託したのだ。そもそもこの力はただ人がおいそれと手に出来るものではないし、彼女の意志なしには他の者には扱えない。――それに、私がソフィアを殺したというのも嘘だ。彼女は自らの力を全て使い果たし、私を庇って息絶えた」

「――なんだと」


 ローレンスの淡々とした物言いに、二人は不可解そうに眉をひそめた。これでは史実と全く一致しないではないか。


「では、ソフィアは誰からお前を庇ったんだ」

 アーサーは再び問いかける。するとその刹那――穏やかだったローレンスの瞳が鋭く細められた。


「――ナサニエル」

 それは、ぞっとするほどの低い声。


「……っ」

 二人は思わず肩を震わせた。背筋が凍るほどの強い憎悪の込められたその声に。――けれどそれは、ほんの一瞬のこと。


 ローレンスは小さく息を吐き、繰り返す。


「……ナサニエル・シルクレット。――ソフィアの騎士だった男だ」

 その口調は、もとの穏やかなものに戻っていた。


「だが、あいつの真の狙いは私では無かった。ナサニエルの目的は最初からソフィアの力だったのだ。その為に騎士として彼女に近づき、自分を心から信用させた。そして王位争いに乗じ彼女にその力を手放させ、死に追いやったのだ」


 彼はそう言うと立ち上がり、荒れ果てた庭に視線を向けた。その横顔は何かを憂いているように見える。


「ソフィアは死ぬ間際、最後に残ったこの右目を私に託した。ナサニエルには決して渡してはならないと。だがそのときには既に、奴は彼女の左目を手にしていた。だからそれをどうにかしてやろうと、……私はあの男の左目を潰してやったんだ」

 そこまで言って、彼は深い溜め息をついた。今にも雨を降らせそうなどんよりとした空へと目を向け、碧い瞳を曇らせる。


「だがその見返りだったのだろう。その瞬間から、私はここに閉じ込められた。……そして私の身体には、ナサニエルへの憎しみだけが残されたのだ」


 ローレンスは、悲しげに続ける。


「……先ほどお前は言ったな。兄上は私を恨んでいると。ならばその裏にあの男がいるのは間違いない。――兄上は元々、虫一匹殺すことのできない心の優しいお方であるから」


 その言葉には、ルイスへの尊敬の念が垣間見えた。ウィリアムは思わず尋ねる。


「……貴方は、ルイスを愛していたのか?」


 その問いにたいして意味は無かった。どんな答えを期待しているのか、ウィリアム自身にもわからなかった。けれど、どうしても尋ねざるを得なかった。


 ウィリアムの声に、ローレンスは大きく目を見開いて振り向いた。先ほどまで冷静に見えていたその顔を不愉快そうに歪め、ウィリアムをキッと睨みつける。


「愛しているに決まっているだろう!腹違いとは言えたった一人の兄上だ、敬愛しないわけがない!兄上だってそうだった筈だ。兄上だって、私のことを心から愛してくれていた!…………それが、――奴め」

 そう言って、彼は拳を強く握りしめた。


 その悔し気な姿に、ウィリアムは憤る。もしもローレンスの言葉が正しいのなら、ルイスは千年もの間、愛していた弟に裏切られたと思い続けてきたことになる。元々憎しみあっていたならいざ知らず、信じていたものに裏切られたときの痛みは計り知れない。その記憶を忘れることも出来ず、千年もの長い時間を、ただ一人で苦しみ続けてきたと言うのだろうか。


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