02
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次の日の朝、ナサニエル先生の手を借りて、僕はお婆さんの亡骸を家の裏の大木の側に埋めた。生前、お婆さん本人がそこに埋めて欲しいと言っていたからだ。彼女の冥福を願い、三人で神に祈りを捧げた後も、ユリアはずっと泣いていた。
僕は先生にユリアのことをお願いし、着替えを取りに帰ると彼女に伝えて町に戻った。
家に入ると同時に、左頬に父さんの拳骨が飛んできた。頭が大きく右に振れて、全身を床に打ち付ける。口の中が切れて、鉄の味が広がった。母さんは泣いていた。
「あの娘のところに行っていたのか」
父さんの声が怒りに震えている。殴られたのはこれで二度目だ。一度目は、僕が八歳の時。そう、僕が友人たちと森に入ったその日の夜だった。そして今のが二度目。理由はよく理解している。
僕が家の用をすっぽかしたからだ。昨夜まで一度だって僕は、家のことをなおざりにしたことは無かった。だから父さんも母さんも、ユリアとのことを黙認してくれていたのだ。僕はそれを良く知っている。だけどそれも――今日で終わりだ。
「二度と森に立ち入ることは許さん」
床に伏せったままの僕の襟首を掴む、父さんの太い腕。僕を見下ろす青緑色の瞳は、獲物を狙う狩人の如く鋭く細められていた。
けれど今の僕には、そんなもの何の意味も為さない。父さんの地を這うような低い声も、母さんの泣き顔も、全部全部――もうどうでも良いことだ。
「僕は家を出る」
殴られた痛みに抗うように父さんを見上げれば、僕の意志を推し量るように冷えた視線が据えられた。子供が何を言っている、そう言いたげな表情で僕を見下ろす父さんの瞳。でも僕はもう、躊躇わない。僕は既に決めたんだ。ユリアを連れて森を出ると――。
僕は父さんの手を振り払い、口の中に溜まった血を吐き捨てた。そのまま階段を駆け上り、自室に入って扉を締める。目に付いた私物を無造作にバッグに詰め込んだ。――もうここには用はない。
部屋を出ると、そこにはローラとステファンが呆然とした顔で立っていた。
「お兄さま……、出て行くって本当?」
今年で十四になるローラの目尻には涙が溜まっていた。その更に二つ年下のステファンは、幽霊でも見るような目つきで僕を見ていた。
「……呆れたな」
僕の荷物に気付き、ステファンの顔が歪む。ローラの肩がびくりと跳ねた。
「兄さんはいつも勝手だ。少しは父さんと母さんの気持ちも考えたらどうなんだ」
僕を睨むように見つめるステファンの瞳。それは父さんと同じ色をしていた。――いい眼だ。僕の自慢の弟、ステファン。彼は薄情な僕とは違い、家族想いの優しい男だ。
「ステファン、後は頼むよ。随分勝手だけれど、僕はもうここには戻らない。母さんとローラを宜しく頼む」
「――はっ。言われなくてもそうするさ」
ステファンは僕を心底軽蔑したような口ぶりでそれだけ言うと、自分の部屋へと戻って行った。けれどローラは動かなかった。彼女は俯いたまま、自分の足元を見つめている。
その姿が、不意にユリアと重なった。そして思い出す。ズボンの右ポケットに入ったままの、首飾りの存在を。
あぁ、そうだった。これを処分して行かなければ――決してユリアの手に渡らない様に。
「ローラ、手を出して」
僕は広げられたローラの右手に、首飾りを握らせる。彼女の瞳が不思議そうに揺らめいた。
「黒い……宝石?」
「あぁ。――御守りだ」
盗んだ物を餞別に置いて行くなんて、僕もつくづく最低な男だ。けれどこうやって言っておけば、これが僕の知らない所で他の人の眼に触れることは無いだろう。
僕は今度こそ家を出た。愛馬のフォレストと共に。こいつは僕の馬だ、返すつもりは毛頭ないけれど、これぐらいは許されるだろう。
父さんも母さんも、追ってくることは無かった。僕は森へと戻る前に、フォレストに跨がり急いで隣町へと走る。ユリアと暮らす為の部屋を確保しておかなければ。……抜かりはない、元々そのつもりだったから。ただ、少し時期が早まっただけだ。
僕は部屋を借りて鍵を貰った。知り合いの管理している空き家だ。家具は前の住人が置いて行ったままになっている。広くはないが、僕とユリアが二人で住むにはことたりる。
僕は自分の荷物から一日分の着替えだけ抜き取ると、他はそのままに森へと戻った。フォレストは森の入り口で放しておいた。こうしておけば餌に困ることはないだろう。
ユリアの家へと戻ると、泣き疲れたのだろうか、彼女はベッドで静かに眠っていた。その脇で丸椅子に腰掛け本を読んでいた先生は、僕に気付くと少しだけ驚いた様な表情を見せる。彼の耳にかかった藍色の長い前髪が一房さらりと眼鏡に落ち、その奥の同じ色の瞳が、僕の心を見透かす様に揺らめいた。
「……全く。君はユリアの事となると、途端に冷静さを事欠きますね」
「……」
ベッドと机と小さなクロークを置いたらそれで一杯一杯になってしまうほどの狭い部屋で、先生の真剣な眼差しが僕の視線を絡め取る。
あぁ、先生には何もかもお見通しなのだ。けれどそうは言ったって――昨夜のことは流石の先生にだってわからない筈だ。それだけは絶対に知られてはならない。だってもしもユリアの本当の家族が彼女を迎えに来るなんてことを知られたら、先生はユリアにそれを伝えてしまうだろうから。
それだけは、絶対にさせない。
「父さんが悪いんだ。僕とユリアを引き離そうとするから……」
僕が諦めた口ぶりでそう言うと、先生は呆れたように溜息をついた。長い夕陽が窓からさして、僕らの頬を赤く染める。先生の右手がそっと、僕の左頬に触れた。途端に僕の中を駆け抜ける鈍い痛み。――あぁ、そうだ、今まですっかり忘れていたけれど、……父さんに殴られたんだった。
「鏡を見なかったのですか。酷い腫れだ。手当てをしましょう」
「――いいよ。自業自得だ」
そうだ。これについてはどう考えたって僕が悪い。僕は殴られて当然のことをした。そしてそれを謝る機会はもう二度と訪れないだろう。後悔はない。だって、僕にとってはユリアが何よりも、誰よりも大切だから。彼女以上に愛せる相手など、僕にはいないのだから。
そう――だからこの痛みは、せめてもの報いだ。この痛みだけが、僕に覚悟を決めさせる。もう、後戻りは出来ないのだと。
「私の前でそれを言いますか。駄目ですよ。これに関しては譲れません。――それに」
先生が、自分の荷から薬箱を取り出し――にこりと微笑む。
「彼女がその顔を見たらどう思うでしょうか」
「――っ」
刹那、僕はその内容に言葉を失くした。
あぁ、確かにそうだ。僕の為に彼女に悲しい想いをさせるわけにはいかない。そんな当たり前のことすら忘れていたなんて……僕はまだまだ子供だな。本当に、ステファンに言われた通りだ。
「――さ。こちらに」
先生は僕を椅子に座らせた。
僕の傷を手当てしてくれている間、先生は僕にいくつか問いを投げかけた。
「町を出るのですか」
「うん、そのつもりだよ」
僕はその問いに、短い言葉を返していく。
「住む場所は」
「もう用意した。――痛っ、痛いよ先生」
「これぐらい我慢なさい」
痛みの方へ視線を動かすと、先生の白い手が右腕の擦り傷を消毒していた。
「知らない場所で君たちの様な子供が二人だけで暮らすのは、本当に大変ですよ」
「――はは。先生までそんなことを言う。……わかってるよ、それくらい。だけど僕らはすぐに成人だ。もう子供じゃない。それに、ユリアをこの森で独りにさせておくことなんて出来ないだろう?」
先生を見上げれば、彼は僕の前髪に隠れていた額の上の傷に気が付いたようで、静かに目を細めていた。彼の長い指が僕の前髪をかきあげる。眼鏡の奥の瞳が、一瞬笑ったように見えた。
「そうですね。私もその意見には概ね同意しますよ。――ですが、未成年は未成年です。君は部屋を借りる為に、歳を誤魔化したのではありませんか?」
「――っ」
「いけませんね。……君は私の知る中で飛びぬけて賢い子供ですが、彼女のこととなると途端に愚かになり果てる」
「――、そんな言い方!」
「悪いことは言いません。成人まで我慢なさい。それがけじめと言うものです。――彼女の為にも」
「なん――」
僕は思わず椅子から立ち上がった。向かいの椅子に座る先生を、見下ろすように睨み付ける。
そんなこと、言われなくたってわかっている。本当は僕だってそうするつもりでいたさ。でも――それじゃ駄目なんだ。ユリアが成人する頃には、彼女に迎えが来てしまう。
そう、口にしてしまいそうになった。けれど何とか踏みとどまる。――落ち着け。先生は、ただ僕らのことを真剣に考えてくれているだけだ。
「……それとも、何か都合の悪いことでもあるのですか?」
先生の夜色の双眼が、僕の顔をじっと覗き込んでくる。
あぁ、やめてくれ。その眼に見つめられると、全部見透かされているような、凄く嫌な気分になるんだ。その理由はわかっている。先生の言葉が、図星だからだ。僕に後ろめたい気持ちが有るからだ。――昨夜はこんな風には思わなかった筈なのに、今更、どうして。
「……先生の仰りたいことはわかります。でも、もう僕はあの家には帰れない。それに僕は、……ユリアを独りにしてはおけない」
僕はそう呟いて、俯いた。
――ごめんなさい。そう言いたい気持ちは、ぐっと堪えて。
先生はもう何も言わなかった。薬箱の閉じる無機質な音だけが、部屋の空気を震わせる。
先生の瞳と同じ、藍色のローブが哀しげに翻った。先生の背中が、部屋の外へと消えていく。
「先生……っ!」
とっさに叫べば、ナサニエル先生は一瞬だけ足を止めた。そして彼は、背を向けたまま呟く。
「……残念ですよ、エリオット」
その声は、深い悲哀に満ちていた。
今度こそ、先生は行ってしまった。部屋には僕と、眠ったままのユリアだけが残される。
僕は結局その10日後、ユリアを連れて森を出た。そしてそれ以降、二度と先生に会うことは無かった。