07
そう言って、彼は切なげに眼を伏せた。その姿に、アメリアの瞳が大きく揺れる。
「……そう……だったの」
アメリアは呟いた。けれど、今度こそ自分の言葉を伝えなければと、決意したように視線を上げる。
「あなたの気持ちはわかったわ。でも、これだけは言わせて欲しいの。私は今でもあなたを愛してる。こんなの卑怯だってわかってるけど、私――ウィリアムのことも、あなたのことも、本当に愛しているの」
「……ユリア」
夕暮れ色に染まるアメリアの真剣な表情。それは、一点の曇りもない澄んだ眼差しで――。
「でも、だからこそ――ごめんなさい。謝らなければならないのは私の方なのよ。あなたはずっと私のことを忘れないでいてくれた。私に、あなたのことを忘れないで欲しいって、願ってくれた。辛いことも多かったけど……あなたは間違っていなかった。だって私、今、とても嬉しいもの」
「……嬉しい?」
エリオットの声が震える。
ユリアに宛てられた手紙を燃やし、君をこんなに不幸にしたのに?
そう言いたげに顔を歪めた。アメリアはそれに答えるように、ゆっくりと頷き、微笑む。
「嬉しいわ。私、……私ね、本当はずっと忘れていたの。私はずっとあなたに置いていかれたと思っていた。あの日先に死んだのは、あなたの方だと思っていた。
でも、違ったのよね。先に死んだのは私の方。私があなたを置いて、死を選んでしまった。
でも――あなたはちゃんと迎えに来てくれたんでしょう?そしてこうやってまた、会いに来てくれたんでしょう?……私の、為に」
「――っ」
エリオットの顔が、歪む。
「だからそんな顔をしないで。私の方が、あなたを置いて先に逝ってしまった。あなたを待ってあげられなかった。一緒にいるって約束したのに。
だから、あなたが謝ることないのよ。約束を破ってしまったのは私の方だもの。あなたは何も……悪くないのよ」
「……ユリ、ア」
アメリアの真剣な眼差しに耐え切れず、エリオットはとうとう俯いた。これ以上、アメリアと目線を合わせておくことなど出来ないと。
何故なら彼は理解してしまったから。ユリアは、アメリアは確かにこの千年の間苦しみ続けたかもしれない。
けれど今、その心は苦しみから解き放たれようとしている。悲しみを乗り越えて、彼女は確かに“今”を生きようとしているのだと。
「……僕、は」
――けれど、それでも彼はアメリアの記憶を消さなければならないのだ。アメリアがかつてのユリウスの妹であり、ソフィアの娘である限り。そして、ウィリアムから確かに彼女を取り戻す為に。
彼の脳裏に、千年前のあの日の記憶が蘇る。
あの夜、エリオットは誓ったのだ。必ずユリアをこの手に取り戻すと――そう、固く心に決めた。
「――僕は」
だがその刹那。どういうわけか、エリオットの心にどうしようもない違和感が沸き上がってきた。それはあまりにも唐突に、心の奥底から這い出てくるかのように。
その言いようのない気持ち悪さに、エリオットは思わず眉をひそめる。
「どうかしたの?」
「……いや」
――何だ……これ……。
エリオットの脳裏に鮮明に蘇るあの日の記憶。転がる無数の兵士の死体、ナサニエルの胸に突き立てられたローレンスの一振りの剣。そして、死に堪えたユリアの姿。
それは、何度も何度も繰り返し夢に見た、酷い悪夢。けれど、このような違和感を感じたことは今まで一度だって無かった。
それが、一体どうして。
そう考えて、思い当たる。アメリアの、先ほどの言葉に。
「……ユリア、君、さっき何て言った?」
「――え」
「忘れていたって……言ったよね?僕が先に死んだって」
エリオットの低い声音。急に変わった彼のその様子に、アメリアはびくりと肩を震わせる。
「……え、ええ。そう――だけど」
その答えに、エリオットは顔をしかめた。
――そうだ、どうしてユリアは忘れていた。僕のことは覚えているのに、どうしてあの日のことを覚えていない。
「ユリア、君はもしかしてまだ、全てを思い出していないんじゃないのか」
「……それは……どういう」
確かにアメリアは、未だ全ての記憶を思い出したわけではなかった。思い出せたのは、自身が息を引き取る間際の記憶のみ。
けれど、エリオットがどうしてそれを尋ねてくるのか、今の彼女にはわからない。
アメリアの困惑気な表情に、エリオットの両目が細められる。
図星か。そう判断した彼は、アメリアの肩をそっと抱きしめた。そして言葉を選ぶように、慎重に口を開く。
「……ユリア、これは大切なことなんだ。辛いことだろうけど、どうか僕に教えて欲しい。君は、君をさらった者の顔を思い出せるかい。君を傷つけたのは一体誰なのか……覚えているか」
「……っ」
エリオットの問いかけに、アメリアは顔を強張らせる。
けれどそれでも、彼女は必死の思いで頭を巡らせているようだった。
そして、怯えた様子で口を開く。
「ごめんなさい。しっかりとは思い出せないの。……でも、兵士だったわ。この、エターニアの……兵士の服を着ていた」
「――っ」
瞬間――エリオットの双眼が暗く淀んだ。憎悪に満たされたようなその色に、アメリアは言葉を飲み込む。
彼の脳裏にこびり付いて離れない、あの日の忌まわしい記憶。無数の兵士の死体と、血と脂にまみれたローレンスの赤い剣。浴びた返り血と、強い殺意を宿した瞳。
エリオットはアメリアの言葉に、ようやく気が付いたのだ。自分は今まで、大きな思い違いをしていたのかもしれないということに。
エリオットはナサニエルに会うまで、ユリアをさらった相手に見当などついていなかった。
最初はユリアの本当の家族がさらったのだろうと思ったが、よくよく考えれば家族相手にそんな手荒なことをするとも思えない。だから、きっとユリアはあの不思議な力を持った首飾りのせいで事件に巻き込まれてしまったのだろうと、そう考えていた。
けれどナサニエルから首飾りがソフィアの遺物だと聞かされた今は、あの日ユリアをさらったのはローレンスとその兵士たちで、ナサニエルはそんな彼らからユリアを……そして首飾りを取り戻そうとしていたのだと悟った。
だが――今、その考えは再び覆された。
だって明らかにおかしいのだ。
あの日のローレンスの服に染み付いていた大量の返り血。その量を考えれば、兵士らを斬って回ったのはナサニエルではなくローレンスであったと推測できる。
ナサニエルには返り血を浴びた様子はなかったことからも、兵士を殺したのがナサニエルではないことは明白だ。
つまり、ユリアをさらった兵士らはローレンスの指揮下にはなかった……という可能性が高くなる。
その事実にたどり着き、エリオットは大きく肩を震わせた。心が怒りと憎しみに支配され、彼は奥歯を強く噛み締める。
「エリオット……?」
アメリアを見下ろすエリオットの暗い瞳。その表情にはもう、欠片の余裕も残されていなかった。
彼の頭の中は、ユリアを苦しめた者への憎しみのみ。
――考えろ。真の黒幕は……僕らの本当の敵は……一体誰だ?
エリオットはアメリアの肩を抱いたまま、何かを考えるように押し黙る。
そしてしばらくの沈黙の後、彼はようやく顔を上げ――囁く程の声でこう言った。
「ユリア、今から僕の言うことをよく聞いて。僕は今から君の記憶を消さなきゃならない。でも、それは一時的なものだ。君の記憶は後で必ず呼び起こす。約束する。
だから――どうか僕に協力してくれないか。全てを終わらせる為に、最後にもう一度だけ……僕のことを信じて欲しい」――と。
***
既に日は落ちていた。東の空には白い月が昇っている。エリオットは右手に地図を、そして左手に一通の封筒を持ち、ナサニエルの部屋の扉を静かにノックした。けれど彼は返事を待つことなく、扉を開け中に入る。
「――遅かったですね」
ナサニエルが呟いた。
部屋は暗い。左右の壁際と、書斎の机にある計三本の燭台。広い部屋にも関わらず、ここにはそれだけしか灯りがなかった。あとは――そう、腰高の窓から降り注ぐ月の弱い光、それだけが、室内をぼんやりと薄暗く照らしだしている。
ナサニエルは書斎机の向こう側で、部屋の入口へ背を向けて立っていた。そして、窓から覗く満ちた月を見上げていた。
首の後ろでくくられた藍色の髪も、黒いスーツ姿のその全身も、この暗がりでは闇に溶けてぼんやりとした輪郭しか伺い知れない。
エリオットは音もなくナサニエルの背中へと近づく。そして、左手に持つ封筒を掲げた。ガラスに映るエリオットの姿に、ナサニエルがゆっくりと振り返る。
「約束通り」
エリオットの言葉に、ナサニエルは黙ったまま右手で封筒を受け取った。封はされていない。彼は中から便せんを取り出し、文面を確かめる。そしてその内容に一通り目を通すと、「いいでしょう」と呟いた。彼はそのまま便箋を封筒に戻し、その場で封をする。
「この手紙は私が出しておきます」
封筒はナサニエルの懐へとしまわれた。彼は続ける。
「それで――彼女は今、どうしていますか」
その問いに、エリオットの眉がぴくりと震えた。
「ユリアは……眠っています」
「そうですか。では、彼女が目覚めたら記憶が消えていることを確かめましょう。それが確認でき次第――貴方にはここを立って頂きます。その身体で馬は無理でしょうから、馬車を貸します。――いいですね」
有無を言わさないナサニエルの言葉に、どこか不満げに歪むエリオットの口元。
「……先生」
瞬間、エリオットの眼光が鋭くなる。それは凡そ隠す気も無いと言うように。その強い視線に、ナサニエルも目を細めた。
「……何でしょうか」
ろうそくの灯りを映すナサニエルの瞳が、炎に合わせてちらちらと揺らめく。
「貴方は昼間、僕に言いましたよね。ユリアをここに置いて僕一人でレトナークへ行けと。そして……ウィリアムの身体を手に入れ石に力を戻したら、その石を貴方の手の者に渡せと。でも――それはやっぱり受け入れられない。だって……僕は、先生を信用していないから」
「……つまり、ユリアも連れて行きたいと?記憶を失くした彼女を――ウィリアムに会わせると?」
「そうは言ってない。でも、……そういうことだ。レトナークには貴方の手下がいるんだろう?なら、僕がユリアも石も持ち去るようなことはさせない筈だ。問題ないと思うけどね。……僕は石を貴方の手下に渡したら、その足でこの国を出たいんだ」
エリオットの言葉を、ナサニエルは黙ったまま聞いている。
「でも……それでもユリアをここに置いていけと言うのなら……石はユリアと引き換えだ。貴方の手下に石は渡さない。もしもそいつらがこの石を奪おうとするならば――僕は再びこの石の力を使うよ。この魂が、粉々に砕け散ろうとも」
「……ほう」
そして――二人の間に沈黙が満ちた。ナサニエルの瞳はエリオットの意志を推し量るように見据えられ――またエリオットはナサニエルの考えを伺うようにじっと見つめ返している。
それは一瞬だったか、それとも――数分だったのか。
暗闇に包まれた部屋で――月明かりとろうそくの寂光のみが頼りの暗い室内で――ナサニエルの瞳が妖しく光る。その唇が、薄く開かれた。
「――いいでしょう、ユリアを連れて行きなさい。そしてもう二度と、この国には足を踏み入れぬことです。千年前の二の舞になりたくなければ」
「……はい」
エリオットが応えれば、ナサニエルは口角を上げる。そして、懐から懐中時計を取り出した。
「君にこれを差し上げます。せめてもの選別に」
「……これは」
エリオットが左手で受け取ったそれは、普通の懐中時計に比べてずっと重みがある。
「中は金で出来ています。売ればそれなりの値が付くでしょう」
「……どうして」
「ユリアを飢え死にさせられては困りますからね。――ただ、それだけのことですよ」
ナサニエルの淡々とした物言いに、エリオットは懐中時計を強く握り締める。その瞳から、既に迷いは消えていた。
*
静かな夜が訪れる。深い森の奥深くの小さなこの町には、今夜もいつもと何ら変わらぬ穏やかな風が――優しく優しく――渡っていった。




