01
「……心配だな」
昨夜から降り止まない雨が、部屋の窓に打ち付ける。まだ正午を回ったばかりだと言うのに空はどんよりと薄暗く、僕の心を酷く憂鬱にさせていた。
濡れた窓から眼下を見下ろせば、あちこちに土色の大きな水溜まりが出来ていた。
ユリアは大丈夫だろうか。
病気のお婆さんと2人きりで、きっと心細い思いをしているに違いない。本当なら今すぐにでも駆けつけて、彼女を抱きしめ安心させてあげたい。
しかしそうは思っても、昨日の今日で外出など父さんは絶対に許してくれないだろう。
だって父さんも母さんも、……いや、両親だけではない。町に住む大人たちは皆――普段は態度に出すことは無いけれど――ユリアのことを忌み嫌い、恐れているのだから。
森の奥には魔女がいる。
――この町にはそんな、古くからの言い伝えがある。
絶対に森に立ち入ってはいけないよ。
この町の子供は皆そう言い聞かせられて育つのだ。けれど実際にその言い付けを守る子供なんて、今では殆どいない。
僕もその一人だった。そして――ユリアに出会ったのだ。
彼女は人間だ。ごく普通の、僕らと同じ。
可笑しな術も、呪いも、儀式も行わない。彼女は断じて魔女などではない。
皆、そんなことはわかっている筈だ。だから普段は彼女と言葉を交わすし――下手に避けたりすることはない。なのに、やはり受け入れられないのだという。
彼女が森に住んでいる――ただ、それだけの理由で。
でもそれは小さなこの町の中だからだ。町の外に出てしまえば――あの森から離れてしまえば、そんなことは無くなる。
ナサニエル先生がいい例だ。
この町の唯一の医者である、ナサニエル・シルクレット先生。遠方から来たと言う彼は、ユリアのこともお婆さんのことも決して差別したりしなかった。
街の大人たちがいくら忠告しても、先生だけは困ったように笑いながら「私は医者ですから」と、そう言った。
今彼は週に一度、お婆さんの診察の為、森を訪れてくれている。丁度今日がその日だ。
僕は両親を信用していない。
けれど、ナサニエル先生だけは信用出来るし、信頼出来る。ユリアが今頼れるのは、僕とナサニエル先生だけだろう。
あぁ、早く成人してしまいたい。そうしたら僕はずっと、彼女の傍にいてあげられるのに。
「――あれは」
その時、この二階の窓から、家の門の外に人影が現れるのが見えた。
雨を避けるように灰色の外套を頭からすっぽり被ったその人は、誰かを探すように顔を上げて――。
次の瞬間、目が合った。
藍色の髪と瞳。縁のない丸い眼鏡――あぁ、間違いない、ナサニエル先生だ!
僕は部屋を飛び出して階段を駆け下りた。
この時間に僕の家を訪れるなんて、理由は一つしか思い当たらない。遂にこの時が来てしまったのだ。
あぁ、ユリア、君は今一体どんな気持ちでいるんだろう。
「エリオット!何処へ行くんだ!今夜はホークソンとの会合だと言ってあるだろう!?」
父さんの罵声が僕の背中に降りかかる。
でも、それどころじゃないんだ。本当に、それどころじゃない。
ごめんね父さん。僕はこの家より――ユリアの方が大切だ。
「先生!」
「――エリオット」
息を切らせた僕の姿に、眼鏡の奥の先生の瞳が微かに細められる。言わずとも伝わっているとわかったのだろう。
先生は神妙な面持ちのまま外套をさっと脱ぎ去ると、僕の肩に羽織らせた。
「彼女から……あなたにはまだ伝えないで欲しいと頼まれました。けれど私もずっと傍にいてあげられる訳じゃない。次の患者が居ますから」
「――はい」
「この雨で道は酷くぬかるんでいます。足を取られないように気をつけるのですよ」
「感謝します、先生」
それだけ言って、僕は走り出した。
父さんの声が小さくなっていく。先生が責められなければいいけれど。
あぁ、それにしたってユリア――君はこんなときでも僕に気を遣おうとしたのか。
この前伝えたばかりなのに。どんなときも僕を君の傍に居させて欲しいって――そう、言ったばかりなのに。
僕はぬかるんだ地面をひたすらに蹴って進んでいく。
この雨だ。人気は少ない。
これなら誰にも見られることはないだろう。僕が町から出て行くところを、きっと誰も見ていない。
僕は堂々と東の門を抜けて草原の丘を登って行った。
途中何度も足を滑らせそうになりながら、それでも速度は緩めなかった。早く――早く――一刻も早く君の元へ駆けつけたくて。
あぁ、ユリア、ユリア――分かっているよ。僕に気を遣ったその理由を――僕がわからない筈がない。
それが君の優しさで、君の僕への愛なんだって。それは僕のことを考えてくれてのことなんだって。
だけどね、ユリア。君はわかっちゃいないんだ。
君にそうされればされるほど、僕は君をどうしようもなく愛してしまうのだということを。
君が僕の為だと言って気を使えば使うほど――僕の目には君しか映らなくなってしまうのだということを。
薄暗い森に足を踏み入れれば、先生の言った通りそこら中がぬかるんでいて、うっかり足を滑らせれば本当に斜面を転げ落ちてしまいそうだった。
そうは言っても、ここは僕の森でもある。
八歳のときから彼女と一緒に過ごしてきた、ユリアと僕の庭だ。
僕は躊躇うことなく走りつづけた。
この森は僕らの味方だ。僕とユリアを、悪い奴から守ってくれる。
あぁ、皮肉だな。
僕は雨に打たれながら、それでも上がり続ける体温と心拍数に嫌な興奮を覚えつつも、瞼に落ちてくる雨粒を袖でぬぐい去った。
確かに今の姿を父さんや母さんが見たら、僕が魔女に心を奪われたと思うかもしれない。
ユリアに息子の心を取られた、と。確かに彼女にはその魅力がある。だから僕は彼女を誰にも紹介しなかった。友人や、家族には。
だって、もしも誰か僕以外の男が彼女に恋をしたら困るじゃないか。
許せる筈がない。それが親友なんてことになったら、尚更だ。
あぁ、もしもそんな彼女の魅力を魔女の素質だと言うのなら――それは確かに、呪いと呼べるかもしれない。
彼女をこの腕で抱きしめて、あの美しい身体の全てを知ったあの夜から――僕はユリアの事を考えないときは無いと言っても過言ではないのだから。
つまりこれは“死”ではなく、“恋”の呪い。僕の心を決して離すことのない、美しい恋の呪いだ。
あぁ、ユリア。早く君をこの腕に抱き締めたい。
君のお婆さんは死んでしまった。もう君の頼れる人間は、この世に僕しか居なくなった。可哀想なユリア、愛しのユリア。
君はもう――本当に僕だけのものだ。
「ユリア!!」
僕は扉を開け放つ。鍵は空いていた。
奥の部屋から聞こえてくるすすり泣く声に僕がそちらへ向かうと、お婆さんの横たわるベッドに彼女は頭を突っ伏して、肩を震わせ泣いていた。
「……ユリア」
僕が再び声をかければ、彼女はようやく僕に気が付いたというように全身をびくりと震わせて、その顔を振り向かせる。
赤く腫れ上がった瞼と、誰にも拭われることの無かった幾筋もの白い涙の跡をたたえて。
「……エリ、オット。……おばあ、さま……が」
掠れる声を震わせて、頬に張り付いた君の金の髪が、再び溢れ出した珠のような涙に濡れてキラリと光った。
あぁ、ユリア、君はなんて美しいんだろう。
彼女の涙に誘われて、僕の頬にも涙が溢れた。
僕は彼女に手を伸ばし――強く、強く抱き締める。愛するユリアを、……僕だけの、ユリアを――。
彼女はそれから暫くの間、僕の腕に抱かれて泣き続けた。
いつもは僕に隠れてそっと涙を流している君が、今日だけは僕の前で泣いてくれる。
数年ぶりだった。いつだって強がって、僕には笑顔を見せてくれようとする君が、こんなにも感情を露わにして泣き喚くものだから、流石の僕も辛くなる。
けれど同時に心から安堵した。
だって、唯一の家族を失ったんだ。これくらい泣くのが普通だろう?
あぁ、どうか彼女には、沢山泣いて一刻も早く悲しみを流してもらわなければ。そうして彼女は、ようやく僕だけのものになるのだから。
僕はその日、日が暮れても家に帰らなかった。
彼女の狭いベッドで彼女の背中を抱き締めながら、僕は星色に煌めく艶やかな髪を何度も撫でる。
「僕はずっとここにいる。絶対に君の前からいなくなったりしないから」
そうやって、何度も彼女の耳元で囁いた。
愛しているよ、僕は、僕だけは。
誰が何と言おうと、僕は君の傍を離れない。例え君がそう望もうとも、決して君を離しはしない。
これが僕の君への――愛だ。
彼女の寝息が聞こえはじめた。ようやく眠った様だ。
僕は彼女を起こさないようにそっと起き上がり、静かにベッドから降りた。
窓の外には朧月が浮かんでいる。
いつの間にか、雨は止んでいたらしい。
フクロウの鳴き声が部屋の中まで届いてくる。夜の森は本当に、静かで美しい。
僕は思い出していた。
以前ユリアなしで、お婆さんとここで二人きりになったとき、話してくれたユリアの秘密を。彼女は捨て子ではなく、人から預かった子供だと言うことを――。
誰に、とまでは教えてくれなかったけれど……いつか彼女に話さなければと言っていた。
でも、ユリアの様子から察するに、恐らくまだ何も聞かされていないだろう。
僕は部屋の燭台を手にして、お婆さんの部屋に踏み入れる。
何かある筈だ。彼女が捨て子でないならば、誰かから預かった子供だというのなら、その証拠が何か。
僕はそれを見つけ出すべく、部屋の中を探し回る。
狭い部屋だ。直ぐに見つけられるだろう。――そしてその予感は見事的中した。
ユリアへ、という宛名から綴られた三行だけの手紙。差出人の名前は無かったけれど、恐らく筆跡からして男のものだろう。
「……迎えに……、ユリアを?成人する頃に、って……」
――あと、三ヶ月しかない。
瞬間、僕の背中に嫌な汗が伝った。
ユリアが成人する頃に迎えに行く。そう、書かれた内容に。
「……許さない」
刹那、僕の口をついて出る言葉。それは多分、深い憎しみに満ちていた。
――僕からユリアを連れて行くなんて、絶対にさせない。
僕は手紙に火をつけた。罪悪感は、感じなかった。
だって十五年もユリアを放っておいた奴だぞ。それを今更、……有り得ない。何の冗談だ。
手紙を燃やして気が付いた。封筒には、まだ何か入っている。
それは不思議な形をした、黒い宝石の首飾りだった。そう言えば、これは御守りだ――そう書いてあった気がする。
「……誰が渡すかよ」
彼女は僕のものだ。誰にも渡さない。例え彼女の本当の家族が現れたとしても――。
彼女だって、僕と一緒にいる方が幸せに決まってる。
僕は首飾りをズボンのポケットに無造作に突っ込んだ。そしてユリアの部屋へと戻る。
燭台の火を消して、再びユリアを抱き締めた。
「愛しているよ、ユリア」
僕は囁く。
そして彼女の首筋に唇を落とし、僕の印を付けるのだ。
あぁ、ユリア、愛しのユリア。明日も沢山泣くんだよ。そして早くお婆さんのことは忘れてしまうんだ。一刻も早くここを出なければならないからね。
そうだ、遠くの街へ行こう。二人きりで、誰にも見つからない場所に――。
僕はユリアを抱き締める。
そして暗い部屋で一人、僕とユリアの幸せな未来を想像しながら、静かに眠りに落ちていった。