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「Snooty Fox」

作者: 沢木 翔

今朝、Webで調べ物をしていたら、昔、通っていた「Snooty Fox」というバーが閉店していたことが分かった。

閉店は2013年6月末とのことで、もう5年も前に店を閉じていたのだが、迂闊にも今朝まで知らなかった。

渋谷の再開発で入居していたビルが取り壊されることになったので閉店したようだ。


この店は私の中学・高校・大学が一緒だった友人に社会人になってから教えてもらった。

確か、1981年だったと思う。

この店が開店したのが1978年なので、比較的初期から通っていたことになる。


店は渋谷駅東口から歩いて5分ぐらい。

明治通りの渋谷警察署の反対側にあるビルの地下にあり、ビルの外側にあるタイル張りの階段を下りて行くとドアに「Snooty Fox」という洒落たプレートがかかっていた。

店の中は、カウンターとボックス席が5つくらい。

オープンリールのデッキやアンプが壁際にあって、いつもジャズが低く流れていた。


Snooty Foxとは普通に訳すと「気取ったキツネ」と言う意味だが、店のマスターが「イソップ物語の『酸っぱい葡萄』に出てくる負け惜しみを言ったキツネのことです。」と説明してくれたという記憶がある。

今調べてみると、そのような意味は見つけられない。

ただ、ロンドンやイギリスの湖水地方をはじめアメリカ各地に同じ名前のパブ、レストランやホテルがあるので、「snooty fox」には何か特別の意味があるのかもしれない。


私の勤めていた会社は丸の内にあったので、渋谷はちょっと遠い。だけど、この店が気に入ったのと、当時住んでいた会社の独身寮が比較的近かった事もあって、毎月2~3回は通っていた。準「常連」というところか。

この店のどこが気に入っていたのかというと、まず、雰囲気である。

店の中は落ち着いた渋い内装。イスやソファーも柔らかすぎず座り心地が良い。またいつもトイレがとても清潔であった。

私はもっぱらウィスキーを飲んでいたけれど、カクテルもなかなかの出来で種類も豊富であった。食べ物も凝ったものが出されて、女性には喜ばれていた。それでいて料金はリーズナブル。


だが、私がなによりも評価していたのは、店のマスターであった。

私より10歳程度年上で、なかなかのイケメン。いつも白いシャツに白いベストを着て店に出ていた。

一度来店した客の顔は決して忘れない。ちなみに、私が初訪から1か月後に店に伺った際も前回ボトルキープしたウィスキーが即座に出てきた。

また、お釣りはいつも新券でくれる。

客が店を出る際には、どんなに雨が降っていようと必ず店の外の階段を上がって「ありがとうございました。おやすみなさい」と笑顔で見送る。

私が仕事で渋谷界隈の客先に出かけた帰り道、開店早々に1人で寄ったことがある。

Barなのでこの時間帯にはほかの客は誰もいなかった。

私は村上春樹の小説に出てくる主人公の真似をしてビールとオムレツを頼み、

なんの気なしに「夕刊ありますか?」と尋ねた。

マスターは「少々お待ちください。」と言って、10分後に夕刊3紙を手渡してくれた。

後日、店のスタッフに聞いたところ地下鉄のキオスクまで買いに行ったとのこと。

私は大変恐縮した一方で、とても心を揺さぶられた。

マスターはここまでやるのに肩に妙な力が入っておらず、いつも淡々としている。

当時、私も駆け出しの営業マンであったが大変勉強になった。


亡くなった山口瞳の著作に「行きつけの店」という本があるが、そのなかに「行きつけの店は、文化である。修業の場である。学校である。」という趣旨の文章がある。

著者が行きつけの店の料理の質もさることながら、その店の主人や従業員をとても敬愛していたことがよくわかる。

そういう意味で「Snooty Fox」は私にとって大事な「行きつけの店」であった。

だから私もこの店を紹介する相手は厳選していた。

酒癖の悪い奴は論外で、また、誰かの悪口や会社の愚痴話に終始する奴も除外していた。


私が結婚して横浜に転居したころから、仕事が多忙になり残業が続いた。

いきおい「Snooty Fox」に行く機会も月1回から2か月に1回程度に減ってしまった。



2006年のある日、会社から帰宅すると1枚のハガキが届いていた。

文面を見ると、「Snooty Fox」閉店のご挨拶とあった。驚いて読んでみると、なんともう閉店してしまっている。

閉店の3か月前ぐらいから客に通知して、「閉店キャンペーン」みたいな企画が多いけれど、この店は閉店した後でお客にこれまでのお礼だけをしたためたハガキを出したのであった。

マスタ-らしいなと思った。

彼はハガキの中で開店から約30年経ち、年齢も還暦を越えたのでリタイアすると書いていた。

私は店がなくなるのはもちろんの事、マスターにこれまでのお礼を言う機会がなくなったことがとても心残りであった。


2年後にもう一度ハガキが届いた。

「Snooty Fox」が復活するという報せであった。

場所も店名も内装もそのままにすると書いてあった。

新しいオーナーが以前の店の評判を聞きつけて、マスターの了解を取って「Snooty Fox」を復活させたと書いてあった。ただ、スタッフは一新するようだ。


早速、開店直後の新装「Snooty Fox」に1人で出かけた。

案内通り、店の外観や特徴的なプレートは昔のまま。内装は綺麗になっていたが、雰囲気やレイアウトも基本的に従来通りであった。私はうれしくなって何時になく長居をしてしまった。

だけど、時間が経つにつれて違和感が徐々に募ってきた。

やっぱり何か違う。

それはやはりマスターが居ないことから来る、どうしようもない不安定感ともいえる感覚であった。

新しいスタッフは若く、皆きびきび働いている。

好感の持てる店なのだが、私の「Snooty Fox」ではない。

なんとなく居場所がないような気がして、結局その後は店を訪れることはなかった。

そして冒頭に書いたとおり、5年後の2013年に完全閉店となった。


私も還暦を迎え、数多くのなじみの店が次々と閉店している。

閉店理由の多くは店の主人の高齢化と跡継ぎの不在である。

一種の新陳代謝なのかもしれないが、人生の学校の廃校が続くのはなんとも切ないものである。


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