ドンジャンケン(2)
そしていよいよ、俺と《あそぼ》との、ドンジャンケンでの対戦が始まった。
二対一じゃさすがにフェアじゃないので、美湖は応援役だ。出現したタイヤの列の、片方の端に俺が、もう片方に《あそぼ》が陣取る。まずはスタートの合図と共に、このタイヤの列の上を歩いていかなくてはならない。
《あそぼ》がもう一度両腕を頭上に掲げた。
スタートの合図はあいつがするのか。まぁタイムリミットはこちらに有利なのだから、それくらいのハンデはあってもいいだろう。
パン! と乾いた音が響く。
《あそぼ》が頭上で手を叩いた音だ。
俺とあいつが、同時にタイヤに飛び乗り、バランスを取りながら歩を進めていく。
「くそ、意外と難しいなコレ……」
夢の中のくせに、靴から伝わるタイヤの柔らかさは妙にリアルだった。公園なんかに使われているこの手のタイヤは、当然新品ではなく廃タイヤのリサイクルだ。摩耗して使えなくなったタイヤが再利用され、さらに埋められた後も風雨にさらされる事で、フニャフニャのボロボロになっていく。その適度な柔らかさと傷み具合が、上に乗ったりジャンプしたりする時のクッションとなり、また遊具としての面白さにも繋がるのだ。
あまり固いと子供がぶつかった時に危ないし、バランスを取りにくい方が上を歩く時も面白くなる。それは分かるのだが、何も夢の中でまでこんなリアルに歩きにくくしなくてもいいだろう……。
足元を見ながら俺が苦戦していると、突然美湖が叫び始めた。
「圭典! マズイって! 急いで!」
「はぁ?」
「あっちあっち! 《あそぼ》、メッチャ早い!」
彼女の言葉につられて顔を上げる。《あそぼ》がどうしたって? 見ると、蛇のように曲がりくねった、タイヤの列のコースの先には……。
「なっ?」
凄まじいスピードでこっちに向かってくる、《あそぼ》の姿があった。
両腕を左右に広げてバランスを取り、タイヤを蹴飛ばすようにして猛ダッシュでコースを走り抜けてくるのだ。風にたなびく赤いマフラー。さながら漫画に出てくる忍者の動きだった。
しまった、背が低い方が重心も低いから有利なのか! それに体重も軽そうだし、裸足がタイヤにフィットする利点もあるかもしれない。いやあの動きはもはや人間の域を超えていて、重心や体重うんぬんのレベルではないと思うのだが……。
ドンジャンケンで勝つ一番の近道は、とにかくコース上を早く移動する事だ。ジャンケン自体の勝敗は完全な運任せなのだから、プレイヤーが努力して有利にできる要素はほぼそこしかない。なるだけ早くコースを移動し、少しでも相手の陣地の近くでジャンケンする。負けたら自分の陣地に戻る距離も長くなってしまうが、戻る時は地面の上をまっすぐ走ればいいのだから大した問題ではなかった。逆にジャンケンに勝った時、一気に相手を追い詰める事ができるだろう。
「くそ、何だよあの速さ!」
超人的なスピードは反則レベルだ。考えてみれば、いくら見た目は幼い女の子でも、相手は夢の中に出てくる怪異である。人間と同じ身体能力だと考える方が間違っていた。
俺も懸命に歩を進めるが、フニャフニャしたタイヤの上は本当に走りにくい。しかも焦ってタイヤから落ちてしまったらまたスタート地点からやり直しだ。どうしても慎重にならざるを得なかった。
そうこうしている間に、あっという間に両者の距離を詰められてしまう。
結局、二人が対峙したのは、コースの四分の一地点。
もちろん、俺の方から見て……だ。俺がコースの四分の一しか進んでいないのに、《あそぼ》は同じ時間で四分の三も進んでやがった。とんでもない奴だ。
タイヤの上で、俺と《あそぼ》が向かい合う。やはりあいつの身長は俺の胸くらいまでしかなかった。全力疾走したはずなのに、《あそぼ》の息は全く上がっておらず、むしろこいつは呼吸をしてるのか? と疑いたくなるほどだった。マフラーで覆われた口元には、吐いたり吸ったりといった空気の動きすら感じられないからだ。
おもむろに《あそぼ》が両手を胸の高さまで持ち上げた。
ドンジャンケンの『ドン』の名前の由来がこれだ。コース上で対峙したプレイヤー同士が、手のひらを見せるように両手を上げ、「どーん!」と掌をぶつけ合う。この時、力いっぱい相手を押してコースから脱落させてもいい。高さのあるコースでドンジャンケンを行う場合、コースの上から落下すれば無条件でアウトとなるのだから。
俺は警戒しつつ、《あそぼ》と同じように手を掲げた。
「どーん!」
二人同時に手のひらをぶつけ合う。刹那、異様な冷気が俺の腕に伝わってきた。何だこいつ……まるで死体か幽霊みたいに、体温が全く感じられない。手のひらの温度が異常に低かった。いや、俺は死体も幽霊も触った事は無いが。
それに《あそぼ》の腕力も結構強い。大人の男性並みか? うっかりすると本当にタイヤの上から落とされかねなかった。
次はジャンケンだ。
「ジャン……」
俺と《あそぼ》は、同時に右手を握った。
「ケン……」
その右手を相手に向かって突き出す。
「ポン!」
合図と共に手を開いた。グーならそのまま、チョキなら指を二本立て、パーなら完全に開く。誰でも知っているジャンケンの形である。
結果は、俺がパーで《あそぼ》がチョキ。
俺の負けだった。
仕方がない、一度タイヤから降りてスタート地点まで戻らないと……。
俺がそう思った時だ。
事件は――、起きた。
「……?」
右手を引っ込める《あそぼ》の左手に、さっきまで無かった物が握られている事に、俺は気づいたんだ。
それはハサミ。
布を裁断するような、大きくて鋭いハサミが、《あそぼ》の左手にしっかりと握られていた。あいつの小さな手が、持ち手をしっかりとホールドしている。
次の瞬間。
ハサミの鋭利な切っ先が、俺のみぞおちに突き刺さった。
「え……」
突然の事態に、俺は何が起きたのかすぐには理解できなかった。刃の部分だけでも十五センチはあろうかというハサミが、俺の腹に突き刺さっている。そう認識した直後、俺の脳天を激痛が貫いた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁッ?」
痛い。
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛いぃぃぃ……ッ!
ようやく事態を認識する。
《あそぼ》が、俺の腹をハサミで刺したんだ。でも何のために? 俺たちはドンジャンケンで遊んでいるだけじゃなかったのか?
傷口から鮮血が噴き出し、ハサミを突き立てた《あそぼ》の顔面を紅く濡らしていった。前髪とマフラーの隙間から見えるあいつの目は、どこか笑っているようにも見える。
「圭典……圭典ぇぇッ!」
美湖の悲鳴が遠くで聞こえた。
俺は痛みのあまり意識を失いかけ、そのまま力なくくずおれていく。タイヤから落ちて、背中を地面に激しく打ち付けた。
俺は死ぬのか? このまま腹から血を流して死んでしまうのか?
馬鹿な、なんでこんな事に……。
ただ《あそぼ》とドンジャンケンで遊んで、ジャンケンをしてチョキに負けただけなのに……。
チョキ?
そう言えば、ジャンケンのチョキはハサミを象っているんだっけ。まさか、チョキに負けたから俺はハサミで刺されたんじゃ……。
だとしたら理不尽すぎる。
いくら夢の中の話とはいえ、ジャンケンに負けただけでこんな仕打ち――。
「夢の……中?」
俺はハッと目を見開いた。
青空が視界に飛び込んでくる。
そうだ……これは俺が見ている夢なんだ。夢の中の世界なんだ。ハサミで刺されたからといって、その傷が元で死ぬわけじゃない。
そう気付いた瞬間、不思議と俺の腹の痛みは消えて無くなっていた。みぞおちの辺りを手でさすってみるが、ヌルっとした血の感触は感じられない。それどころか、突き刺さったはずのハサミさえ霧散していた。
「な……え? 夢……?」
確かにハサミが突き刺さったはずなのに。それにあの耐え難い痛みは間違いなく本物だった。それなのにどうして……? 夢の中で夢を見るなんて、ありえる事なのか?
「そうだ、ゲームの続き!」
想像を絶する痛みが、逆に現実感を麻痺させてしまったのか。俺はこんな状況でありながら、悠長にもドンジャンケンの続きの事を考えていた。《あそぼ》は俺をコース上から蹴落とした後、すぐさま駆け出したようだ。もうゴール地点……つまり俺がスタートした地点の寸前まで迫っていた。
「させるか!」
ガバッと跳ね起きて、俺はスタート地点までダッシュで駆け戻る。冷静に考えればこれは正しい判断だった。ここはしょせん夢の中。ハサミで刺されようが血が噴き出そうが、現実の肉体が傷つくわけではないのだ。今なによりも優先すべきは、《あそぼ》と遊んで、そのゲームに勝つ事。もし負けたら二度と夢から覚める事は無い……本当か嘘かは知らないが、都市伝説で語られるそのリスクを、今は一番に警戒するべきなのだ。
スタート地点に戻った俺がタイヤに飛び乗るのと、《あそぼ》が俺の眼前まで迫ってくるのは、ほとんど同時だった。ギリギリセーフ。かろうじて首の皮一枚繋がった。息つく間もなく、《あそぼ》が手のひらを見せてジャンケンを催促してくる。
「くそ、ちょっとは休ませろって……。はいはい、どーんっ!」
仕方なく、俺も手のひらを出した。さっきよりも強く《あそぼ》が押してくる。力任せに俺をタイヤから落とすつもりか? もうゴールは目の前。次のジャンケンに勝てば確実にゲームで勝利できるってのに、勝ちに対してとことん貪欲な奴だ。
とはいえ《あそぼ》の戦い方は間違ってはいない。ジャンケンはしょせん運否天賦。このゲームに勝つためには、それ以外の部分で勝機を引き寄せるしかないのだから。コース上をなるべく早く走ったり、「どーん!」で相手を強く押したり……その一つ一つの積み重ねが、勝利に繋がる重要な要素となり得るのだ。
「圭典、気をつけて……!」
美湖が沈痛な面持ちで呟く。さっきジャンケンで俺が負けた時、ハサミで腹を刺される瞬間を目撃したんだ。無理はないか。血しぶきを浴びたはずの《あそぼ》の髪が全く汚れていない辺り、もしかして本当にあれは夢だったのかと、刺された俺でさえ思いそうになる。
だがあの痛みは本物だった。
確かにハサミは俺のみぞおちに刺さった。
そして一瞬とはいえ、死にも勝るような激痛にのたうち回ったのだ。
「ジャン、ケン……」
その記憶が脳裏をよぎったのか。
「ポン!」
次に出した俺の手は、グーだった。グーなら確実に、チョキに勝てる。もう一度ハサミで腹を刺され、地獄の苦しみを味わうのは御免だ。そんな気持ちがつい手の形にも表れてしまったらしい。
対する《あそぼ》の手は、チョキ。前回と同じだった。
野郎、あわよくばもう一度俺の腹をハサミで刺すつもりだったのか……? ガキのくせして、油断も隙もない奴だ。
とはいえこれでジャンケンは俺の勝ち。《あそぼ》はタイヤから降りてもう一度自分のスタート地点まで戻らなくてはならない。どうにかゲームを仕切り直せそうだった。
「うん?」
しかし《あそぼ》はタイヤから降りない。ドンジャンケンを提案してきたのはこいつの方だ。ルールを知らないわけじゃないだろう。まるで何か、タイヤを降りる前にやる事があるみたいな様子で、俺の目の前から動こうとしなかった。
そしてもう一つ、別の違和感に気付く。
俺の左手に、何か急に重みが加わったのだ。ズシリとした重量感。まさかこれって……。恐る恐る視線を向けると、俺の左手にはいつの間にか、拳ほどの大きさの石が握られていた。
ちょっと考えれば分かる事だ。
さっきのジャンケンでは俺がチョキで負けて、ハサミで腹を刺された。なら今度のジャンケンでグーに負けた《あそぼ》は、同じようなペナルティを受けなければフェアじゃない。
ジャンケンのグーが象っているのは石。だから俺の左手には石が握られているのだ。
「この石で……《あそぼ》を殴れっていうのかよ……?」
俺の言葉に返答するかのように、奴の思考が流れ込んでくる。俺が左手の石で《あそぼ》を思いっきり殴りつけているイメージだ。
「冗談じゃねぇ、いくら得体の知れない化け物でも、見た目ガキ相手にそんな事できるかよ!」
「圭典……」
美湖の頭にも同じイメージが伝播したのか、彼女は悲痛な面持ちで俺と《あそぼ》を交互に見遣っていた。
どうやら俺が《あそぼ》を殴らない限り、そこからゲームは先に進まないらしい。俺のハサミの経験からして恐らく、タイヤから降りたら殴られたダメージや傷跡もリセットされるんだろうが……。だからといって幼い少女にためらいもなく暴力を振るうほど、俺は悪党にはなれなかった。
その時、美湖が何かに気付き、自分の胸ポケットに入っている砂時計を取り出した。砂の落ち具合を確認し、俺にも見るように促してくる。
「もしかしたらこれ、チャンスかもよ圭典! 砂時計を見て! あと五分くらいでタイムオーバーになるわ!」
空いている右手で俺も内ポケットから砂時計を引っ張り出した。確かに砂は半分くらい落ちて、上と下の分量がほぼ同じくらいになっている。
「そうか、俺が《あそぼ》を殴らない限りゲームが進まないっていうなら……」
「このまま殴らなければ、タイムオーバーで圭典の勝ちよ!」
俺が躊躇している間も、砂時計は進み続けている。もしゲームの進行が止まるのなら、砂時計の砂が途中で止まっていてもおかしくはなかった。逆さにしても『下から上に』砂が落ちていく不思議な時計だ。いま普通に砂が落ちている以上、ゲームのプレイ時間は進み続けていると考えて間違いない。俺が引き延ばし工作をしてもゲームの進行は止まらない……つまりこの駆け引きもゲームのうちって考えていいんだろう。
ちょっとズルい気もするが、タイムリミットまでに勝敗がつかなければ、こちらの勝利ってルールは《あそぼ》自身が認めた事だ。ルールで決まっている以上、後ろ指を指される謂れはない。
右手に砂時計、左手に石を持ったまま、俺は《あそぼ》と対峙した。奴もとっくに俺たちの狙いは看破しているはずだ。けれどどうする事もできまい。俺が左手の石で《あそぼ》を殴らない限り、ゲームはここから何も進みはしないのだから。
「へへ……どうよ? 俺もやられっぱなしじゃないぜ? このドンジャンケンに勝ちさえすればお前を夢から追い払えるんだからな。一泡吹かせて必ず……」
無駄話をして時間を稼ごう。
俺はそう思って挑発めいた軽口を叩くつもりだった。話しかける事であいつの集中力を削ぎ、対抗策を考える余裕を無くそうという作戦である。しかし《あそぼ》はそんな甘い相手ではなかった。
奴はもう対抗策を見つけていたのだ。
この状況を打破できる唯一の策を。
「必ずお前を打ち負かし……って、え? おい、何を……」
《あそぼ》は両手を伸ばすと、俺の左手首をガッチリと握り締めた。氷のような冷たい感触が伝わってくる。さらに力を籠め、俺の左腕を引き寄せ、そのまま自分の頭上へと引っ張り上げていった。何て腕力だ。とても子供の力じゃないぞ?
「まさか、お前……」
刹那。
何のためらいもなく、《あそぼ》は自分の頭めがけて、俺の左手を振り下ろさせた。
ガツン、という鈍い音と、骨が砕けるような嫌な感触が伝わってくる。
――簡単な話だ。
俺が《あそぼ》を石で殴らずに引き延ばし工作をするのなら、俺の腕を取って無理矢理にでも自分の頭を殴打させればいい。そうすればゲームは再開される。
傷口からわずかに噴き出す鮮血。《あそぼ》の身体に流れているのも赤い血なのか。感慨に耽っている間もなく、奴はタイヤから飛び降り、自分のスタート地点へと全速力で舞い戻っていった。
すると俺の左手の感触も軽くなる。
さっきまで、《あそぼ》の血で汚れていた拳ほどの大きさの石は消えて無くなり、胸元のカッターシャツに飛んだはずの血痕も奇麗に消滅していた。恐らく、《あそぼ》の頭の傷も今頃は元通りになっているだろう。奴がタイヤを降りたから全てがリセットされたのか。
「あいつ……何でそこまで……」
呆然と俺は呟く。
傷口が元に戻るからといって、痛覚はあるのに自分の頭を石で叩きつけるか? 一切の迷いもなしに? 痛みを感じないわけじゃないだろう?
俺は一応、自分の夢から《あそぼ》を追い出すために戦っている。負ければ二度と目覚めないという話だから、必死になって勝とうとしている。今まで疑問に思う事さえなかった。
だが《あそぼ》にはこのゲーム、いったい何のメリットがあるんだ?
ここまでして勝とうとしている以上、負ければ命を失うようなリスクがあり、勝てば得難い望みが叶えられる……そう考えるのが自然だろう。たとえ奴が物の怪の類だとしても。
奴は負けたら何のリスクを背負う?
そして勝ったら何を得る?
「《あそぼ》……。お前は何で、そこまでして勝ちたいんだ?」
考えても分かるはずのない問いを、俺は心の中で繰り返し問うた。
「圭典、何やってるの! 早く先に進まないと……!」
「分かってる!」
美湖が金切り声を出す。そうだ、分かってる。彼女にわざわざ言われるまでもない。今は考えるよりも、ドンジャンケンを進めて勝つ事が先決なのだ。俺はフニャフニャのタイヤを踏みしめながら、前へ前へと進む事に集中した。
《あそぼ》の動きは速い。
奴がスタート地点に戻り、そこからもう一度タイヤの列を駆け抜けていく。俺はスタート地点に戻らずにそのまま進んだにもかかわらず、結局最初の時と大差ない地点で《あそぼ》と対峙する事になってしまった。つまり俺の方から見て、全体の四分の一くらいの場所だ。
見ると、《あそぼ》の頭には傷も血痕も一切残っていなかった。やはりタイヤから降りれば傷はリセットされるのか。
奴が両手を胸の前で掲げた。俺も同じポーズをとる。「どーん!」の時の《あそぼ》の腕力は徐々に強くなってきていた。うっかりしていると本当にタイヤから突き飛ばされかねない。俺は手のひらを合わせて、思いっきり全力で腕を前に突き出してやった。
「どーっ……んんん?」
するとどうした事か。
俺のバランスは瞬く間に崩れ、《あそぼ》に寄り掛かるようにつんのめっていくではないか。しかもそれを見越したかのように《あそぼ》は身体を横向きにして、前のめりの俺を見事に避けていく。
俺が腕を前に押し出した瞬間、《あそぼ》がタイミングを合わせてスッと腕を引いたんだ……そう気づいた時には、俺はタイヤの上に豪快に倒れ込み、バウンドして地面に背中から落下してしまっていた。
やられた……フェイントか!
一回目の「どーん!」、そして二回目の「どーん!」。そしてさっきの、石を持った俺の左手を引き寄せた時。《あそぼ》の腕力は徐々に力強くなっていった。だから俺は無意識のうちに、三回目の「どーん!」はもっと勢いを込めて来るだろう、そう思ってしまったんだ。まんまと《あそぼ》の心理誘導に乗せられて、そう思い込まされてしまっていた。
あいつは最初から、何回目かの「どーん!」で手を後ろに引くつもりだったんだ。俺が勢い余ってタイヤから落ちるのを期待して。タイヤから落ちれば失格だからな。そうなれば、ジャンケンに負けた時と同じく、もう一度スタート地点に戻らなくてはいけなくなる。俺はまんまと一杯食わされたってわけだ。
「くっ!」
すぐさま立ち上がり、美湖の声援を耳に受けながら、俺は全力でスタート地点まで戻った。すぐ隣を《あそぼ》が全力疾走している。かろうじて追い抜き、スタート地点で反転し、地面を蹴ってタイヤに飛び乗る――。
顔を上げるともう、目の前に《あそぼ》が立っていた。
「何とか……間に……合ったか」
俺のスタート地点から数えて一個目のタイヤ。そこに俺は立っている。もうあと一秒遅かったら、俺の負けだっただろう。
だがもう俺は息も絶え絶えだった。予期せぬフェイントにその後の猛ダッシュ。精神的にも肉体的にもほぼ限界だ。砂時計の砂は……あと二分ほどで落ち切ってしまう。そろそろ最後の勝負になるはずだった。
俺がこのジャンケンに負ければ、《あそぼ》は悠々とタイヤの列を渡り切り、自分の勝利をものにするに違いない。俺が勝てば《あそぼ》はまたスタート地点からやり直しだ。俺は大して先には進めないが、このゲームには時間制限があった。もうそれほど多くジャンケンをしている余裕はない。次のジャンケンで俺が勝てば、決着が付く前にいずれタイムオーバーとなり、ドンジャンケンは俺の勝ちで終わるはずだ。
これが最後の勝負。
最後のジャンケン。
結局最後は、運否天賦のジャンケン任せというわけか。
俺と《あそぼ》は、両手を掲げて手のひらを合わせ、「どーん!」の体勢を取った。さすがに二回連続でフェイントは無いだろう。俺は一応警戒しつつ、軽く《あそぼ》の手を押してやった。
「どーん!」
向こうも大人しく、軽い力で押してくる。さすがの《あそぼ》も最後は、素直に運任せのジャンケンに勝敗を委ねる気になったという事か。
とはいえ、俺の出す手はもう決まっていた。
チョキで勝てばハサミで《あそぼ》を刺さなければならない。
グーで勝てば石で《あそぼ》を殴らなければならない。
こっちが拒否しても奴が自分から刺されたり殴られたりしに来るんだから、防ぎようがなかった。だとすれば、残る最後の手……パーを選択するのは当然の流れだろう。パーは紙を象ったジャンケンの手だ。石を包み込むからグーには勝てるが、ハサミには切られてしまうのでチョキには負ける。
たとえ俺がパーで勝ったとしても、せいぜい紙で《あそぼ》を窒息させる、みたいな展開にしかならないはずだ。ハサミや石と比べたらまだまだ全然、牧歌的だった。罪悪感は薄い。
俺と《あそぼ》はそれぞれ、右手を振り上げてジャンケンの姿勢に入る。
「いくぞ、ジャン……」
その瞬間になって、ようやく俺は違和感に気付いた。
……待てよ。
ジャンケンは、運否天賦……?
本当にそうだろうか?
確かに今回のドンジャンケン、最初のジャンケンは完全な運任せだったと思う。俺も《あそぼ》も特に戦略などは無く、頭に思い浮かんだ手をそのまま出しただけだった。結果として、俺はパーを、《あそぼ》はチョキを出したんだ。
「ケン……」
だが二回目のジャンケン。あの時、俺はチョキで負けるのが嫌で、グーを出した。チョキで負ければハサミで刺されると知ったからだ。その知識と経験からグーを選択し、そして勝った。
もしあの時、《あそぼ》もまた意図的にチョキを出したとしたら?
何かを確認する目的で、あえてチョキを出したとしたら?
具体的に言えば……俺がチョキで負ける事を怖がって、グーを出すかどうかを見極めるためにチョキを出したのだとすれば……?
「ポン!」
二回目のジャンケンの結果で、《あそぼ》は分かったはずだ。俺がチョキで負けて刺されることを怖がるチキン野郎だって事を。そしてあいつ自身がグーで負ける事で、《あそぼ》はもう一つ重要な情報を手に入れる事ができた。
俺が怖がるのは、自分が傷つく時だけじゃない。相手を傷つける時も、やっぱり怖がって動かない……怖がって、俺は《あそぼ》を石で殴りつけなかった。その事を奴は知ったんだ。
それらの情報を精査すれば、結論を導くのは造作も無かった。
伊達圭典は、チョキで勝つ事もグーで勝つ事も怖がっている。三回目のジャンケンで出す手は、恐らくパーに違いない……。
ジャンケンは運否天賦なんかじゃなかった。
どんな些細な情報も見逃さない観察力と、そこから推理を組み立てる洞察力。最後の一瞬まで決して気を抜かず、懸命に勝つ努力を続ける忍耐力……それらを兼ね備える者にとって、ジャンケンとは勝つべくして勝つものなのだ。
そして俺は負けるべくして負けた。
最後のジャンケン、俺が出した手はパー。
《あそぼ》が出した手はチョキ。
そうだ、あまりにも気づくのが遅すぎた。俺の手が読まれている事……いや、《あそぼ》がゲームを遊ぶために、命さえも懸けている事を。生半可な覚悟では、奴には勝てないのだ。
《あそぼ》の左手に握られたハサミ。
逆手に持ったその刃が、横一閃に俺の脇腹を貫いた。
激しい痛みが脳天を貫く。
俺がタイヤから転げ落ちるのと、その脇を通って《あそぼ》がゴールするのは、ほぼ同時だった。美湖の悲鳴をBGMにして、奴がタイヤから地面に飛び降りる。《あそぼ》がタイヤの列を渡り切った瞬間だった。
そして、この夢で俺が最後に見た光景――。
それは、地面に倒れ込んだ拍子にポケットからこぼれ落ちた砂時計だった。横向きになっても右から左へと砂が落ち続けている。まだタイムオーバーにはなっていない。制限時間内に俺の負けが……まごう事なき完敗が確定したって事だ。
俺は最後に気が付いた。
砂時計の上部。燭台のように広がっているそこに、横向きに揺らめいている青い炎。その青い炎が、ひときわ大きく燃え上がったかと思うと、なぜか黄色い炎に変色して、また元の大きさに戻ったのだ。何事もなかったかのように、また横向きに揺らめいている。色が青から黄色に変わった事を除けば。
炎の色が、青から黄色に変化した。
それが何を意味するのか、今の俺にはまだ分からなかった。いや、考える余裕もなかった。
俺は《あそぼ》に負けたんだ。
もう二度と、この夢から覚める事は無いのか?
俺を呼ぶ美湖の声が遠くで響いていた。この夢から覚めないはずなのに、俺の意識はどんどん霞み、暗闇の中に埋もれていく。
このまま死ぬんだろうか?
いや、既に俺は死んでいるのか?
そもそもこれは夢? それとも現実? どこまでが現実で、どこからが夢なんだ?
ぐるぐると、途絶える事のない問いが繰り返され、混沌に沈んでいく。
――そして、全ての意識が、途絶えた。
※
目が覚めると、俺はベッドの上にいた。
見慣れた天井。俺の部屋だ。汗だくのまま飛び起きた。
「生きて……るのか、俺?」
両手で顔を撫で回す。頬をつねると痛かった……って、夢の中でも痛覚はあったな。目が覚めた証拠にはならないか。
びっしょりと汗を吸った寝間着代わりのTシャツ。そいつをめくって、みぞおちや脇腹の傷を確認してみる。当然というか意外というか、どこにも傷口なんて見当たらなかった。
全ては夢……。
そして俺は今、夢から覚めた――のだろうか?
部屋の中を見回してみるが、昨晩寝た時と何一つ変わったところは無かった。違うのは、窓の外からほんのりと朝日が差し込んでいる点くらいか。スマホで時刻を確認すると、午前五時ごろ。夢を見ている間の記憶はほんの三十分程度の感覚だったのだが、実際には夜が明けていたらしい。
刹那、けたたましくスマホがコール音を鳴らし始めた。
画面には『井嶋美湖』と表示されている。
こんな朝早くに美湖から電話? 普通なら有り得なかった。だがもし美湖が俺と同じ夢を見ていたのだとすれば……心配してすぐさま連絡してくるのも当然だろう。電話に出てみる。
「おう、どうしたこんな朝早……」
『圭典! 良かった! 無事なのね!』
スピーカーから響く美湖の金切り声。朝からこんな大声出されて、電話の向こうはさぞ近所迷惑に違いない。
『生きてる? 死んでない? 大丈夫? 夢で圭典が《あそぼ》に負けて、そしたら急に夢から覚めちゃって、あたしだけ夢から出ちゃったのかもって思って、もし圭典が眠ったらままだったらどうしようって思って……』
「分かったから、とりあえず落ち着け」
『落ち着いてなんかいられないよ! ほんとに無事なの? お腹から血出てない? ハサミで刺されたところが傷痕に……』
「よしよし、続きは学校で、な? 電話切るぞ」
まだ電話口で美湖が何か言っていたようだが、構わず俺は電話を切ってやった。正直、ついさっきまで《あそぼ》と壮絶に遊んでいたのだ。ちょっと一人になって心身ともに落ち着きたかった。頭の中も整理したい。
――結局、あの都市伝説はでたらめだったって事なんだろうか?
俺は自問自答する。
俺は夢の中で《あそぼ》と遊んで、そして負けた。都市伝説通りなら、俺は二度と夢から覚めないはずだった。しかし現に俺はこうして目覚めている。都市伝説の《あそぼ》の話が事実と異なっていたのか、或いは……。
いやもちろん、噂がでたらめだったのならそれに越した事は無い。
何度か《あそぼ》と遊んで、いずれ勝てたら、あいつは満足して別の人間の夢に移動していく……そんな都合のいい展開も頭に浮かんだ。それなら《あそぼ》はそれほど害のない存在という事になる。夢の中でハサミで刺されたり、石で殴られたりするのは困るが、その程度なら時折見る悪夢と大差なかった。それほど怖がる必要もない。
けれども……。
「あそこまで必死に勝とうとしている《あそぼ》が、そんな害のない存在だって?」
つい口から声が漏れていた。
馬鹿な、ありえない。
俺は知っている。《あそぼ》が夢の中で、どれほど貪欲に勝利を追求し、全身全霊をかけて遊んでいるのかを。奴にとって遊びとは戦いだ。どんな敗北のペナルティを背負っているのか、あるいは勝利の目的を持っているのか知らないが、命を賭す覚悟で俺に向かっていたのは間違いなかった。
そんな《あそぼ》の相手をして、何度負けても問題ないなんて、ご都合主義にも程がある。こちらも何か敗北のペナルティはあるはずなんだ。
ヒントはあの砂時計。
上部で揺らめいていた、青い炎が黄色い炎に変わった事実。
そこに謎を解く鍵があるに違いない。
「もう一度……。《あそぼ》と遊んでみる必要があるな……」
俺には分かっていた。
そんな決意を口にするまでもなく、奴はもう一度俺の夢に現れる事を。
今夜眠れば恐らく――。
また俺の夢に、《あそぼ》は現れるのだ。




