春風
処女作です
読みにくい文だと思いますが暖かく見守ってください…
春の夕陽は、赤かった。
逆光が僕の目を焼く。
「聞いてるのかね?」
今まで気にもしなかった外の風景を見て、自分の置かれている状況を忘れていた。部長の一声でそれを思い出す。
「君はもう一年になるのに仕事ができないねえ…」
嫌味な声音に、不快な感覚が耳に奔る。
「すいません」
「すいません、すいませんって…君は何回すいませんを言ったら気が済むんだ。大体、こんなミスなんて普通はしないよ?」
溜息を何度も混ぜながら回りくどい言葉を投げつけてくる。
背中からも陰湿な言葉が突き刺さってきた。
(おい…薄野のやつ、また部長に締められてるぜ)
(あいつやる気あんのかよ)
(やだ、また薄野さん怒られてるわ)
こういう時にどちらにも気がいってしまうのは、昔からの悪い癖だ。
「わかったら今すぐこの資料直してこい!」
怒鳴った部長の声と紙が落ちる音に、僕はまた余所へいった意識を戻す。
部長の今日一番の溜息を最前線で聞いた。
こんなはずじゃなかった、と何度も心の中で囁く。
上京して一般的な大学生活を送り、一般的に就職をして、一般的に家庭を築く予定だった。だが、待ち受けていたのはそんな妄想を突き飛ばすような生活。目標も夢もちっぽけなものでいい。その時点でレールは完全に外れていた。
やりたくもない仕事に就くために下向してきたのも、外れたレールの上を走っていたからだ。
そのことに気づいた時には遅かった。
今でも後悔している。
床に散らばった資料を拾い集めながらそう思った。
そして、その後悔はもう遅いことだと言い聞かせた。
デスクに戻るとき、僕は笑われているのを感じた。
正直、悔しかったし腹が立った。
でも、何もできなかった、何かをする資格がなかった。いや、『見て見ぬふり』と『気づかないふり』はできた。
気分を変えるために開けた窓からは桜が吹きこんできた。それを運んできた春風は、とても冷たく、酷かった。
『清汰くん、あの、私、清汰くんのこと好きなんです!付き合ってください!』
高校の時に顔も知らない女の子に告白されたことをなぜか思い出した。その子に返事をしていないことも。
昔から自尊心が高すぎるところがあった。だけど、裏目に出ることはなく、自信として心の中で積み重なった。そうして作ったプライドのせいで、人間関係のバランスが上手くとれない。
一人で生きていくしかなかった。
デジタル腕時計が二十時を告げた頃に、資料を直し終わった。
椅子にもたれかかった全身から、力が抜けるのを感じる。頭の上だけを照らす電灯が眩しい。
十分程経ってから退社をした。
あれだけ綺麗な赤を塗りたくった空は、今は真っ黒に星を散らしていた。その空は東京で見れるようなチープなものとは違い、ノスタルジーだった。でも、どこか嘲笑っているような気がして、綺麗だとは思わなかった。
中途半端な時間に退社したので、次のバスは一時間後だった。
なので、今日は少し違うルートで帰ろうと思って歩いた。
街灯が等間隔に立っていた。一つの距離が遥かに長く見え、落ちてしまいそうなほど暗かった。周りの音はほとんど聞こえず、自分の歩く足の音が身体を伝って鼓膜に届くだけだ。
民家はほとんどなかった。昔はこの辺にも精米店や小さな即売所があったはずだが、雑草の生い茂る空き地に変わっているところがほとんどだった。
そんな殺風景の中に一際明るい光が見えてきた。
県道との分岐のところにあったそれはコンビニだった。煌々と光るその建物はあまりに不釣り合いに感じた。
僕はなんとなく、無機質な白昼色に誘われて中に入る。他のところと比べると、綺麗な方だった。オープンして間もないのだろう。
特に何かを買いにきたわけでも、用事があったわけでもないので、店内を見てから窓側の雑誌コーナーに立った。
だんだん、心が落ち着いていくのを感じた。
自分の知らないところにいるのが安心した。まるで自分一人の世界。僕だけが僕を知っている世界のような気がした。
少し時間が経った頃、自動ドアが開く音がした。
僕以外の人は店員くらいしかいなかったので珍しいと思った。
入ってきたのは僕よりも一回り小さな女性だった。
白いワンピースの上から薄いピンクのカーディガンを羽織っている。それに合わせるように被ったキャスケット帽のせいで顔はよく見えなかった。
彼女には目的があったらしく、まっすぐに雑誌コーナーの奥に行くと、一冊引き抜いてレジに行った。
店内に電子音が響く。
彼女は先ほど買った雑誌を、奥にあったフードコートの席に着いて読み始めた。
(あれって…)
彼女が手にしていたのは、成人雑誌だった。
生々しいフォントにいかにも生臭そうな題が載っていた。生まれてこの方そういうのに興味の無い僕からすれば、とても新鮮な衝撃だった。
彼女がそこにいた時間は短かった。
十分もしないうちに本をビニール袋に入れて店を出た。
窓ガラスの前を通る彼女が見えたが、相変わらず深く被った帽子の中は見えなかった。
フードコートは暖色の照明になってだった。こちらとあちらは全くの別世界の気がした。
そこに座っていた彼女の椅子の下に何かが落ちていた。
黒いがま口の財布だった。
(彼女のかな…?)
店員に預けるのよりも、直接渡した方がいいと思った僕は財布を 片手に店を出た。
彼女の行った方向は覚えてる。
少し時間は経っていたが、その道はしばらく一本道なので問題ない。
久々に走った。
息が切れるくらい、走った。
闇に消えたり、光に現れたりする彼女の背中をようやく見つけた。
「待ってください!」
そういうとこちらに気付いたように後ろを振り返る。帽子の中から覗かせた表情は少し不思議そうだった。
「こ…これ…あそこに忘れてましたよ…」
息も絶え絶えの僕は片手で笑う膝を支え、片手で彼女の財布を差し出した。すると、彼女はポケットの中を確認して驚いた顔をした。
「すいません、わざわざありがとうございます…」
申し訳なさそうにして財布を受け取った。
「いえ、とんでもありません」
彼女はすぐ背を向けた。
「あの!」
僕はそんな彼女をまた止めた。まだ何かあるのかというような顔をしてこちらを見る。
「あっ…えっと…」
何も考えずに呼びかけたので言葉が定まらずに詰まる。
「夜道は暗いですから近くまで送っていきましょうか?」
彼女は少し微笑むと口を開いた。
「お気持ちは嬉しいのですが、そのようなことは結構です」
断わられたというショックから、引きつった笑みでそうですかとだけ言うと、彼女は再び礼をして今度こそ本当に行ってしまった。
僕も諦めて来た道を戻る。
多分、このとき僕は彼女に惹かれたんだ―――
家に帰るとすぐにベッドへと溺れた。心の内側から汚れた何かが滲み出て、身体が軽くなった気がした。
目を閉じると彼女の微笑んだ顔が浮かぶ。優しく笑う彼女の顔を思い出すと胸が絞められていくようで苦しかった。
「また会えるかな…」
自分らしくないことを呟いた。
否、自分らしくなくなった。
自分が自分のことをよくわかるはずなのに、自分が自分を見失った。
曇り空に桜は絵になっていなかった。
翌日は朝から重厚な雲が空を覆い、昼には大雨が降った。花びらの大半は地面に散り果てただろう。
いつになくよどんだ天気に心まで重くなり、今日もまたコンビニに寄った。もしかしたら昨日の彼女に会えるかもしれないという不純な理由で。
(今日は来ないのかな?)
昨日と同じくらいの時間になっても姿を現さなかった。
(諦めて帰ろう)
手にしていた雑誌を棚に戻し店を出た。
自動ドアを抜けてから下を向いて歩いていると、前から誰かが歩いてきた。昨日の彼女だ。
彼女も下を向いて歩いていた。
「あっ…どうも、こんばんは…」
あ思わず声をかけた。
「あら、こんばんは。昨日はどうもありがとうございました」
彼女は少し微笑んでそう言った。
「いえ、とんでもないです。あの、いつも来られてるんですか?」
僕は少しでも会話をしたかったので話を続けてみる。
「そうですね、ほとんど毎日ですかね」
なぜこんな時間に来るのかも聞きたかったが、それは失礼な気がした。
「そうなんですか。まだまだお暗いのでお気をつけて」
彼女はフッと優しく笑い、ありがとうございますと礼をした。
そして彼女は店へと、僕は帰路へと歩いていった。
明くる日も僕はコンビニへと足を運んだ。
雑誌コーナーで時間を潰し、彼女がくるのを待つ。
「こんばんは」
そう言うと彼女も返してくれる。
たった一言だけの関係。彼女のことを何も知らないし、僕も彼女のことを何も知らない。それでもよかった。そうやって一言を交わしていくだけで、彼女に惹かれていったから。それだけの理由だ。それだけの理由で僕は生きていける、ちっぽけな存在だ。
「もう一回やり直してこい!」
(アイツには何にも聞かない方がいいぞ新人)
(アイツ、マジで仕事できないからお前はああなるなよ)
部長の怒号も、大きな陰口も、湿った笑いも、もう慣れた。今はこれがないと彼女に会えないかもしれない。それほどまでに縛られていた。僕にとっての生きがいは、たった数秒にも満たないそれだけになっていた。
今日も僕が唯一存在できる場所にきた。
自動ドアをくぐると彼女の方が早く来ていた。
いつものように生々しい成人雑誌を読んでいた。
僕もいつものように雑誌コーナーに立って、ニュース誌を読む。彼女は僕に気付いていないようだった。真剣な目を自らの持つそれに向けている。
たった一つ、一言ないだけ。それだけのはずなのに僕はここに来た意味を失った気がした。
今日はいつもと違う。そう信じ込んだ僕はニュース誌を閉じ、それを手に持ったままレジに向かう。そして、気だるそうな店員にコーヒーを頼む。それも二つ
両手にコーヒーを持って肩から鞄、脇にニュース誌を挟みフードコートに向かう。忙しい格好だった。
「こんばんは」
急にかけられた声に驚いたのか、呆気ない顔をしてこちらを見た。
「こんばんは。今日は遅かったですね」
「ええ、まあ。隣、座ってもいいですか?」
「はい、大丈夫ですよ」
カウンター席、彼女と肘一つの距離のところに座った。
「飲みます?コーヒーですけど」
笑ながら彼女にコーヒーを渡した。
「あら、じゃあお言葉に甘えさせてもらいますね。ありがとうございます」
そこからは無言の時間が続いた。少しだけ話ができた、それで僕は満足だった。
「そろそろ行きますね」
そう言うと彼女は席を立った。
「そうですか」
わかりましたというと彼女は笑顔でさようならと言い残し、店を出た。
彼女の後ろ姿を見送ってからしばらくすると、僕も店を出た。
胸の内側が熱かった。
冷たい夜風なんて気にもならないくらい。
それから僕は彼女のいつもの席の隣で座って雑誌を読んだ。
たまに自分の好きな小説も持ってきたりした。
彼女とは住んでる場所、好きな音楽、好きな映画、色々なことを話した。
ただ、お互いに名前は聞かなかった。正直僕は名前なんてどうでもよかった。彼女にどう思われていてもよかった。
僕の隣で笑っている。
その事実があれば、僕は嬉しかった。
「あの、前々から気になってたんですけど…」
唐突に疑問を投げかけると彼女は首をかしげた。
「どうしてそういう本を読んでるんですか?」
そう聞くと彼女は少し顔を紅潮させたものの口を開いた。
「ああ、これね…これは特に理由はないです。男の人と女の人がどんな風に付き合ってるのかなって思って…」
「そうなんですか?男の人と付き合ったことはないんですか?」
そう聞くと彼女は表情を曇らせた。
とっさにごめんなさい、と謝った
「いいんですよ…」
引きつった笑みでそう言った。
そこからちょっとの沈黙があり、また彼女は話し出した。
「私ね、身体が弱くて小学校はあまり行ってないんです。中学は受験して女子校の付属中学に入学たんです。だからあまり男の人と関わる機会がなかったから、付き合ったことないんです」
だからこういう本って男の人と女の人がどういう風に付き合うかわかるかなって思って、と言った。
話が終わると、彼女はいつもの笑顔を見せてくれた。
嬉しくも悲しかった。
「そうだったんですか…」
彼女のことをまた一つ知れたのと、彼女のことを少し傷つけた気がしたからだ。
「あなたは優しいから、多分これからいい男の人がいますよ。僕が保証します」
そう口走った僕を彼女はまた呆気にとられた顔で見た。
「ありがとうございます、嬉しいです」
少し照れながら彼女は言った。
本当は『いい男』なんかじゃなく『不格好』な僕を見てほしいと言いたかった。でも言えなかった。彼女の曇った表情を見て、まともな言葉をかけれなかったからだ。そんな人間が都合の良いことを言える口ではなかったからだ。
時間はどんどんと過ぎていって、気づいた頃には梅雨になっていた。今年の梅雨は例年よりも降水量が多いらしく、四六時中雨の音を聞くこととなっていた。
夜になってもそれは変わらなかった。
「こんばんは」
いつものように来た彼女は雨に濡れていた。
「こんばんは。濡れてますけどどうしたんですか?」
「小雨だったので傘はいらないかなって思ったんですけど、途中からいっぱい降ってきちゃって…」
「そうだったんですか…これ、食べます?温まりすよ」
さっきお湯を入れたばかりのインスタントラーメンを彼女に勧める。
「それは悪いですよ…」
「大丈夫ですよ。風邪ひかれるとヤバいですからね」
そう言うと彼女の表情はパッと明るくなりそれじゃお言葉に甘えさせていただきます、と言い椅子に座った。
彼女はいつものように成人雑誌を買っていなかった。自分だけ本を読むのは気が引けたので僕は本を片付ける。
「あれ、もう読まないんですか?」
「はい、いいんです。キリがいいところだったんで」
せっかくもっと二人で話す時間が増えた。でも、なぜか上手く言葉がでない。それは彼女の横顔のせいか、濡れた髪のせいかはわからない。わからなくてもよかった。言葉なんていらなかった。
今の僕に必要なものなんて『彼女』しかいらない―――
「美味しかったです。ごちそうさまです」
「いえいえ。温まりましたか?」
そう聞くと彼女はまた笑ってはい、と言った。
彼女はよく笑う。そんな彼女の笑顔を、隣でずっと見ていたいと心底思った。
「そろそろ行きましょうか。雨も小降りになりましたし」
「あっ、私傘買ってきますね」
そう言って立ち上がろうとした彼女の手を無意識に引いた。
「大丈夫ですよ。傘、貸します」
彼女も少し驚いていた。とっさに手を離しごめんなさいと言う。
「ええ…でも、それだとあなたが濡れてしまいますよ?わたしはもう濡れてるので大丈夫です」
あえてたった今のことに彼女は触れなかった。
「これ以上濡れたら本当に風邪ひきますよ」
少し笑いながらそう言った。
「それに、明日も来てくれるならその時に返してください」
彼女は押されて断る言葉を失ったからか、フッと笑って諦めたような笑みを浮かべた。
「わかりました。じゃあ…送っていってください。家の近くまででいいんで。そうしたら二人とも濡れずに済みますよね?」
その言葉に唖然となってしまった。
「あっ、なんか不都合とかってあります…?」
申し訳なさそうに彼女は聞いた。
「いえ、大丈夫です。それじゃあ行きましょう」
嬉しかった、なんてチープな言葉ではこの場合表現に欠けるところがあると思う。
店を出るとさっきより雨が降っていた
「急ぎましょう。土砂降りになると大変ですから」
彼女はええ、と囁くと傘の中に入った。
雨雲が蔓延る空の下を、二人寄り添って傘をさして歩いた。
最初こそ話をしたが雨音が強くなるにつれて、口数が減った。
胸が苦しかった。
隣にいる彼女を見ると、どんどんと自分が惹かれているのがわかった。顔も素性も知らない彼女の知っていることは少しの趣味と笑顔だけ。これっぽっちにも満たないけど、沢山のような気がした。
何かを決意したように歩みを止めた。急に止まったからか、彼女は少し不思議そうにこちらを見つめる。
「どうしたんですか?」
僕も彼女の顔を見つめた。そして、口を開く。
「あの――――――――」
そう切り出すとまたどっと雨が強くなる。僕も負けじと声を張る。
「僕と付き合ってもらえませんか?」
えっと彼女の表情が変わった瞬間、音も色も何もかもが消えて時間が止まった気がした。
不規則な間隔の時間が少し経つと彼女は頬を今までにないくらい紅潮させて俯いた。言葉に詰まっているようだった。
「え…えっと…一日、考えさせてれませんか…?」
彼女はいつものとは違う、少し引きつった、緊張を帯びたような笑顔を見せた。
「わかりました。明日、いつもの場所で待ってます」
そう言って僕は彼女の手に傘を握らせ、止める彼女を振り返らずに来た道を走った。
息が切れていることなんて忘れていた。
とにかく、走った。
寝不足の身体を引きずって今日は出社した。
いつも悪い仕事のパフォーマンスが一段と落ちていた。昨日のことに原因がある。
彼女はどう思っているのだろうか、今日は来てくれるのだろうか、そんな不安があった。信じれないわけではない。信じてることが必要だと言い聞かせた。
僕の方が早く来た。
今日は何もせずに、ただただ窓の向こう側を眺めているだけだった。
「こんばんは…」
「…こんばんは」
いつもよりもしんみりとした言葉を交わした。
彼女は申し訳なさそうに席に座る。そこからは今までに体感したことのないくらいの長い時間を感じた。実はそれほど長くなかったのかもしれない。
「あの…昨日のことなんですけど…」
重い空気を持ち上げたのは彼女からだった。
「ああ、考えてくれたんですか?」
はい、とだけ彼女は言うと下を向いたまままた口を開いた。
「ごめんなさい、私はあなたとは付き合えません」
急に頭が真っ白になった。そしてすぐに現実に引き戻されてああ、そうだよなって勝手に心で解釈した。
「どうして…ですか?」
「私はあなたの全部を知らないし、あなたも私の全部を知らないはずです。それに、あなたは昨日私が止めたのに待ってくれなかった。もし付き合ったとしても二人で歩むことができないのなら、私は付き合えません」
「そうですか……」
彼女は仕切りにごめんなさいと言うと何も言わずに席を立ってしまった。僕は彼女を止めなかった。
少しだけ窓の外を眺めた。
もう帰ろう。
そう思って店の外へ出た。
外には珍しく数台のバイクが止まっていて、そこの近くに小さな人だかりができていた。
真ん中には彼女がいた。
ゲラゲラと笑う男に囲まれた彼女は怯えているように見えた。
頭が真っ白になったのは今日で二回目だった。
真っ直ぐと人だかりに向かってくと僕に気づいた男達が静まり返る。
男達に見向きもせずに彼女の手を引っ張った。すると、一人の男が僕の肩に手を置いた。
「おいてめえ、何やってんの?」
恐怖よりももっとおぞましい正反対の感情が心を支配していた。
「お前に言う義務はない」
そう言ってまた前に進もうとすると後ろに引っ張られ頬に一瞬の痛みが奔った。横にいた彼女が短い悲鳴をあげる。地面に尻もちを着いた時に自分は殴られたんだって理解をした。
「なんかお前ムカつくな。俺らが捕まえた女横取りしようなんてふざけてんの?」
周りの男もゲラゲラ笑いだした。
「お前は彼女の何を知っている…」
もう頭は何も考えていなかった。
「ああん?何言ってるか聞こえねえよ」
「お前は彼女の何を知っているって聞いてんだよ!」
そう叫んで僕は男にしがみついた。生まれてこの方喧嘩なんて一度もしたことがなかった。男は身体を何回も殴ったり蹴ったりしてきた。それでも僕は立った。何度も立ち上がった。なぜ立ち上がったかはわからない。自分のちっぽけなプライドの為か、彼女を想う気持ちの為か、それはどちらも違って、曖昧な僕との決別の為だ。
何度も頬を殴られ、ついに地面に落ちた。
朦朧とする意識の中、パトカーのサイレンの音に気付き連中の中の一人が叫び男達は逃げたのが聞こえた。店員が通報してくれたのだろう。
仰向けに寝転がる僕の横に彼女はいてくれた。
「どうして…こんなことを…?」
彼女は静かに泣きながら言った。涙が頬を伝い、顔に落ちる。
「あんな連中に…君を知られるのが…怖かったから…」
静かに僕の方を見つめる。
「僕の…やっとできた大切な…人なんです…あなたといる時間が…楽しくて…楽しくて…だから…そんなあなたに…惹かれて…」
彼女は首を横に振りながら我慢していた泣き声を漏らす。
「あなたにどう思われてもいい…あなたに嫌われてもいい…だけど…僕はあなたのことを…見つめています…」
気を持っている間に彼女に伝えないといけない義務があった。
「こんなやり方…ずるいかもしれません…が…僕の名前は薄野清汰…あなたのことが…好きな人です……あなたのことを何も知らないかもしれません…でも…あなたと一緒にいたい…です……」
どんどんと大粒の嗚咽混じりの涙を流しながら彼女は何度もはい、と言った。
僕はその涙を拭おうと彼女の頬に手をやり、ついに意識を失った。
目を覚ましたときには白い天井があった。ここがどこなのか理解するのに少し時間がかかった。
まだ少し身体が痛む。
起き上がろうにも起き上がれない。
首を横にすると、彼女が横で寝ていた。付きっきりで看病してくれていたのだろうか。
(そうか…あの後倒れたんだ…)
頭の中で自分に起こったことを思い出した。
彼女にもう一度告白をした後に意識を失ったのだった。
「うーん」
おもむろに彼女が起きた。
「あら、起きていたんですか?」
寝起きだったのか、不安定な声を出す。僕は少し笑って「今起きました」と言った。
「ずっといてくれたんですか?」
「ええ、心配だったので」
ありがとうございます、と言うと彼女も笑顔を見せた。
「…あの、ちょっといいですか?」
僕は少し不思議そうにする。
「昨日のこと、ちゃんと返事できたかなって思って…」
顔が赤くなるのが自分でもわかった。
「私はあなたと一緒にいたいです。まだまだ知らないこともあなたのことも知りたいです。これから、よろしくお願いします」
そう言うと彼女は僕の手をそっと握った。
「名前を教えてください。まだ聞いてなかったので」
「そういえば、私の名前言ってませんでしたね」
そうでしたね、なんて二人で可笑しそうに笑った。
「雪草京子です」
よろしくお願いします、と彼女は改まって言った。
「いい名前ですね」
僕達はこれからを踏み出したにすぎない。
それでもゆっくり、歩き続ければいいと思った。
今はこの一握りの小さな幸せを噛み締めていたかった。
「こちらこそよろしくお願いします」
そうして、彼女の手を軽く握り返す。
窓の外では一足遅い春の風が吹いていた。
第一章 完




