4.逢魔ヶ刻の遭遇、蝿王子の覚醒 (残酷)
時刻は午後五時半頃。
本日の役目を終えた太陽が、紫紺の空に茜色の余韻を残しつつ、橙色の火の玉となって遠い住宅街の屋根の間に消えていく。
昼と夜が交じり合う、今は黄昏時。
――あそこに見えるは誰そ彼?
夕日を背にして、道の向こうから近づき来る一つの人影。それはもしかしたら『良くないもの』かも知れない。
なぜなら今は『良くないものと出遭う』逢魔ヶ刻。
そして、『良くないこと』が起こる、大凶刻なのだから。
「……」
僕は目を細めて揺らめく人影の正体を見極めようとする。できれば気のせいであってほしい。何事もなく済んでほしい。
今になって並木さんの忠告を聞かなかったことを後悔し始めた。生徒会の用事で遅くなってしまったのは仕方ないといえばそうなのだけど。
やがて近づいてくる人影の輪郭がはっきりと像を結ぶ。
それは、髪の長い女性だった。
『犯人は女で、女性の髪を切るために近づいてきます』
頭の中で並木さんの言葉がリピートする。
僕は無意識に自分の髪に手を伸ばしていた。
僕の髪はただでさえ短いのに、これ以上切られてしまったら本当に男の子になってしまう……!
……いや、まてよ? そもそもどうして女性の髪を切るのだろうか?
女性が女性の髪を切る。ありがちな線でいけば、自分より綺麗な髪を持つ女性に対する嫉妬だろうか。
もしそうなのだとしたら、僕はまず間違いなく対象外だろう。何せ僕の髪は短い上に、クセっ毛だからだ。お世辞にも嫉妬されるような髪ではない。
自分で言ってて悲しくなるけど、少し安心した。
まあそもそもからして、今、目の前まで来ているこの女性が髪切り女であるという確証もないんだけれどね?
「ねえ、アナタの髪を切ってもよろしくて?」
「……。え?」
目の前の女性は唐突にそう言った。
僕が頭の中でぐるぐる思考をめぐらせている間に、いつの間にか目の前まで来ていた女性。
シックな青いカクテルドレスに身を包み、見た目は二〇歳くらいに見える。
西洋の貴族のような縦巻き髪に、つり上がった眉尻からして気の強そうな、プライドが高そうな印象を抱かせた。
背は僕よりも頭半分ほど低い。そのため若干上目遣いで。
女性はクスクスと不敵な笑みを浮かべながら言った。
「まあ答えなくても結構ですのよ? どうせ関係なく切ってしまうのですから」
僕の背筋がぞくりと冷える。全身の肌があわ立つ感覚。間違いない、この女が並木さんの言っていた――!
「髪切り女!」
僕が叫ぶと髪切り女は驚いたように目を丸くした。
「あら、なぜワタクシのことをご存知なのかしら? おかしいですわね、ワタクシのしたコトは全て【蟲籠】が揉み消しているはずですが……」
ムシ……カゴ? 何かの聞き間違いだろうか?
髪切り女は少しの間何かを呟いた後、「まあいいですわ」と打ち切った。
「ワタクシのことを知っていようが、そのようなことは些事ですわ。むしろ説明する手間が省けるというもの」
再びクスリと不敵な笑み。
「そういうワケで、アナタの髪を切らせて頂きますわ。容赦なく丸刈りにしてしまいますけれど、殿方なら別に構いませんわよね?」
その時、僕に衝撃が奔る――!
「女です! 僕はオ・ン・ナ・ですぅ!」
どうやら髪切り女にも衝撃が奔った模様。先ほどよりもさらに目を丸くしている。
一日に二度も間違えられるなんて……。僕の乙女心はもうヒビだらけだよ……。
「殿方にしては妙に綺麗な顔をしていると思いましたが、まさか女性でしたなんて……。でもむしろ好都合ですわ、ワタクシもどうせ切るなら女性の髪の方が楽しいですもの」
髪切り女のクスクス笑いが、悪意をふんだんに含んだニヤニヤしたものに変化した。
そしてその手には、いつの間に取り出したのか、一つの鋏が握られていた。銀色で、装飾のないシンプルな外見のものだ。美容師が使うそれととても良く似ていた。
髪切り女はその鋏をショキショキと動かしてみせる。
(このヒト、ヤバイ――ッ!)
僕の中のナニカが、第六感を司る存在とでも言うべきナニカが全力で危険信号を発する。
気がつくと身体が動き出していた。髪切り女に背を向けて全力で走り出す!
「あら、逃げるんですの?」
幸い運動神経はいい方だ。足の速さにも結構自信がある。並みの女性では僕には追いつけないだろう。
「やれやれですわ。常人が【蟲飼】から逃げられるはずありませんのに」
髪切り女が何かを言っているが、追いかけてくる気配はない。
僕はアスファルトを蹴る足にさらに力を込める。
このまま人通りの多いところに出られれば――!
――ショキン。
背後から、一際大きな鋏の音。それが聞こえた次の瞬間、僕は足に急ブレーキをかけた。
「な、なんで……!」
目の前に突然、髪切り女が現れたからだ。
一瞬前まで、確かに、僕のずっと後ろにいたはずだ。
本当に突然、全く忽然と、髪切り女は僕の前に一瞬で移動した。
恐らく速さの問題じゃない。テレビの電源を消すように消えて、そして点けたように現れたんだ。そうとしか言いようがない現象だった。
「残念ですが、逃げられませんわ」
『出遭ってしまったら終わりです』
並木さんの言葉がまたリピートする。それが本当なら、本当に逃げられない……?
僕は恐怖の余り無意識に後ずさり――足がもつれてその場に尻餅をつく。
先ほどまでとは逆に、今度は僕が髪切り女を見上げる構図になる。
上目遣いから、文字通り見下すような視線へと。悪意の篭った笑みを湛え、髪切り女が一歩前へ出る。
「やっ、やめろ来るな!」
僕は足を伸ばして蹴るように牽制、必死の抵抗を試みる。
「なんですの? このワタクシに足を向けるとは……無礼ですわね、気に入りませんわ」
眉根を寄せた髪切り女が僕に向かって手にした鋏を突きつける。
「髪を切る前に、まずはその足を『切って』差し上げますわ」
「っ!」
一瞬の出来事だった。
髪切り女の言葉と同時、手にした『鋏』が『大きな鉈』に『姿を変えた』。
まるで手品でも見ているかのようだった。
鋏が、液体が流れ広がるような動きで形を変えたんだ。
大鉈の分厚い刃が鈍く光を反す。
髪切り女がその大鉈で何をしようとしているかなんて、明白だった。
「それっ」
髪切り女が躊躇なく大鉈を振り下ろす。
その速度は女性のものではない、剣術の達人が振るうような速さと鋭さでもって僕の足に襲い掛かる!
「ぐぁっ!」
足に鋭い衝撃が奔り、鮮血がアスファルトに飛び散る。
咄嗟に足を動かして避けた為に完全な切断は免れたけれど、傷は決して浅くはなかった。
「いっ、痛い! 痛いぃ!」
それは……生まれてから初めて味わう激痛だった。
切られた右足を見ると白いズボンが大きく裂け、真っ赤に染まっていた。
ふくらはぎの部分がバックリと裂け、恐らくは骨にまで達している。
血もどんどん溢れてとまらず、あっという間に血の水溜りを広げていく。
「痛い、いやだ、痛い、死んじゃう、死んじゃうぅ! 死にたくないぃ!」
僕の顔から、全身から、血の気がものすごい速さで引き、足の傷口から流れ出している。
このままでは数分とたたずに出血多量で死んでしまう。
僕の頭の中では『死にたくない』という言葉が繰り返し反芻された。
僕は半狂乱になって叫ぶ。
「たすっ、助けて! 殺さないで!」
僕の血が滴る鉈を片手に、血のように真っ赤な夕日を背負った髪切り女が僕を見下ろす。
影の落ちたその顔は――愉悦によっておぞましく歪んでいた。
「何をおっしゃっているんですの? ワタクシに無礼を働いた足は、もう一本残っているじゃあありませんか?」
「ひぃっ!?」
髪切り女の凶行は止まらない。
大鉈が振り下ろされ、
僕の肉が裂け、
鮮血が飛び散り、
悲鳴が、
狂喜が、
乱舞する。
数刻後には、僕の両脚はずたずたに引き裂かれていた。
興奮した髪切り女がめちゃくちゃに大鉈を振るったので、足だけでなく腕や身体にも幾つかの切り傷がある。
そしてそのどれもが致命傷とも思えるほどの深い傷で――
今僕は、全身から大量の血を流し、まさに、虫の息、で……
「………………」
あまりにも血を流しすぎた。
もう痛みすら感じない。
呼吸がおぼつかない。
意識も霞んでいる。
(僕は……)
――しんじゃうの?
(こんなところで……)
――どうしてこんなことに。
(ごめんね……葉子。お姉ちゃん……もう帰れそうにない……)
――いやだ。
(……)
――しにたくない。
(…………)
――しにたくない。
(………………)
――しにたくない。
(……………………)
――だから。
――たすけてあげる。
もぞり。
僕の、腹の中で、何かが蠢いた。
「――ふぅ。少し熱が入りすぎてしまったようですわ」
「いけませんわね、人間を切る快感を知りすぎると戻ってこられなくなりそうですわ。やはり髪だけで我慢しておくべきですわね。自由にも節度は大切ですわ」
「まあどうせ蟲籠が揉み消して下さるのですから心配は無用ですが」
「今回の件も遺体は【死出蟲】辺りが始末して、失踪事件として処理されるのでしょう」
「本当に、蟲籠さまさまですわね、オホホホ……」
「ほら、噂をすれば早速……あら? 何か違いますわ? 死出蟲ではない? この傷口に沸いているのは……」
「【蛆】? 【蛆蟲】ですわ! どういうことですの? いくらなんでも早すぎませんこと? 遺体の腐敗もまだまだですし……」
「それに、次から次へうじゃうじゃと……流石に見ていて少し気分が悪いですわね」
「……この蛆蟲、さっきから何をしているんですの? 何か、粘液のようなものを出して……?」
「っ!」
「傷が塞がっていきますわ! 全身の傷が、次々と! これは……まさか、この娘、【蟲】が目覚めたんですの!?」
「まずいですわね、まさか蟲飼でしたなんて……」
「後で復讐されても困りますし、ここで完全に息の根を止めておいた方が良さそうですわね!」
「そこまでです」