2.霧生零夜の目覚め。そして行ってきまチュー (微百合)
カーテンの隙間から差し込む、まだ幾分柔らかい初夏の日差しを顔に浴び、僕、霧生零夜の意識はまどろみの淵から浮かび上がる。
外界から漏れ聞こえてくる雀たちの会話を遠くに聞き、涙で張り付いた瞼を懸命に持ち上げつつ頭を動かして枕元の目覚まし時計に目をやると、いつもの時間より三〇分も早い。
正直、まだまだベッドから出たくないので助かった。少し得したような気分になりながら再び枕に顔をうずめる。と、
――とたとたとたっ。
六畳一間のドアの外、フローリングの廊下を軽快に走る足音。父さんのものでも母さんのものでもないはずのその軽い足音に、内心違和感を覚える。
その違和感の正体を探る間もなく、僕の部屋のドアは勢いよく開け放たれた。
「おっはよー! 姉――お姉ちゃん起きてる?」
……誰?
まだ頭がボケているのだろうか、元気な挨拶と共に現れた女の子の姿はおぼろげで、はっきりと認識できない。目が霞んでいるのか、髪の毛が黒くて長いということくらいしか分からない。
僕が咄嗟に返事をできずにいると、女の子はずかずかと部屋に入ってきて、
「こぉのねぼすけめっ」
僕の包まっていた薄手の掛け布団を勢いよく引っぺがす。
「ちょ、ちょっと」
まだ寝ていたかったのに! 後一時間も惰眠を貪れたのに!
抗議をしようと薄開きだった目を見開いたその鼻先に、女の子の人差し指がびしぃっと突きつけられた。
「お姉ちゃん、まぁだ寝ぼけてるでしょ?」
じとっとした声で言いながら、女の子が指先をくるくる回す。まるで蜻蛉の目を回すように、くるくると一定のリズムで。徐々に徐々に円を狭めて、渦巻きを作るように。
一瞬呆気に取られ、その回る指先をぼーっと見つめる。すると突然、まどろんでいた意識が一気に覚醒を果たした。
……どうやら僕は本当に寝ぼけていたようだ。よりにもよって実の妹の存在を忘れてしまうなんて!
「お、おはよう。葉子」
ばつが悪くって、思わず苦笑いを浮かべてしまう。
葉子は呆れた様に頬を膨らませ、腕を組んで胸を反らす。
「まったくもう。お姉ちゃんてホント朝弱いよね」
「め、面目ないです」
思えばこのやり取りも過去何度か繰り返したような気がする。
苦笑いで後ろ頭をかきつつ、僕は目の前の妹を改めて見る。
幼いながらも愛らしく整った顔立ちに、腰まで届く長い髪は痛みを知らないキューティクルで黒々艶々、ノースリーブのワンピースから飛び出す四肢は白くてぷにぷにしていてマシュマロのよう。
うん。どこからどうみてもいつもの葉子だ。相変わらず可愛い。僕の心の天使だ。
「ほら、ぼーっとしてないで、さっさと起きて支度しないと。今日は少し早く学校にいくんでしょ?」
「あーっ! そうだった、忘れてた!」
今日は朝一から生徒会の会議があるのをすっかり忘れていた。いつも通りの目覚ましで起きていたら遅刻は免れなかっただろう。
「ありがとう葉子、助かったよ」
「お礼はいいから早く支度して降りてきてよね。もう朝ごはんできてるから!」
そう言うと葉子は来たときと同じく軽い駆け足で部屋を出て行く。
僕は軽く伸びをして、ベッドから出てパジャマを脱ぎ、お気に入りのぬいぐるみたちからの視線を集めながら着替えを始める。
僕が通っている高校の制服……上下白の学ランだ。
「本当はブレザーなのに、生徒会長だけは白の学ランなんだよね……」
なぜかは分からないけど、我が校の伝統なんだ。確かに前任の生徒会長も白い学ランを着こなしていた。……男だったけれど。
「おかしいのは、何で女子である僕まで学ランなのかってことだよ」
本当は僕だってみんなと同じ、ブレザーを着たい。指定のブレザーは有名デザイナがー考案したもので、とても素敵で可愛らしいんだ。僕なんか、その制服が着たくて勉強を頑張ったっていうのに。
一、二年の頃に着ていたその可愛いブレザーは、クローゼットの中で深い眠りについている。おそらくもう卒業まで出番はないだろう。事実上の永眠だ。
「そして何で僕が生徒会長をやっているのかって話だよ」
立候補をしたわけじゃない。推薦されたんだ。そして何故か圧倒的多数票で当選してしまった。そこに僕の意思は一切介在していない。あまりに理不尽だ。
愚痴ってもしょうがないのは分かっているけれど、毎朝こうして姿見の前に立つ度に溜息がこぼれてしまう。だってしょうがないじゃないか。僕だって女の子なんだもん!
もん! と両手を握って顎を隠すようにぶりっ子ポーズ。……だめだ、致命的に可愛くない。
僕は見た目が『男の子みたいだね』、とよく言われる。幼い頃からずっとだ。おかげで一時期、本当に自分を男の子だと思っていたことがあったくらいだ。完全に黒歴史だ。お陰で一人称が僕になってしまって未だに治らない。
身長は女子の平均よりも10センチ以上も高いし、声だって少し掠れて低めで可愛くない。ハスキーボイスでかっこいいとは言われるが、全然褒められている気はしない。
髪の毛だって短いし……これは僕がくせっ毛で伸ばすと大変なことになるから仕方なくなのだけど……そして極めつけは。
僕は自分の胸部をペタペタと触る。そこには本来あるべきである柔らかな感触はなく、まな板でも撫でているような手触りがあるだけ。
そう、僕は……胸が小さいんだ。
――バストが貧弱なんだ。
――おっぱいがちっぱいなんだ。
……もう、完全に役満だ。とにかく目に見える女の子らしさが皆無なんだよ、僕は。
それでも僕だって女の子らしくなりたい! と、一度だけお化粧をしたことがあったけど、友人から『宝塚?』との一言を頂戴して以降封印している。
最終手段であるお化粧まで封じられたとあっては、女の子らしくなるのはあまりにも絶望的だ。実はというと、半ばまで諦めてしまっている。
でもそんな僕にだって、いつかは白馬の王子様が迎えに来てくれるって信じている。
……信じるくらいはいいよね? だって僕だって、女の子なんだもん!
もん!(ぶりっ子ポーズ)
…………。
「……朝ごはん食べよ」
目尻に溜まった涙は欠伸のせいだと信じたい。
前日に用意を済ませた学生かばんを掴み、僕は暗澹たる気持ちで自室を後にした。
1階への階段を下りていると、ダイニングの方から葉子の叫び声が聞こえてきた。
「待たんかコラーッ!」
聞くに、何かを追いかけているようだ。
急いで階段を下りて葉子の元へ向かう。
「どうしたの葉子? 何かあったの?」
「あっ、お姉ちゃん。ううん、大丈夫だよ。ちょっとゴキブリが出たから退治してただけ、もう終わったよ」
「えっ」
恐る恐る視線を下ろすと、肩で息を切らせる葉子の前にスリッパで叩き潰されたゴキブリの姿が……ッ!
「いっ、いやああああ~~~~!!」
ゴキブリの潰れた姿を見た僕は恐怖と嫌悪感のあまりパニックを起こしてしまった。
僕はゴキブリが大の苦手だ。苦手な理由はおおむね皆と同じであると思う。
その色が、艶々が、不規則に揺れる触覚が、足のとげとげが、異常なすばしっこさが、そして……翅を激しく羽ばたかせて飛ぶ姿が!
危うく意識が彼方へ飛びかける。ふらりとよろめき、その場にへたり込んでしまう。
「お、お姉ちゃん……? 大丈夫?」
「だっ、大丈夫じゃないよぉ~~っ。お願い、早く片付けてぇ~~っ」
情けなくも泣き出しそうになる。ゴキブリが片付けられるまで顔を覆った手をどけるのが怖い。
「大丈夫だよお姉ちゃん。お姉ちゃんを困らせる悪いゴキブリは、わたしが全部やっつけちゃうからね」
葉子が慈愛に満ちた声でそう言って、僕の頭を優しく撫でる。
これじゃあ姉の威厳も何もあったものじゃない。しかしこうして頭を撫でられていると、不思議と安心感が湧いくる。
それからしばし、
「ほらお姉ちゃん。ゴキブリはもう片付けたよ」
恐る恐る指の隙間から覗くと、ゴキブリの姿はきれいさっぱり消えていた。
僕はほっと胸を撫で下ろす。
「もうゴキブリが出る時期なんだね。やだなぁ」
「そうだねお姉ちゃん。これからどんどん湧いてくると思うよ」
「えーっ、怖いこと言うのやめてよ」
「今もほら、どこかでこっちを監視しているかも」
「だからやめてってー!」
思わず耳を塞いでしまう。想像しただけで恐ろしい。
葉子は悪戯っぽく笑う。葉子はゴキブリが怖くないのだろうか? 同じ姉妹でも女の子らしさの度合いから肝っ玉の大きさまで違うとは。
「そんなことよりお姉ちゃん。早くご飯食べちゃってよ」
「う、うん……」
正直食欲は吹き飛んでしまっているのだけれど、用意してもらった手前食べないわけにはいかない。
フローリングの床から立ち上がり、すぐそばのテーブルチェアに腰を下ろし、僕は用意された朝食に手をつける。
メニューはトーストにマーガリンを塗ったものと、粉末をお湯で溶かすタイプのコーンポタージュだ。
トーストの枚数は1枚。僕はどちらかといえば小食なのでこれだけで十分だった。
以前は僕が自分で用意していたような気がするけれど、いつの間にか彼女の仕事になっていたようだ。
量が少ないのでささっと食事を済ませ、玄関へと向かう。
「それじゃあ、行ってくるよ」
「うん、行ってらっしゃい、お姉ちゃん」
見送りに来てくれた葉子に挨拶をして、玄関扉に手を掛ける――、と。
「待ってお姉ちゃん、忘れ物だよ」
そう言って葉子が唇を尖らせ、ん、と顔を前に突き出す。
「え、な、なに……?」
僕は思わずうろたえてしまう。
「なにって、行ってきますの『せっぷん』!」
「せ、せっぷんて……」
「キスのことだよ、キ・ス! 毎朝してるんだからいーじゃん」
「そ、そうだっけ?」
そう言われれば、そうだったような……。毎朝してるんなら、まあ、いいかな?
僕は唇を尖らせて目をつぶる葉子の前に立つ。
玄関には段差があるけれど、それでも僕の頭の方が高くなるので、若干上からになる。
葉子の顎に指を掛けて軽く持ち上げ、覆いかぶさるようにして唇を重ねる。
ちゅっ、と、一瞬触れるか触れないかの、小鳥が啄むようなキス。
顔を離すと、葉子がうっとりしたような、少し潤んだ目で僕を見つめる。その表情が破滅的に可愛くて、僕の心臓が思わず高鳴る。
「えへへ、ありがとうお姉ちゃん。行ってらっしゃい」
「う、うん。行ってきます」
何をやっているんだろうね、僕たち姉妹は? これじゃあまるで新婚さんみたいだ。女同士、血の繋がった者同士なのに……。
ま、まあでも、同性血縁だからこそ、このキスは単なるスキンシップの一環であり、とどのつまりはノーカンだよね? ノーカン!
それでも早鐘を打つ心臓はごまかしようがなく、顔が真っ赤になったであろう僕は葉子から逃げるようにして家を出たのだった。