5.心の寄る辺
翌日は月に一度の給料日だった。
毎月二十五日に棗が手渡ししてくれるので、今日もそうだろう。
嬉しいことはまだある。
今日は俺の妹―-梨花に会えるのだ。
一日外泊を許されている、今日がその日だ。
給料日と数日ぶりに会える梨花の笑顔を思い出しながら浮かれていた俺は朝から絶好調だった。
昨日の出来事を、暗く引きずらないでいられたのはそのおかげだ。
昨日行うはずだった、脳に電気信号を送り吸血鬼の行動を制限することは可能か、という実験を、異常なハイテンションで乗り切ると、
『サクラ、今日はもう一つある実験に協力してほしいのだが』
嫌な予感がする。
何故か痛み始めた側頭部をとんとんと叩きながら顔を歪める。
あたまいてえ。
「聞きたくないけど、一応聞いてやる。…なんだよ?」
『コレだ。コレを、今日一日中着けていてほしい』
「…………お前が着けろよ」
取り出されたモノに俺は半目になり、思わず低くうなった。
椅子に腰かけ成り行きを見守っていた蓮が、こっそりと口元に手をやって笑う。
おい!こそこそしても笑ってんのバレバレだからな!
得意げに梔子が両手で掲げたものは、俺の髪のように青い、猫耳がついたカチューシャだった。
「……」
正気か?
場を沈黙が支配する。
聞こえているのは蓮の笑い声だけだ。
……あいつ、もう隠さず笑ってやがる。
梔子の表情の見えない(いや、本当に全然見えない)フードの中の闇を睨む。
こいつがとんちんかんなことを言い出すのは初めてじゃないが、何故猫耳。
何故俺。
何故一日中!
梔子の正気を疑い、様子を探ろうとするが、伝わってくるのはうきうきとはしゃぐ梔子の無邪気そうな空気だけだった。
やがて梔子は猫耳カチューシャを左右にふりながら楽しそうに講釈を垂れ始めた。
『私では意味がない。これは改良に改良を重ねて完成した、吸血鬼の脳の信号から思考を読み取ることのできるカチューシャなのだ。今日はその動作確認といったところか。これを君に一日中装着してもらい経過を見たい。どうだ、凄いだろう。この端末に、装着した者の思考が文字となって表れる、というわけだな。さ、つけてみてくれ』
「ふざけんな!誰がそんな恥ずかしいもん着けるか!」
『……!は、恥ずかしい、だと?貴様、私のにゃんこカチューシャのどこを見て言っている!』
「その猫耳部分だよ!百歩譲ってカチューシャはいい、猫耳である必要性が分からねえよ!」
『私の趣味だ』
「言い切った!」
つべこべ言わず着けろ、嫌だ、着けろ、絶対嫌だ。
とうとう椅子から立ち上がり俺の胸元に猫耳カチューシャを押し付けてくる梔子に懸命に抵抗していると。
「いいじゃないですか、猫耳。かわいいと思いますよ、桜くん?」
笑いながら静観を貫いていた蓮が、進展しない話に決着をつけようと割り込んできた。
王子様スマイル、やんわりとした微笑。
『レンもこう言っている。つべこべ言わずにいい加減あきらめたらどうだ。君に拒否権はない』
「そこは拒否させろよ……」
「桜くん、貴方は拒否できる立場なんですか?」
「お前は黙ってろ」
猫耳カチューシャを見た瞬間ふきだしたお前にそんな真面目に諭されたくない。
男の俺にコレは、抵抗感しか抱けない代物だ。
つけたら間違いなく男としてのナニカが終わる。
俺には分かる。
食い下がる梔子を拒否し続けていると、次第に勢いのあった梔子は肩を落としだし、みるみるしょんぼりしていった。
『私の研究成果をつけるのが……そんなに嫌なのか?』
「うっ」
そうくるか。
弱った。
梔子は尊大な物言いから傲岸不遜に思われがちだが、実は違う。
自分の頭脳、研究、その結果全てに確固たる自信をもって取り組んでいるだけなのだ。
だから自身の生み出した成果の一つを拒絶されれば傷つく。
急に小柄な体をさらに小さくする梔子。
梔子を悲しませたことに、蓮が俺を咎めるように見つめる。
あーったく!分かってるっつうの!
さらば……俺のプライド。
俺は頭をかき、ため息を一つ吐くと梔子の両手から猫耳カチューシャを抜き取り、自身の頭に装着した。
一瞬、頭にびりっとした感覚が駆け抜けるが、すぐに痛みを感じなくなる。
『サクラ……』
「いや、その、お前の研究を嫌がったわけじゃなくて、単にこの猫耳が嫌だったわけで……。まあ、我慢すれば、なんてことはないし」
言い訳を述べていると、フードの中からちらりと見えた梔子の唇が嬉しそうにほころんだところを見てしまい、妙な気恥ずかしさに目をそらす。
普段隠されている素顔が、少し垣間見れたことで、まるで禁忌に触れたような焦りが生まれたのだ。
「似合ってますね、意外と」
『ああ、かわいいぞ、サクラ。やはり猫耳にして正解だったな。君は目つきが悪いから、それで少しは近寄りがたい雰囲気も軟化するだろう。これからはそれで生活すればいいんじゃないか?変に絡まれることもなく、過ごしやすくなるだろう』
「ご心配、ど~もありがとうございます~」
落ち込んでいたくせに途端、元の饒舌な梔子に戻ってしまう。
皮肉も交じっているのは気のせいじゃない、な。
いつも性別を考えることを忘れてしまうが、しおらしくなった梔子は、年下の女の子であったことを俺に思い出させた。
すかさず端末を確認しながら梔子は、これで今だ未知数の謎めいた吸血鬼の脳構造に近づくことができるだろうか、などとぶつくさ言っている。
「おや? 梔子ちゃん、そっちは何ですか?」
汚れたローブの境から覗いていた赤い物に蓮が興味を示す。
自分の思考に沈もうとしていた梔子は、ローブに手を突っ込み、赤い猫耳カチューシャを引っ張り出した。
『これは今サクラが着けているにゃんこカチューシャを作る片手間に制作した物だ。名づけてにゃんこカチューシャ0号。これは人間の脳信号からその思考を読み、喋って伝えてくれる代物だ。失敗作なので使えないがな』
「……ほう」
俺は、ふふんと胸をそらす梔子の手から素早くにゃんこカチューシャ0号を奪い、フード越しの奴の頭に装着してやった。
『……何をしている、サクラ』
にゃんこカチューシャ0号から、壊れたレコードじみた、不気味な機械音がした。
例えるならばそう、犯行声明やお化け屋敷の看板に使われそうな字面のイメージ。
梔子の本心を言葉にしたのだろう、が、なんだこの呪われそうな声は…。
「あーーー、いやぁ」
お前も味わってみろ!と、ほんの悪戯心、出来心で仕返しをしたのだが、なんというか。
椅子に座っている蓮とともに目をまんまるにする。
黒い染みや誇りに汚れたローブに、顔を隠すフードから生える耳。
新種のモンスターみたいだな。
何とも言えずに微妙な空気になる俺と蓮。
カチューシャを乱暴な手つきで頭から外すと、梔子はほんの少しずれたフードを目深にかぶりなおした。
ウオオン、と重低音が響き、研究室の扉が開いたのは梔子が端末から俺の本心を皮肉ろうとした時のことだった。
三者三様に入り口を振り返る。
「な、撫子さんっっ!!」
閉まっていく扉の内側に優雅に佇んでいるのは俺のオアシス、撫子さんではないか。
今日は襟ぐりにふんだんにフリルのあしらわれた純白のワンピースを着ている。
美脚を包むのは銀糸で蔓の刺繍がされている白いタイツ。
俺の声に梔子はうるさそうに顔を背け、撫子さんは、
「おはよう、サクくん。今日の実験はもう終わり?迎えに来たわ」
可憐に笑う撫子さんは俺を見て、あら、とこぼした。
慌てて両手で猫耳を隠すが時すでに遅し。
「かわいいお耳ね」
「頼む撫子さん!俺を見ないでくれ!」
恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。
知的好奇心やただの興味を宿した梔子や蓮に見られるのとは違い、無垢に俺を見つめてくる撫子さんに、まるで隠していた日記を母親に見られた時のような恥ずかしさを覚える。
顔が熱い。
「どうして?とっても素敵よ」
『そうだろう、ナデシコ!これは吸血鬼の思考を読み取る物で、今日一日サクラに装着させ、経過を見るつもりなのだ』
「ふふ、楽しそうね、梔子ちゃん。でも、今日はサクくん、梨花ちゃんのところへ帰る日なのよ」
『何?』
撫子さんに褒められて嬉しそうにしていた梔子がこちらに向く。
「ああ。ここ出る前に返しにくるわ」
『ぐ、ぬぬぬ。仕方ないな。君はリカに会うのをいつも楽しみにしているから』
「おう!俺の梨花はほんっとうに可愛くて、可愛くてな!神に遣わされた御使いのように無垢ないい子なんだよ!イノセンス!まさに天使!エンジェル!」
お兄ちゃん。
俺を呼ぶ愛らしい妹の声音、天使の微笑を思い出し、俺はでれっと鼻の下を伸ばした。
拳を作り力説し始めた俺に蓮と梔子はまたか、と冷ややかな目を向けてくる。
誰にどう見られても何を言われても、かまいやしない。
シスコン上等!
「俺は梨花ほどかわいい生き物を見たことがない!本当に天使の生まれ変わりなんじゃないだろうかと思うんだが、なあ!そこんとこ、どう思う!?」
「知りませんよ」
「ああ、そうだよな、梨花は前世が天使だったんだ!」
『ところで、ナデシコ、サクラを迎えに来たと言っていたが、すでにレンが来ていることは知らなかったのか?』
永遠としゃべり続ける俺を無視して、梔子と蓮が撫子さんを見た。
「もちろん知っていたわ。だけど、棗様にサクくんを連れて来てとお願いされたの。だからこれからサクくんには付き合ってもらわなければいけないのだけれど、蓮くんはどうする?一緒に来る?」
撫子さんが、純血の吸血鬼の証である赤い瞳を細める。
毎月二十五日の給料日、俺は直接社長室に赴き、棗から給料を渡される。
今日は蓮が付き添ってくれる予定だったのだが……まったく、いつものように棗は気まぐれだな。
おおかた俺がなかなか来ないので待ちきれなくなったんだろう。
撫子さんをパシリに使うなよな。
尋ねられた蓮は鞄にパソコンをしまいながら、ちらりと俺をうかがう。
「そうですね、久しぶりに僕も梨花ちゃんに会いたいですし、このままご一緒します。いいですか?」
「梨花は渡さんぞ!」
何度かファミリーに帰る俺に付き合って、蓮も一緒に来ることがあった。
ファミリーの皆には職場でできた友人だと伝えており、物腰丁寧な蓮を梨花も気に入っているようなのだ。
なので正直あまり近づけたくない。
ただのみっともない嫉妬だが、何か文句があるか。
なんでそうなるんですかと苦笑する蓮を威嚇する。
「サクくんは相変わらずね。……棗様が上で待っているわ、行きましょう。梔子ちゃん、それじゃあお邪魔したわね」
俺は蓮から視線を離すと、またな、と梔子に声をかけた。俺と蓮の口論に我関せずだった梔子は端末から顔を上げ、
『ナツメにも存分に猫耳を見せてくるといい』
と機械音を発した。
……せっかく忘れていたのに思い出させやがって。
扉の前に歩いていく撫子さんに近寄ると、髪から花のいい香りがしてきて、ほんわりする。
椅子から立ち上がり、蓮も後を追ってくる。
心身ともに癒されながら研究室を後にする。
――『……女の子、か』
無機質な機械音が中から響いたが、その音が閉まっていく扉の向こう側、桜に届くことはなかった――
エレベータに乗ると、撫子さんがビルの最上階のボタンを押した。
棗のいる社長室に行くためだ。
「悪いな。せっかく棗の傍に居たのに、迎えに来てもらっちまって」
「あら、いいのよ。お傍にいられることも嬉しいけれど、棗様のお願いを聞ける事もわたくしの特権、サクくんは変に気を遣わなくてもいいのよ」
申し訳なく思っていたことを謝ると、撫子さんは気にしないでと軽くウインクした。
撫子さんは棗が好きだ。
はたから見ている方には察しのつくその想いに、気づいていないのは棗だけ。
撫子さんも撫子さんで、棗と恋人になりたいとか、そういうことではないらしい。
前にも後ろにも進む気は無く、ただ、付かず離れずそのままだ。
見ているこちらとしてはやきもきはするけれど、仕方ないとも思う。
棗からは下心も欲望も恋慕の念すら感じない。
親愛しか。
あいつにとっては、撫子さんは大切な家族みたいなものなのだ。
溜め息を吐いたところで丁度エレベータの扉が開いた。
社長室は見えているが、エレベータから社長室までの廊下は長い。
少しうんざりしながら撫子さんの後ろについていく。
目前に迫る給料の受け渡しと梨花に会えることを考え、長い廊下を無言で歩く。
撫子さんは社員証を胸元から取り出し、扉の横の機器にバーコードを読み取らせた。
そして開いた扉の向こうに棗がいた。
「失礼します。棗様、サクくんをつれてきましたわ」
「ありがとう撫子。蓮も来たんだね、やっほー」
ふわふわの銀髪が風に揺れる。
机の背後にある窓が開いている。こちらに背を向け、窓枠に座っていた棗は肩越しに振り返り笑った。 片手に赤い――輸血パックを持っている。
蠱惑的な唇に付着した血液を舐めとるしぐさに、そういえばこいつ、前は輸血パックじゃなくて人間を食っていたな、と思い出す。
三年ほど前だ。
今のように社長室に来た俺は人の頭サイズの肉塊を手にした棗と鉢合わせた。
そのグロテスクな光景に俺はその場で吐いたのだが、何故だか棗本人も吐きそうに唇を歪めており、青白い顔をしていた。
まるで嫌々食べている姿に、辛いなら食うなよと俺は目をそらしながら叫び、それ以降棗が人を食べているところを見たことがない。
隠れて食べているのかもしれないが、あれは何だったんだろう。
人間が好きな棗が、人間を食らうなんて。
棗の笑顔に昨日のことを引きずっている様子がなくてホッとする。
けれど油断はできない。
棗は感情を隠すのがうまいから。
「待ちきれなくて、急がせたならごめんね、桜。……猫耳、どうしたの?」
窓枠から降り、好奇心を目に宿した棗が俺の頭のブツを指差し聞いてくる。
「ほっとけ」
うっとおしそう気に俺は顔をそらした。
静かに室内に入った撫子さんは、掃除の途中だったのかコンセントを差し、掃除を再開していた。
棗の部屋は家具が少なく、必要最低限のものしか置かれていないが、和・洋・中の家具を手当たり次第に買ったらしく、まるで中世の王族が使っていそうな豪奢なカーテン付きのベッドに来客用のシンプルな黒いソファー、畳の和室を思わすちゃぶ台とその上のアンティークなティーセット、と違和感が止まらない。
おまけに部屋はかなり広いはずなのに、散らかすのが大好きな部屋の主のせいで乱雑に感じる。
俺の態度に悪戯っぽく笑いながら、棗は飲みかけの輸血パックを酸化しないように蓋をして、ちゃぶ台においた。
「すっごくかわいいよ。まるで桜のために作られたみたいだね」
「梔子ちゃん作です。実験で、吸血鬼の思考を読み取る物だそうですよ」
「へー。梔子は本当にいろいろ思いつくなあ」
「蓮!説明しなくていい!」
にこやかな蓮に噛みつく俺を、微笑ましそうに見ながら近づいてきた棗は、俺に抱きついてきた。
「ぅおっ!?」
あまりの勢いに数歩よろめく。
棗は俺の胸元に顔をうずめ、頬をこすりつけて鼻をすんすんと鳴らした……犬か、お前は。
いつも通りの上機嫌な棗のスキンシップ(かなり過激だが)を拒むこともできずにされるがままにしておくと、一通り満足したのか、抱きついてきた時と同じく唐突に離れた。
「えへへ。桜はおいしそうな匂いがするから、本当はずっと抱きしめていたいけれど収拾つかなくなりそうだしね。用件の方を先に済ませちゃおう」
おいしそう、という言葉に昨日の《バラと書いて薔薇》を思い出す。
いきなりの吸血。
棗もたまに俺の血を飲みたいとねだるのだが、こいつの場合薔薇とは違い悪意なく飲みすぎるから困るのだ。
どっちもお断りだが。
体が危険を感じたのか強張り、嫌な汗が噴き出す。
いやいやいやいや、おお落ち着け、俺!!
用件を済ますって言っているじゃないか!
大丈夫だ、大丈夫だ!
不吉すぎる発言に動揺し、目の前の棗の話を聞きながしていたら、機嫌を損ねたのか拗ねたような声がした。
「桜―?無反応?」
見るとぷっくーと頬を膨らませて俺を睨んでいる。
何百、何千年も年上の相手が浮かべる、その子供っぽい表情に思わず吹いた。
ますます不機嫌そうな声を上げる棗の左頬をつねり横へ引っぱる。
「な、なにひゅう!」
「はは、わりいわりい。で、なんだよ。用件って?」
「……もー、しょうがないなあ」
あっさり俺を許した棗は机に向かう。
そういえばいつの日か、撫子さんが言っていたなと思い出す。
本気で怒った棗はまさに鬼神のようだと。
けれど目の前でかわいらしくすねる棗の様子は鬼神とは結び付かない
どうあっても想像できない。
机の引き出しを何やらごそごそやっている棗は、これじゃないこれでもないとあちらこちらにポイポイとゴミを散らかしていた。
いつも部屋の片づけを交替でやっている撫子さんと連のことをちょっとは考えてやれよな。
てか今まさに撫子さんが掃除してんだからさぁ。
はあ、と本日何回目かの溜め息を吐こうとし、
「あっ、た――!!」
突然の大声にごっくん。
げほげほと咳き込んでいると、フンフン鼻歌を歌いながら棗が駆け寄ってくる。
また抱き付いてくるのかと身構える俺の手前で足を止めたので、安心すると同時に、身構えていた自分が、少し恥ずかしくなった。
俺の内心を知らない棗は、満面笑顔だ。
「まずは、今月もご苦労様でーす。お給料だよ」
「おう、サンキュ」
差し出されたのはごく普通の茶封筒。
お礼とともに受け取りポケットにねじ込むと、まだ棗が物言いたそうにしているので、
「まだなんかあんのか?」
「うん!じゃじゃーん、サプライズー♪」
嬉しそうに顔を輝かせて棗が差し出したものは手の平サイズの社員証だった。
俺が呆然とする様子を覗き込んで楽しそうに観察している棗。
「驚いた?」
「あ…当たり前だろ、だって、これっ」
震える手で棗からカードを受け取る。
K機関施設の全ての部屋の出入りを可能にする社員証。
棗とその幹部である撫子さん、薔薇、連と梔子と支部に勤める研究員以外が持つことを許されない、ここでの万能の鍵。
ただの実験体である俺が、【結晶病】の薬が保管されている特別な部屋にも侵入できるようになるんだぞ?
世界にはその薬を欲している者がごまんといる。
俺が金欲しさにそういうやつらに薬を盗み出して売りさばくとか、考えないのかこいつは!?
目の前でにこにこと笑っている棗を信じられない思いで見やる。
「実を言うと、桜にそれを渡すのは反対されていたけれど、ボク個人としては、桜のことを信用してるし、桜の頭じゃ悪事を考えるには向かないって分かっているし。…ま、よーは、これからもよろしくねって言いたいんだよ」
お前は、ほんとに…。
周りから否定されたって、自分の直感を、好意を貫くやつだよな。
気づいてしまったら、自然と苦笑が浮かんだ。
すごく失礼な言葉が混ざっていたような気がするけれど、忘れることにしよう。
無邪気に笑う棗に毒気を抜かれたということもあるが、何より自分がそこまで信用されているんだということが嬉しかったから。
変な上司の、突拍子もない行動に振り回されのも、たまにはいいか、なんて思ったりした。
あれから撫子さんが入れてくれたお茶を飲みながら四人でしばらく談笑していると、思いのほか話に花が咲いてしまい、梔子の所に寄ってアレ(・・)を返却、俺のプライドを取り戻してから支部の玄関を出る頃にはだいぶ日が落ちかけていた。
今日は早く帰る予定だったが思いがけず遅くなってしまったようだ。
だけど、とポケットに入れた棗のサプライズを思い出し、にやける。多少は遅くなってもいいかとゆっくり歩きだす。
今日と明日一日休みをもらっている。
数週間ぶりの妹との再会にスキップしそうな勢いで早く歩く。
肩を並べてくる蓮にかまわず、鼻歌を歌っているとふと視界の端に人影をとらえた。
人?
いや、ここは危険区域だ、まさかな。
気になって見てみると、一瞬薄緑色が翻り、道の向こうに消えた。
消え方があまりに綺麗だったのと、隣の蓮が反応しないので見間違いかと、気にしないことにして先を急いだ。
✞
孤児院はK機関支部のある街の隅の小さな地域に建っている。
十年前から続いている復興は功を奏で、世界全体が戦争前の姿を取り戻しつつあった。
だから俺たちがお世話になっている孤児院、ファミリーの周りにはそれなりの建造物が建ち、人通りも多い。
その中でも、教会に似たファミリーの外装は人目を惹き、この辺りでは結構有名だ。
初めは院の中で貧しいながらも生活をしていた俺たちだが、最近は進んできた復興に伴い、院の子供たちは学校に通うこともできていた。
ファミリーでは院長先生をはじめ、三人のシスターと、十数人の子供たちが暮らしている。
サンタクロースに似た院長先生と、時々ドジを踏む働き者のシスターたち、生意気だが可愛い、俺の大切な家族。
院名通り入院した時から家族同然に暮らしてきた。
「ただいまー」
両開きの扉を開けるといきなり何かに抱き付かれた。
突然のことに一体何が起こったのか分からなかったが、後から後から何かが抱き付いてき、重みで床に尻餅をついた時に生意気なガキたちに抱き付かれているのだと理解した。
蓮はというと、毎度のことなので予想済みとばかりにちゃっかり脇に逃れていた。
「「おかえり、サクラ!」」
俺は自分に抱きついている者を引きはがそうと睨みつける。
と、ガキたちはにいーっとドヤ顔をして、声をそろえた。
腹の上には一番デブのライラック、その上に山を作っている三姉妹のガーベラ、ノバラ、リラ。
他にも足や脇をくぐってオレを楽しそうにおもちゃにしているガキたちに流石に離れろとも言えず、ったく、と両手であっりたけの小さな体を抱きしめた。
「おう、ただいま」
その言葉に満足げにへにゃへにゃと頬を緩めるガキたちを見つめていると、いつの間にか奥から院長先生やシスターたちも出てきていた。
「こらこら、桜はお仕事で疲れているんだから、そろそろ離れてあげなさい」
「はーい」
ガキたちは院長先生の言葉に素直に離れていく。
子供の体温は温かいもので、たった数日帰らなかっただけで懐かしさに名残惜しさを感じた。
「助かったぜ、、院長先生」
身を起しながらお礼を言うと、彼らからも温かいおかえりが返ってくる。
玄関にいつまでも座り込んでいては汚いと立ち上がり、靴を脱ごうとしたら、
「お、おかえり、お兄ちゃん!」
麗しい天使の声が耳をうった。
はっとして目を向けると、天使の声に寸分たがわず、天使な妹が立っていた。
空色のワンピース、胸元までの青い三つ編み、俺と同じ群青の瞳は嬉しさに潤んでいる。
「リ、梨花!ただいま」
今にも泣きだしそうな妹に慌てて駆け寄り、細い体をそっと抱きしめると、梨花もぎゅうっと抱き返してきた。
こうして仕事から帰ってくると、毎度飽きずに抱きしめ会う俺たちを周りで見つめるみんなは邪魔しないよう静かに見守っていてくれる。
「うわぁ、あいかわらずシスコン」
「リカ、何で妹に抱き付いてあんなキモイ顔するにーちゃんを愛せるわけ?」
「ブラコンだからでしょう……」
囁かれる言葉は綺麗に俺の耳をすり抜けていき、夕飯の鍋が噴きだす音で我に返るまで、俺と梨花はずっと抱きしめあっていた。
✞
一番下には五歳児から、一番上は十六歳の俺、と幅広い年齢層のファミリーの食卓はいつも賑やかだ。
加えて今日の夕食はカレーライスだったので、いつにもまして賑やかだった。
蓮の野郎はちゃっかり夕飯までごちそうになってからも、しばらく梨花やガキたちと戯れていたが、夜の七時前に支部へ戻っていった。
幸福なお腹のふくらみに心地いい眠気まで襲ってきて、ガキたちの遊び相手になっていた俺は消灯時間を言い訳にガキたちを寝かしつけると、やっと自分の部屋に戻ることにする。
梨花と一緒に部屋に帰っていると、廊下の途中で院長先生とシスターたちにあった。
「あ、こんばんわ院長先生、シスター」
「こんばんわ、梨花ちゃん、桜くん」
「こんばんわ。今から寝る所かい?」
院長先生の行こうとしていた方向はガキたちの部屋だ。
九時の消灯時間に間に合うようにと寝かしつけに行こうとしていたのだろう。
院長先生の問いに梨花が頷くのを横目に、
「ガキたちはさっき寝かしつけたから、大丈夫だぞ」
と言うと、そうかそうかと嬉しそうに笑う。目元にしわが寄り、いっそう優しそうに見える院長先生におやすみなさいと声をかけ、部屋に戻ろうとしたれら、桜、と呼び止められた。
「桜、二人っきりで話があるからちょっといいかな」
何の話かは正直二つ三つあってどれかは絞れない。
ただ、院長先生の顔から、深刻な話なのだろうと悟った俺はきょとんとしている梨花に先に部屋に帰っててくれと言うと、
「分かった」
返事をして院長先生に連れられて院長室に向かう。
なるべく早く帰ってきてと目で訴えかける梨花に頷きを返すと、シスターたちとともに部屋に帰っていく梨花。
久しぶりに俺と寝られるとはしゃいでいた梨花のためにも早く帰ろうと思いながら院長室に入ると、病院の診察室みたいな内装で、どこも変わっていない事に安堵した。
小さな椅子に腰かける院長先生の向かい側にある椅子に俺も腰かけるとそれを待っていたように院長先生が口を開いた。
「すまないね、こんな夜遅くに」
「まだ九時も来てねーのに、平気だよ」
義務のようにそう前置きしてから、深刻な顔で本題に入った。
「梨花が君の職業について知りたがっている」
「!?」
予想もしていなかった話に反応が遅れる。
俺の職業は実験体。
今日のように実験という名の人殺しの仕事をしている。
その事を知っているのはファミリーでは院長先生だけだ。
心優しく繊細な梨花には知られたくないと俺が院長先生に頼んで内緒にしてもらっていた。
いや、違うな。
梨花に知られたくないのは、人殺しの俺を知られて嫌われるのが怖いからだ。
梨花がまだ八歳の時、仕事に就くことを決めた俺をいつも寂しそうに見上げていた。
ある日、
「お兄ちゃん、どんなお仕事してるの?私もお兄ちゃんと一緒に働く!」
と涙目で言われた時、とても困ったものだ。
梨花には一度決めたらとことん頑固なところがあり、いつもなら俺が折れるのだが、今回ばかりは折れるわけのはいかなくて、
「うーん、世界に貢献する仕事、かな。お兄ちゃん、すっげー遠いところで働いてるんだ。それに、梨花には梨花が好きなところで働いてほしいんだよ。だから、一緒の働くのも駄目だ」
いつになく真剣に諭すと、俺が困っていると分かったのか、「……分かった。無理言ってごめんなさい」と肩を落として落ち込んでしまった。
しかし翌日になると元の元気な梨花に戻っていて、それ以来その話を持ち出してくることはなかったからとっくに納得してくれているんだと思っていたのに。
「梨花、なんて言ってた?」
「君が危ない仕事をしているんじゃないかと心配していたよ。それに、私が君の仕事を知っていると確信しているみたいでね、何の仕事についているのかと何度も訊かれた。不安なんだろう、たった一人の肉親が遠い所に行ってしまうようで」
梨花、そんなそぶりは全然なかったのにな。
「でも、これは俺が決めたことだ。給料だって、この不景気ではすっげーいいし」
「私もね、いつか君が遠い所に行ってしまうのではないかと、思うことがあるよ」
俺の言葉を遮ると、院長先生は「梨花の気持ちも少しは酌んでおやりなさい。話はそれだけだ」と言って、立ち上がった。
おやすみなさいと言葉を交わして院長室を出ると、部屋に戻りながら梨花になんて声をかければいいのか悩んだ。
院長先生の言うことはもっともだ。
可愛い梨花の気持ちを俺はもう少し考えてあげなくてはならなかったのだ。
しっかりしているとはいってもまだ梨花は十四歳。
一人でため込むには限界がある。
自分の仕事の危険性は十分に分かっている。いつ死んだっておかしくない。
院長先生の、
「たった一人の肉親」
という言葉が胸に刺さる。
父さんは十年前に死んだ。
母さんも『吸血鬼狩り』に巻き込まれて消息不明。
死体がない限り俺は母さんの生存を信じていたいけれど、院長先生はもう信じていないのか。
当たり前だ。
十年も消息を絶つのは死んでいるからに他ならない。
母さんだけじゃない、ここにいる奴らも、ほとんどが家族と生き別れている。
諦めるしかないのかな、母さん。
ぐるぐると思考していたせいか、あやうく部屋の前を通り過ぎる所だった。
急停止してさっきまで考えていたことをよそへ追いやる。
明るい顔で、梨花をこれ以上不安にさせないためにも。
コンコンと二回ノックをしてから入るぞーと声をかけ、いーよーの返事を聞いてから扉を開ける。
年頃の女の子だからな、エチケットというものだ。
「おかえり、お兄ちゃん。早かったね、院長先生と何の話してたの?」
二段ベッドの下で可愛いぬいぐるみたちに囲まれて微笑む梨花に努めて明るい表情を見せる。
空色のパジャマに三つ編みをほどいた青の髪が後ろの窓から差し込む月光で透き通ったスカイブルーに輝いていてた。
「明日仕事休みだって言ったら労働頼まれちまってよ。あ、でも、梨花と明日はずっと一緒にいられるぞ」
にっと笑うと、途端にぱあっと笑顔になる梨花。
ここ最近は帰ってきても長い休みはもらえなかったので、丸一日の休日は嬉しい。
俺にとっても、梨花にとっても。
「ほんと!?わあっ、うれしいっ!お兄ちゃん、約束だからね、絶対だよ!」
ベッドの上で上下にはねる梨花に微笑みかける。
まさかこんなに喜んでもらえるとは思わなかった。
寂しがらせちまってたよな……。
反省とともに、自分を必要としてくれている梨花がたまらなく愛しく思えた。
院長先生の話を今梨花に話そうとしても、うまく説明できる気がしない。
いたずらに話して逆に梨花を不安がらせたくないのだ、今以上に。
だったら、きちんと考えて、梨花にも自分にも納得できるような筋道をたててから話した方がいいに決まっている。
「お兄ちゃん、今日、一緒に寝たいな」
上の段のベッドに移動しようとした俺に梨花が言ってくる。
すでに梯子を上りかけていた俺は途中で止まって、下をのぞき込んだ。
気弱気な視線とぶつかる。
「駄目なら少しの間、手を握ってくれるのでも、いいから。お願い、お兄ちゃん」
どこかに行ってしまいそうで、不安。
俺はどこにも行かねえよ、と笑い飛ばしたかったが、実際に梨花の顔を見るとそうすることができない。
切実に、訴えかけている群青の瞳がこの世の全ての悲しみが溶け込んだかのように光っていた。
しかし、昔ならいざ知らず、さすがに十四歳の女の子と十六歳の男が同じベッドで寝るのはまずい。
俺は気にしないが梨花は気にするだろう。
本当は一緒に寝たい、じゃなくて手を握ってほしい、のはずだが恥ずかしくて言いにくかったんだろうな。
苦笑して梯子を下りると、ほら、と手を差し出した。
「手、握っててやるから、安心して寝ろ」
その時梨花の顔に浮かんだのはかすかな落胆だった。
もちろん、嬉しさの方が勝っていたが。
あれ、と思った時にはもう梨花は笑顔で、
「ありがとうお兄ちゃん!」
といって、ベッドに横になっていた。
気にすることはないかと思い直し、梨花の小さい手の平を握ると、きゅっと弱く握り返される。
ああーっ、幸せな感触だな、妹バンザイ!!
悶絶していると、梨花がこちらをじーっと見つめていた。
おっと。
だらしなく緩めていた顔をキリッと引き締めて、
「何だよ」
と聞くと、疑わしそうなジト目になる。
「ちゃんと、ここにいてね」
な、なんだこの可愛い生き物は!
身もだえる思いを殺しながら俺は微笑んだ。
「ああ、ちゃんとここにいる。どこにも行かねえ。安心しろ、梨花」
その言葉にやっと安堵したのかコクリと頷くと目を閉じた。
梨花のベッドには毎年俺が梨花の誕生日にプレゼントしたぬいぐるみや小物、アクセサリーなどが大事に置かれている。アクセサリーや小物は撫子さんの意見を参考にした。
前に机にしまった方がベッドの上広くなるんじゃねえのと訊くと、お兄ちゃんがくれたものに囲まれて寝たら、夢の中でもお兄ちゃんに会えるから、と頬を染めて言っていた。
天使のような微笑みに天にも昇る思いだったことを今でも覚えている。
しばらくすると寝息が聞こえてきた。
可愛い妹の頭を優しく撫でながら、俺も睡魔に襲われて目を閉じた。