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桜は微笑む。  作者: 青柳 兎蝶
第一部 『胎動』
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4.棗

 

 昨日、夜遅くまで蓮の部屋でゲームを堪能し、日付が変わるほんの前に眠りについた俺はけたたましいベルの音で目を覚ました。


『警告!警告!本施設十階にて捕獲されていた自我のない吸血鬼が逃走!すでに十階では職員の死亡が複数確認されている!他の職員、実験体は十分に警戒せよ!』


「……おいおい」


 うんざりと呟く。

 人間にとってはこの程度のベル音は煩い、としか感じないだろう。

 けれど俺は違う。

 鋭敏すぎる吸血鬼の聴覚には頭が割れそうなほどの大音量に感じる。

 うるっせえ。

 K機関支部では数多の実験体が暮らしている。

 彼らが脱走することは珍しくないし、被害も予測はできる。

 しかし自我のない吸血鬼となると、行動が予測できないし、被害も大きくなることが多い。

 その為彼らが脱走した場合、まず間違いなく本部の方に連絡がいき、棗たち純血の吸血鬼が怒られるはめになるわけだ。

 棗や撫子さんの笑顔を思い出すと、ちゃんと監視していなかった奴に怒りが沸くけれど、どうせ当人は今逃亡している吸血鬼にすでに殺されているだろう。

 ん、薔薇?

 知らね、あんな奴。

 普通の実験体が脱走した時ももちろん、支部の監視も任されている蓮と梔子には本部への報告義務があるが、二人は目をつぶっている。

 最初は二人も真面目に勤務していたそうだが(梔子は初めから一緒だったが、蓮の最初の様子を俺は知らない)、棗のあっけらかんとした接し方にそれぞれ感じるものがあったらしい。

 今では「棗たち純血を極力傷つけたくない」という想いから多少の些事はもみ消している。

 他の研究者たちも戦争をしてきた自分たち人間にも態度の変わらない棗に感化され、上下関係なくフレンドリーに接している。K機関支部内の職員たちは割と仲良しなのだ。

 中にはやっぱり棗たち純血を蔑んだり、吸血鬼を馬鹿にしたりする人間もいるが。

 実験体が脱走した時は合成種達がその処理にあたることになっていた。合成種とは梔子がつくった、人間と機械の融合で生まれた実験の産物だ。

 白く輝く槍を駆使して彼らは命令に忠実に任務を遂行する。

 合成種は人間ではない。体半分に血液は流れているが、脳は機械でできており、梔子がつくっただけあって戦闘能力も高く、高性能だ。

 あいつらに任せれば、まあ大丈夫だろう。

 実際これまでもそうだったのだから。

 固いベッドから身を起こし、起き抜けの体を伸ばしてほぐす。

 ベッドの頭側においてある今日の着替えに身を包んでいると、ゴゴゴ、と重苦しい音がして扉が開いた。

 トランクス一丁でズボンに足を通そうとしていた俺は、んあ?と半目で目を向け、悲鳴を上げた。


「おはよう、サクくん。……あら?」


「きゃーー!」


 生娘のような声を上げてしまい、咄嗟にしゃがみこみ彼女の目から体を隠す。

 部屋に入ってきたのは純血の吸血鬼の一人、撫子さんだった。

 お花の匂いでも香ってきそうな微笑。

 スカートからのびる細く綺麗な曲線を描く足を包み込む黒タイツ。

 全身から滲みだす色香と、腰にさしている一本の日本刀が意外にも絶妙にマッチしている。

 桃色の豪華な巻き毛をたらし、ふわふわの髪を頭の後ろで盛るように結んでいる彼女は普段と全く表情を変えず、


「お着替え中だったのね、ごめんなさい」


 仕方のない弟に言うようにころころと笑い、くるりと後ろを向いた。

 見ないから着替えなさい、ということのようだ。

 俺は異性に、それもこんな可憐な女性に自分の裸を(上半身だが)、下着姿を見られたことにショックを受け、冷たい床にしばし呆然と座り込んだ。

 年頃なんだ!

 見られた、見られた!

 俺のパンツ!

 ふ、ふん、別に俺は男だ、これくらいどうってこと……!

 いや!やっぱりはずかしいーっ!

 羞恥に悶絶していると、後ろを向きながら撫子さんが話しかけてきた。


「今の、聞いたかしら?」


「え、……ああ。『自我なし』が脱走したんだろ?」


 相変わらず、耳に心地いい声。

 その声に意識を引き戻され、慌てて床に落ちたズボンを取り、着替えを再開させた。

 自我のない吸血鬼は名称が長いので『自我なし』、と略されることがほとんどだ。


「ええ。そのことで来たの。実は合成種達が最初は追いかけていたのだけれど、追跡にあたっていた全機が大破されてしまって」


「はあ?」


「合成種では対処できない相手みたいなの。どう?サクくん、『自我なし』と、日の元で対峙してみる?」


「……」


 ズボンのベルトを締め、体に密着するタイプのタンクトップに首をくぐらせる。

 撫子さんの言葉の意味を図りあぐねて沈黙する。


「外に出てしまったのよ。合成種が最後にこちらに送った映像が市街地との境界線で……。このままだと大量虐殺が起こるわ。棗様も市街地に出ている。出てくれるなら、まずサクくんは棗様と合流して。そうすれば棗様がサクくんを守ってくれるわ。危険はないはずよ」


「なんで俺なんだ?合成種が対処できないなら、撫子さんたちでも、棗がいるなら尚更、あんた達で十分なんじゃねえの?」


「梔子ちゃんがね、日中で、半鬼である貴方がどれほどの力を出せるのか知りたいって。ちょうどいい機会だから、ちょっとしたデモンストレーションだと思って引き受けてくれ、って言っていたわよ?ふふ、かわいいわね」


「どこがだよっ……」


 同じ吸血鬼の血が流れるとはいえ、撫子さんとは生きてきた年月が違いすぎる。

 感じ方もとらえ方も、俺には到底理解できない。

 あのマッドサイエンティスト!

 次会ったら覚えとけよ!

 心の中で毒づいていると、もう大丈夫?と撫子さんが聞いてきたので、どうぞと返す。

 振り返った撫子さんの手には、ダークレッドのシンプルな造りの腕時計が握られていた。

 普段実験中に使っている腕時計と造形は似ているが、色が違う。


「これは普段使っている機器と性能は同じよ。そこに通信手段と発信機、カメラや地図が搭載されている物になるわ」


 ……拒否権は、ないみたいだな。


「わかったよ、行ってくる」


「ありがとう、サクくん。今日の実験は明日に繰り上げにしましょう。わたくしはこれから仕事に取り掛かるから一緒に行けないけれど、棗様は今市街地の『ミシェル・キャロ』という店にいるわ。その腕時計を見れば場所はわかると思うから」


「おう、そっこーで片づけてきてやるよ」


 撫子さんの手から腕時計を受け取ると手首にはめながらそう返す。

 撫子さんは心配そうな、曇りのある微笑を浮かべた。

 俺が出会ってきた人たちの中で一番大人で、上品で。このK機関支部内で好意を抱ける人の一人。

 それが撫子さん。

 こうして俺を心配してくれたり、優しい言葉をかけてくれたり。

 気品あふれる雰囲気や、むさい男連中ばかりの職場で、撫子さんは砂漠に咲く一輪の華だ。

 俺は撫子さんの不安を取り除こうと、にかっと笑った。

 つられるように撫子さんの顔も華やぐ。

 まさにその笑顔は、癒し。

 吸血鬼は太陽の下では生きにくい。

 純血は太陽下では多少力が弱まるだけだが、混血は力は半減するし肉体には常に倦怠感と焼かれるような痛みにみまわれるそうだ。

 自我のない吸血鬼は肉体に走る痛みは混血の比ではなく、太陽下に長時間居続けると、ものの数時間で燃えて灰になる。

 今回は市街地に逃げ込んでいるので『自我なし』が灰になるまで待つことはできない。

 半鬼である俺は、太陽下に出ても特に異常が出たことがなかった。

 夜の方が視界クリアで見やすいというだけで、昼夜関係なく肉体的にも能力的にも普段通り。

 梔子はそれが何故なのかずっと疑問だと洩らしていた。

 今回はついに舞い込んだ千載一遇のチャンス、というわけか。

 ったく、付き合わされる身にもなれってんだ。

 軽く撫子さんから新しい腕時計の使い方を教えてもらい、共に部屋を出る。

 エレベーターに乗り込み、撫子さんが一階のボタンを押した。

 玄関まで送ってくれるらしい。


「そういえば棗、市街地に何の用なんだ?」


 純血は一般人に顔が割れているし、常に赤い彼らの目は純血の吸血鬼の証。

吸血鬼ヴァンブラット』を狙う者に襲われやすい。

 最もそれを防ぐために撫子さんたちは自身の気配を薄め、他人に認識されないようにしているが。もし襲われようとも純血たる彼らが窮地に陥ることもありえないが。

 下降していくエレベータの壁に凭れかかった俺に、撫子さんは肩をすくめた。


「本部の人間とお食事、といったところかしらね」


「お食事って、んな呑気な」


 て、仕事か。本部の人間と飯なんか食べたくもないだろう。

 K機関本部。

【結晶病】の治療法を解明した研究者鈴蘭が設立したK機関の本丸だ。

 今では天皇となった鈴蘭は本部で、日本を統括しながら【結晶病】についての研究を進めている。

 棗たち純血と停戦協定を結んだ張本人。

 本部の人間は定期的に支部を訪れ実験の経過を見にくる。

 俺も何回か、撫子さんや棗、蓮が本部の人間と話しているところを遠目に目にしたことはあるのだが。

 あいつらは嫌味で、明らかに純血である棗たちを下に見た態度だった。

 人間社会で働くことになじみのない棗たちがK機関支部の経営を任されて、どれだけ苦労しているのかも知らないで。

 その苦労の中で、俺や他の実験体にも優しく、政府の奴隷として己の尊厳を傷つけられながらも必死に生きているというのに。

 俺の好きな人達を傷つける本部の人間が、俺は嫌いだ。

 胸に不快感が広がる。

 無意識に眉間に皺が寄るのを感じていると、一瞬の浮遊感の後、エレベータの扉が開いた。

 受付には見張りを兼ねた受付嬢が二人立っている。

 玄関には破壊された跡がない。脱走した『自我なし』はどこかの壁をぶち破って外へ出たのか。

 玄関の様相を確かめた俺はちょうど外から入ってきた男を見て、


「ゲッ!」


 思いっきり顔をしかめた。


「ん?なんだ、撫子に桜じゃねーかァ」


 男―純血の吸血鬼の一人、薔薇はポケットに両手を入れたまま、快楽的な嗤みを浮かべた。

 藍色の中華服に身を包んだ薔薇は紫紺の長髪を首元で一つに結んでいる。

 長く細いその髪は馬の尻尾みたいだ。

 長い前髪の下の両目は包帯で覆われている。

 こいつがこちらを認識できたのはひとえに吸血鬼の嗅覚によるものだろう。

 俺と撫子さんの血の匂いを嗅いだのだ。

 純血一の変わり者、薔薇。


 俺は、こいつが苦手だ。


 カハッ!

 愉悦の混じった嗤い声を発する。


「気が利くな、桜。ちょうど喉が渇いてたんだァ」


「ッ!」


 瞬間、薔薇の全身からほとばしる殺気に足が一歩、後退する。

 逃げなくては。

 しかし俺が身を翻す前に薔薇の伸ばした腕が俺の首をわし掴んだ。

 首元の血管に薔薇の白牙がためらいなく埋まる。

 乱暴な吸血に首に激痛が広がる。

 体の内側に響く、己の血が嚥下される音。


「こ、んのおおあああ!」


 背の高い薔薇に持ち上げられているので足がつかない。

 両足をばたばた動かし、薔薇の胸板を全力で叩く。

 半分とはいえ吸血鬼の全力だ。

 だというのに、薔薇はまるで堪えた様子を見せない。

 美味そうに吸血を続けている。

 だから、だからこいつは嫌なんだ!

 他の純血とは明らかに毛色が違う。

 利己的で快楽主義のある薔薇は俺を見かけるたびにこうして血を吸ってくるのだ。

 乱暴な吸血、いつも吸われすぎるせいで、いつしか俺はこいつの顔を見るだけで拒否反応が出るようになった。

 つまり、逃げ出すようになったのだ。

 けれどこいつは俺のそんな反応も楽しむ。

 こっの、変態が!

 血を吸われすぎたのか、頭の芯がかすんでくる。


「おやめなさい、薔薇」


 その時、険を含んだ可憐な声が耳朶を打った。

 撫子さんの静止にしかし、薔薇は無反応だ。

 かまわず吸血する薔薇の、俺の首を掴んでいた左腕が上にはじかれ、首から離れた。

 撫子さんが日本刀を抜き放ったのだ。峰打ちで薔薇の左肘を垂直に跳ね上げた。

 解放された俺は、牙が抜かれ血が溢れる噛み痕を片手で抑え、薔薇を睨みつけた。


「いってえだろうが!いつもいつもいつも、てめえはいただきますもできねえバカか!」


「゛あ?黙れ食料」


「なんだと!?」


 血が足りずに頭が回らず、少しふらつくが撫子さんが助けてくれたことは理解できた。

 このやり取りもいつものこと。

 薔薇のあまりの利く耳の持たなさに呆れる。

 薔薇は食事の邪魔をした相手、撫子さんに顔を向ける。


「何しやがる、撫子ォ?」


 口元を真っ赤に染めて嗤う薔薇を厳しい目つきで見据えると、撫子さんは刀を鞘に戻した。


「おやめなさい、といったはずよ。とても失礼で乱暴だし、吸いすぎだわ」


「あ~?吸血鬼が血を吸って何が悪い」


「薔薇、貴方は節度と限度を覚えなさい」


「ハッ、節度!限度ねェ……俺様には必要ないな」


 撫子さんも、薔薇のあまりの態度に呆れ、ため息をついた。


「サクくんに謝って。あんな吸われかた、とても痛かったはずよ」


「なんで俺様が……」


「謝りなさい」


 有無を言わさぬ撫子さんの強い口調。

 こうなってしまったら彼女の意思を覆すことは誰にもできない。

 例外は棗だけだ。

 そのことを知る薔薇は多少の罪悪感や反省からではなく、ただ反対し続けることの面倒くささから、短く舌打ちをして、こちらに顔を向けずに、


「おい、桜、悪かったな。また飲ませろよォ」


「反省しろよ!」


 再発必至じゃねえか。

 ほら謝ったぞ、と薔薇は言うと、エレベータに乗り込むのか、こちらに近づいてきた。

 その背中に撫子さんが呼びかける。


「貴方、外へ何しに行っていたの?」


「脱走者を殺しに行ってたんだよ。途中で梔子から連絡があったから引き返してきたけどな。たく、めんどくせえ。ひっさしぶりに暴れようと思ったのによォ」


 カハハ、とまるで残念そうに思えない口ぶりで薔薇は扉の開いたエレベータの内側に消えていった。

 嵐が去ったような疲労感が両肩にどっとのしかかってくる。


「まったく……」


 薔薇の扱いに苦労しているのか、撫子さんは困ったように溜息を吐いた。

 真面目な撫子さんと傍若無人な薔薇とでは性格的に合わないのか、二人はことあるごとに衝突する。圧倒的に薔薇が悪いのだが。


「大丈夫?これから、戦えそう?」


 ふわりと花の甘い香りがする。

 撫子さんは俺に近づき、首元に触れる。

 すでに傷口は塞がっていた。


「これくらい平気だ。すっげー痛かったけど。……撫子さん、ありがとう」


 俺の言葉に撫子さんは安心した笑みを浮かべた。

 労わるかの如く俺の首を数回撫でると、可憐に笑った。


「それじゃあ、わたくしはここで。……気を付けてね」


「まかせとけって!いってきます」



 片手を上げて、それに応えた。


 ✞




 K機関支部が立っているこの場所は国から危険区域に指定されている。

 ようするに、関係者以外立ち入り禁止だ。

 一番近い街まで、徒歩で二十分かかる。

 支部の周りは戦禍の跡そのままなので、K機関支部周辺を取り巻いて綺麗な街並みができている。

 空から見ればまさにドーナツが出来上がっていることだろう。

 今回のように彼らが脱走してもすぐに被害が出ないように、あえて危険区域に指定され、復興もされていないのだ。

 十年前の戦争から日本は二つのエリアに分かれてしまっていた。

 K機関支部が統治しているのが、かつての九州・沖縄地方と中国地方、四国地方、関西地方である、西日本で、《エリア兵庫》と呼ばれている。

 東日本である、中部地方、関東地方、東北地方、北海道地方はK機関本部が統治しており、《エリア東京》と呼ばれている。

 しかしかつてあったような県という線引きはなく、今は~エリア~区域、という呼び名で地図が出回っている。

 もはや県として残っていない場所もあるらしい。

 中でもかつての北海道地方や、中国地方は壊滅的な状態で、今でも人が住める状況ではない。

 加えて【結晶病】で世界中の人口は減る一方だ。

 街中は十年前に比べて明らかに活気がない。

 K機関周辺以外では復興も進んではいるのだが、なくならない『吸血鬼狩り』に進行・後退を繰り返すばかり。

 その中で、今から行く支部から一番近い街は既に復興が終わっており、街なみも十年前と変わらない。

 悠長に歩いている場合ではない。

 腕時計を操作し、『ミシェル・キャロ』の場所を表示させ、順路を確認すると、俺はゴーストタウンとなっている街中を全力疾走し北を目指した。


「どうか、お願いします!『吸血鬼の血』をください!お願いします!」


 数分後、危険区域と市街地の境界に近づく。

 K機関支部から来た俺の姿をとらえると、そんな声が境界の外から聞こえてきた。

 彼らは高い高い金網のフェンスの向こうから懇願していた。


「ッつ……」


 一般人の侵入を禁止するためにある、境界線に立つフェンスは有刺鉄線で強力な電気が流れている。

 フェンスの向こうにはこんな子供の俺にまで懇願してくる、十数人の人間がいた。

『吸血鬼の血』を欲する人々はフェンスに触れないように離れて、こちらに訴えているのだ。

 毎日顔ぶれは違うが、彼らはこの場所にしがみつき、支部の人間が通るたびに頼み込む。

『吸血鬼の血』をください、とボードに書き、掲げて。涙を流しながら、鼻水を垂らしながら、額を地面にこすりつけながら。

 家内を、娘を、弟を、お母さんを、恋人を、助けてください、と。


「お願いします!早くしないと、死んでしまいます!お願いします!」


 胸をひっかきまわす彼らの絶叫。悲嘆、怒り、わずかな期待に目じりが熱くなって、喉がつまった。

『吸血鬼の血』は足りない。

 圧倒的に足りていない。

 当たり前だ。

 飲んでもわずか数日しかもたない。

 永遠に飲み続けることなどできるはずもなく、いずれ別れを受け入れるしかないのだ。

 初めはみんな我先にと『吸血鬼の血』を欲しがった。

 しかし政府が支給できる数に患者の数が追い付かず、薬はなかなか手に入らない。

 それに次第に人々は、一日で訪れる死を受け入れるようになっていったのだ。

 そうして世界中の人口は減り続ける一途をたどった。

 けれど受け入れられない人間もいる。

 俺はフェンスの内側にあるモニターから暗証番号を入力し、フェンスに流れる電流とロックを解除した。

 フェンスに群がる人々を中に入れないよう注意しながら外に出る。

 後ろ手に閉めると、再びフェンスにはロックがかかった。

 必死の形相の人々が凄い勢いで小さな俺の体に群がってきた。

 中でも太り、体の大きな男が汗をまき散らしながらまくし立てる。


「た、頼む、娘が死んでしまう!助けてください、お願いします、どうか、どうか!」


「すまない、通してくれ」


 腕を、服を足を掴む人々を半ば引きずりながら人込みから離れようとする。

 目の赤くない俺は吸血鬼とは思われていないようだった。

 こんな子供(ガキ)、吸血鬼とは思えないんだろうな。

 脱走した『自我なし』はこの人たちを襲ってはいないようだ。

 かなり大きく跳躍して、市街地の中まで入り込んだのだろうか。

 一貫して振り切ろうとする俺に力なく人々の手が離れていく。

 彼らもわかっているのだろう。

 自分たちの行動は、無意味なのだと。


「人殺しっ……あんたたちは人殺しだ!」


 やがて彼らの絶望がすすり泣きになって、悲鳴になった。



 ✞




『ミシェル・キャロ』は肉専門店の有名店であった。

 市街地の中心に店を構えており、絶望しきったこの世界で、店を経営し続けられるのはとても凄いことだった。

 今では店を構えても従業員が【結晶病】にかかり、入れ替わりが激しかったりしてショッピングモールや飲食店等といった店の類は数を減らしていた。

 高いビル群にかこまれた街頭を歩きながらそろそろ着くな、と地図で現在地の確認をすると、腕時計を操作して、棗と回線をつないだ。

 コール音が数回続いて、はいと棗の声が聞こえてきた。


「棗か?あとに三分でそっち行くから準備しといてくれ」


『はーい、店の外に出てるねー』


 呑気そうな声が応じる。

 声の向こうで、誰?と聞く声がしたので、まだ本部の人間と一緒にいるのだろう。

 会いたくねえな~。眉を顰めて通話をきると、タイミングよく青になった横断歩道を渡り、交差点に進入した。

 しばらく歩き角を曲がると、ビルに挟まれた一角に背の低いレトロな様相の店が見えた。

 橙の壁に赤い看板が下がっており、『ミシェル・キャロ』とある。店の両脇には整備された庭があり外でも食べられるらしい。なかなか素敵な店だな。

 美味そうな肉の匂いがこちらにまで漂ってきて、思わず唾液が溢れた。

 店頭には二人の人が立っていた。

 内一人、拘束具のような白黒の服を着て、こちらに気づいた小さな子供のような見た目の男が、純血の吸血鬼の頭――棗だ。夏だというのに長い袖をたなびかせている。(吸血鬼に気温はあまり関係がない)


「あ、やっほー!」


 俺の姿を認めると、片手を振っておいでおいでをする。

 ふわふわの銀髪は先端が漆黒。

 真紅の瞳を機嫌よさげに細めた。

 おーと俺も手を上げて小走りに近づく。


「ボク達もご飯食べ終わってたから、ちょうどよかったよ」


 俺の両手を握ってにこにこする。

 棗はいつも笑っていて、どれだけ仕事が大変でも苦労を見せない。

 自由奔放で何をしだすかわからない時もあるが、俺が尊敬する吸血鬼。

 本部の人間との食事を終えたというのに嫌な顔ひとつしていない。


「棗が急用ができたっていきなり出て行ったんじゃない、俺を置いてさ。せっかく久し振りに会えたんだし、まだ棗と話したいことはたくさんあったのに」


 意味深に笑いながら、棗の隣に立つ男が会話に加わってくる。

 二十代後半に見受けられる男を見上げると、サファイア色の瞳と目が合った。

 長身で細身だが、服の上からでも鍛え上げられた肉体が分かる。

 白と青の軍服。

 軍人だろうか。

 普段来る本部の人間は白衣を着ていたりスーツ姿だったりするので、軍人は珍しい。

 俺の体に緊張が走る。

 男にはおよそ隙というものがなかったからだ。

 かすかに体を動かすだけの所作にも一部の狂いがなく、腰に差している黒い獲物をいつでも抜けるように体の重心を全く乱さない。

 この男、相当強い。

 やり取りから棗と仲が良いのだろうが、油断のできそうにない相手だ。


「ボクはお断り! お肉じゃなきゃ、椿(ツバキ)いるって聞いた時点で来てないよ」


「お肉につられる棗も棗だよね」


「うるさい!バカ椿、もう帰って!」


 椿と呼ばれた男は途端に機嫌の悪くなった棗に睨まれても、機嫌よさげに笑っている。

 棗のぷんぷん怒る様を見ながら俺は混乱していた。

 棗は全然怒らない。

 陽の感情しかないのかと思うくらい、全く怒らないし、誰かを嫌いなそぶりも見せない。その棗がここまであからさまに嫌悪を見せるなんて、と俺は少し混乱していた。

 棗は戦争を仕掛けてきた人間でさえ、嫌いにはなれないと寂しそうに笑うような、優しい奴なのに。

 椿の腹を両手で必死に押しながら、帰って帰ってと繰り返す棗の髪を、白い手袋をはめた左手が撫でた。


「そこにいる子が、君の急用なの?」


「そう!ボク達は椿と違って忙しいの!早く帰って」


 ふうん、と一瞬、サファイアの瞳が温度を失う。

 レモン色の髪を揺らして、椿が俺を見た。

 棗はまだぐいぐいとやつを押しやっていて気づかない。

 瞳の冷たさはすぐに元に戻ったが、一瞬感じた鋭利な気配に俺は身構える。

 腰に差した刃にいつでも手が伸びるように。

 けれど椿は形のいい唇をかすかに上げた。


「…君、俺の知っている人に似ているね」


「……俺は、あんたなんて知らないけど」


 怪訝に思う。

 どう見ても椿は西洋人だ。俺に外人の知り合いは梔子しかいないが、あいつの素顔を俺は知らない。


「俺は椿。一応、鈴蘭様の護衛、かな。棗とは懇意にしているよ。……君は?」


「俺はー」


「自己紹介なんて必要ないよ!この子と椿はこの先も会う予定はないから!」


「お、おい、失礼だろ、棗。名前くらい別に」


「いいから、もう行こ!」


 俺の言葉を遮りまくりながら、棗は強引に俺の片腕を引いた。

 急すぎる行動に困惑しながら、棗のことだし、何か理由があるのだろうと仕方なく抵抗をやめる。

 振り返ると、椿はなにやら思案し、その後。


「ま、そういうことにしておいてあげる。またね、棗。……君も」


 笑う。

 その顔に俺の背筋を冷たい物が下った。

 ギ、ギギと、固まってしまう首を慌てて前へ向ける。

 椿、天皇の護衛に直接あたっているという精鋭中の精鋭。

 絶対零度の氷の瞳、恐ろしい男だ。


「……棗、あいつが本部の人間なら今回の『自我なし』が脱走したこと、一応報告しといた方がよかったんじゃねえの?」


 お互い無言でしばらく道路を歩き、頃合いを見計らって訊ねると、棗は俺の手を引いたままぶすくれた顔をした。

 うっわ、ぶさいく。


「椿に知られたら絶対にうざいことになるもの」


 ……確かに。

 いくら棗に睨まれようと嬉しさを増すだけだった椿の様子を思い出して、納得する。

 あれは、相当歪んでいる。

 俺の自己紹介を遮ってまで強引に椿から離れたのは今回の件を知られないためか。

 実験体がK機関支部外に出ているのも追求されると厄介だもんな。


「だけど、お前がそこまで誰かを嫌うの、珍しいな」


「椿と、あいつだけだよ。ボクをここまで怒らせるのは…」


「あいつ?」


 好奇心から聞き返したとたん、棗ははっとして、うつむいてしまった。

 まずい、地雷だったか?


「……棗?」


「……純血の吸血鬼の、一人だよ。本当にめちゃくちゃで、ほんとに…はた迷惑な奴だったんだから」


「っ……、そっか」


 悲しそうな、己の無力を嘆くような棗の声音から、その純血というのは、十年前の『吸血鬼狩り』で命を落とした、二人のうちの一人なのだろうと容易に予想がついた。

 棗を悲しませてしまったことに俺の胸にも自己嫌悪が広がっていく。

 何とか棗を励まそうと明るい話題を探していると、


『最近減少の兆しがみられる吸血鬼狩りについて、陛下、一言お願いします』


『非常に喜ばしいことだ』


 頭上からの声に顔を上げると、ビルにはめ込まれたスクリーンに、女性インタビュアーと、白髪の、初老の男が対談する様子が映っていた。

 栗色の髪をきっちりまとめた女性が差し出すマイクに向けて、濃黒の着物を着た男が話している。

 この国の天皇陛下であり、【結晶病】の治療法にいち早く近づいた研究者――鈴蘭。


『これ以上吸血鬼が減るのは我々人類にとってマイナスにしかならん。少しでも人類の未来を慮る人間が増えたことに感謝したい』


「あの人、テレビに出るの珍しいな」


「そうだね」


 続く対談から視線を棗に移すと、棗はスクリーンには見向きもせず、そっけなく言葉を切った。

【結晶病】の治療法を発見した鈴蘭は人間側から見れば英雄だ。

 しかし吸血鬼側からは、自分たちを追い詰めた悪魔のように映る。

 また地雷!

 歯噛みする思いで拳を握りしめる。


「ぎゃあああああああああああ!」


 獣のような悲鳴が道の先でいくつも上がった。

 瞬間、自分がこの街に来た理由を思い出す。

 棗と目を合わせ、声の聞こえた方向に駆け出す。

 悲鳴はやまない。景色が目端に流れていくのを感じながら急ぐ。

 人や車といった障害物をかわしながらビル群をかき分け走る。

 レストラン街を抜け、商店街に続く通りへ曲がった先の交差点で、血の海が広がっていた。


「アアアアアアアアアア!」


「助けて、いや、いやあああ……ぐぼっ」


 交差点の中央で道路を横断していた人々が血だまりに沈む。

 赤信号で止まっていた車からは人々が逃げるために飛び出してきて、遠巻きに見ている人々も腰を抜かしたように尻もちをつき、逃げられずにいた。

『自我なし』は首の骨を折られ、すでにこと切れてる人間の首をかみちぎり血しぶきをうまそうに浴びている。

 彼の足元には血の吸い尽くされた、ミイラのような人間の死体が幾体も幾体もある。

 想像していたよりもひどい状況に息をのむ。

 数十メートル離れているこちらまで、噎せかえるような血の匂いが流れてくる。

 こみ上げる吸血衝動に抗いながら、さっと周囲に目を走らせた。

 辺りは阿鼻叫喚。

 信号が青になっても無人の車は動き出さない。

 建物の窓から状況を察した人はすぐさま窓を施錠しカーテンを引き、顔を引っ込めてしまう。

 くそ。

 目撃者が多すぎる。

 これでは人々にK機関支部の悪影響を広めてしまう。


「お前はそこで気配消して大人しくしてろ!俺が片付ける」


 こんなところに棗が、支部社長がいると人々に知られれば批難は間違いなく棗に集中する。

 腰から刀身を抜き、交差させる。

 気をつけて、という棗の声を背後に、地面を蹴った。

 人間の頭を引きちぎろうとしている『自我なし』に突進。

 やつの懐に入るため、血だまりに一瞬着地し、もう一度蹴って目の前に。

 上に跳躍して頭を掴む『自我なし』の両腕を落とす。

 相棒であるこいつでは吸血鬼の頭をつぶすことはできない。

 狙うのは必然、心臓の破壊だ。

 獲物を取られたことに怒ったのか、咆哮を上げて頭突きを放ってきた。

 空中では回避できない。

 が、昨日戦った奴よりスピードも威力も足りない。

 受けても大丈夫だと判断して受け身を取る。鈍い痛みが腹を襲い、俺は勢いよく乗り捨てられた車に激突した。

 フロントガラスを派手に割り、車ごと数メートル後退。ガラスの破片が頭に刺さって血が目じりを伝う。

 口に入った血を吐き出すと、腹をさすって悪態をつく。


「いってえじゃねえかよ」


 判断を誤ったか?

 ま、後の祭りだ。

 グリップを握りなおすと同時に頭の上に影が落ちた。

 見上げずともわかる。

 咄嗟にボンネットから移動する。

 アスファルトに二転三転しながら敵の攻撃を回避。

 見るとボンネットは『自我なし』の飛び蹴りにより大破していた。

 慌てて後ろに跳躍した刹那、車は大爆発した。

 自身ともども爆発したらしい。

 自滅だ。

『自我なし』の肉片が散らばる。

 詰めた息を吐き出すのと、桜!という棗の声がしたのは同時だった。

 視界いっぱいに赤い塊が迫る。


「ぐっ!」


 喉仏を狙う相手の攻撃を左腕で受けると、相手はそのまま俺の左腕に噛みついた。

 ぐちゅり、肉を裂き、骨をかみ砕かんとする『自我なし』の姿を見て、俺は驚愕する。

 やつは爆発で体がばらばらになりながら、頭部のみで俺に接近したのだ。

 今だ消えない炎を頭から上げながらやつは、俺の左腕からあふれる血を飲んでいる。

 骨の見える首の断面からはすでに体が再生されつつあった。

 背骨、鎖骨、それらを包む肉。

 まずい、この状態で再生されると――。

 左腕の痛みに脂汗が浮かぶ。

 息を吸う。

 目を閉じて。


「―――ッ!」


 俺は自分の左腕を切り落とした。

 やつの心臓がどこかへ散らばってしまって分からない以上、頭を潰すしかない。

 あまりの痛みに涙目になりながら俺は右手に力を込めた。

 瞬時に再生する左腕。

 熾烈な痛みは一瞬だ。

『自我なし』は切り離された俺の左腕を咥えたまま飢えた目でこちらを見る。

 まだ足りないか。

 上半身を完全に再生したやつに接近しようと地を蹴る。

 その瞬間、やつの頭部が―ぐしゃりと潰れた。


「は……」


「……桜が、頭潰すの嫌かと思って」


 突然の相手の戦線離脱に唖然とする。

 背後からの声に振り返ると、棗が哀惜(あいせき)の念が滲んだ瞳で立っていた。

 真紅の瞳は妖しい光を灯して揺らめいている。

 棗に、同胞を殺させてしまった。

 頭から流れる血を拭いながら俺は歯噛みする。

 しかし心を落ち着ける(いとま)もなく、


「あの瞳…まさか純血の吸血鬼!」


 遠巻きに俺たちの戦闘を見ていた人々が呟きだした。

 呟きは膨らみ、ざわめきに、変わる。

 怒号、批難、歓声。

 まずい!

 俺は焦燥を抱えながら棗の元に駆け寄る。

 数人の人間が棗に詰め寄る。

 アスファルトにへたり込んだまま泣き出す人もいる。

 棗の正体がばれた時、人間がとる行動は大きく三つだ。

 一つは今回みたいにK機関が問題を起こすことで生じる被害や、『吸血鬼の血』が支給されないことに憤り、棗たちを批判する者。

 二つは十年前の『吸血鬼狩り』という人間と吸血鬼の大戦によって、自分の大切な人を吸血鬼に殺されたことで、棗たちにその憎しみをぶつける者。

 そして三つが、純血の吸血鬼の血は【結晶病】の結晶ウイルスを二週間ほど抑制することができるためそれを欲する者。

 彼らは純血の血を分けてもらおうと群がる。


「また逃がしたのか!政府はいったい何をしている、何人死んだと思っているんだ!」


「どうかあなたの血を私にお与えください!お願いします!」


「旦那を返して!」


「どうしてもっと早く来てくれなかったの……っ?」


 人々の様々な感情の渦中で棗は泣きそうな、顔をしていた。

 飛び交う非難の中には聞くに堪えない罵詈雑言も混じる。

 人々の抑圧された怒りや嘆きは刃となって棗の胸を引き裂いていく。

『自我なし』を逃がしたのはこちらの落ち度だ。

 亡くなった人間やその遺族の想いは当然だ。

 けれど、どうか。

 もうこれ以上棗を傷つけないでほしい。

 いつもそうなのだ。

 正体がばれた時、必ず今のような状況になり、そして棗は何も言い返さず非難を受ける。

 血を求める声は続く。

 十年前に結んだ停戦協定から、純血の吸血鬼たちは政府の《モノ》に成ってしまった。

 国の許可なく血を与えることは禁じられている。

 世界中に『吸血鬼の血』を求める人間が溢れている今。

 例外をつくってしまえば法は意味を成さず、キリもなくなってしまうだろう。


 以前、それでも棗はある一人の女性に血を与えたことがあった。


 五歳の娘が【結晶病】にかかった、と訴える彼女に路地に連れ込まれ懇願された棗は、女性の持ち物の中から、水筒の中身を捨てさせ、そこに自分の血を注いだ。

 必ず他に人目が無いときのみだが、そういったことを繰り返していた棗はしかし、自分と別れた女性がその後、命を落としたことをテレビで知った。

 数日後に捕まった犯人は女性の近所の人間だった。

 犯人は【結晶病】にかかった女性の娘が一日過ぎても生き続けていたことから、女性が『吸血鬼の血』を入手したと推察し、女性と、娘、その父親を殺害した。

 かつて犯人は自身の妻を【結晶病】で亡くしていた。

 その時、いくら願っても『吸血鬼の血』を与えてもらえなかったという。

 しかし目の前で女性とその娘が生きていることに激しい怒りと身勝手な憎しみを抱き犯行に及んだ。

 一家皆殺し。

 棗はただ無言でテレビの前に佇んでいた。

 そして、しばらく落ち込んでいた。

 自分の軽率な行動が、本来死ぬはずのなかった女性とその父親の命さえも奪ってしまった。

 以来棗はどれだけ懇願されようとも血を与えなくなったのだ。

 血のにじむような決意で、己を律して。


 けれど、誰かを助けたいという棗の想いは、絶対に間違っちゃいないんだ。


 何か喋ろうとして、声にならず瞳を潤ませる棗。

 詰め寄る人達を自分の力で怪我をさせるわけにいかない。

 だけど、どんどん悲しげに曇っていく棗の顔に、俺は守らなくちゃという想い一つでその人だかりに突っ込んだ。

 肉の障壁と化した人々を押しのけ、手を伸ばす。


「棗ッ!」


「サ、桜……」


 途方に暮れた瞳が俺を映し、長く綺麗な指先が俺の手を掴む。

 思いっきり引き寄せて、なおも群がる人々から棗を守るために細い体を抱きしめた。

 骨と皮みたいな華奢な棗の体を抱き、俺は上に跳躍して信号機の上に着地した。

 こちらを見上げて、無数の手が追いかけるように上へと伸ばされる。


「棗……」


「大丈夫だよ……ありがとう」


 ぎゅう。

 棗は俺の首に腕を回し、首元に顔をうずめた。

 正直こそばゆいが止めることもできず、俺は眼下の光景を一瞥してから腕時計で梔子へと回線をつないだ。


「梔子、任務完了。街でけが人と死人がでている。」


『今レンとナデシコが部下を連れてそちらに向かっている。事後処理は任せておけ。お疲れさま、帰還しろ』


 無機質な機械音が答え、ブツッと一方的に回線が切られてしまう。

 相変わらずの自由さにため息をつきながら俺は棗の体を横抱きにした。

 このまますぐに支部へ帰るのだ。

 血だまりと人ごみに背を向け、足に力を入れる。


「…………」


 棗は何事か呟いたらしかった。

 大きく跳躍し、風を切って走り出す。

 生まれる風圧にかき消されて、棗の呟きは霧散した。



 ――人間を好きだと。

 いつか棗は言った。

 一方的に戦争を仕掛けてきたのは人間なのに、憎くはないのか。

 俺は聞いた。

 少し困ったみたいにつり目を細めて、そんなに簡単に嫌いになんてならないよ。

 ひどい人間もいるけれど、そうじゃない人間もいるから。

 一つ嫌なことをされたからって、全てを嫌いになんて、なれない、と、言った。

 今は【結晶病】のせいでみんなおかしくなっているだけなのだと。

 本当は弱くて優しい、愛おしい存在なのだと。だから許してしまうのだと。

 けれど、棗。

 椿に対して怒っていた棗を思い出す。

 あんなふうに誰かを嫌いになったっていい、イヤなことはイヤだと、拒絶したっていいのに。

 建物から建物へ跳躍しながら、悲しみと自身の無力さに耐えている棗を抱きしめる。

 お前が辛いんだったら、俺はいつでもお前の助けになるから。

 その気持ちが伝わるよう、俺は棗を抱く手に力を込めた。






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