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桜は微笑む。  作者: 青柳 兎蝶
第一部 『胎動』
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1.夢-かこ-


 自分の体が氷の塊になったように冷たく、指先さえ動かせない。

 目を開けていても視界は雨と疲労で霞み、体温が急速に下がっていっているのを感じながら、俺は死ぬかもしれない、と思い始めていた。


 半年前まで俺たち家族が暮らしていたこの街は突如勃発した戦争の主要地として戦渦に巻き込まれ、今では街の形を保っていなかった。

 ビルはドミノのように横倒れ。

 アスファルトはひび割れ、爆発に巻き込まれた人々の死体が横たわっているこの街の有り様は、まさに地獄絵図。

 この街が戦争の主要地になってから、飛び火するように世界中で戦争が起こったのだ。

 どこに逃げても、安全な場所などどこにもないのに住人達の生き残りは皆他の街へ逃げて行った。

 それほどまでにこの街の戦争の在り方は酷かった。

 だが最近は爆発音が聞こえなくなり、何日も辺りは静かなままだ。

 もしかしたら、終戦が近いのかもしれない。

 ふっと笑みが零れた。

 寄り添う妹を強く抱きしめる。

 この街に残っているのは俺と、妹の梨花りかだけ。戦争が始まる少し前に父さんが死んで、心の整理ができないまますぐに母さんもいなくなった。

「梨花をまかせた」という言葉を残して、戦禍に飛び込んでいって。そして消息を絶った母さん。

 生きているのか、死んでいるのか、それさえ分からない。

 そんな自分にできることは、何があっても母さんに託された梨花を守り抜くことだけだ。だから俺は母さんがいなくなっても、街の皆が逃げ出しても、この街に居続けた。

 何度も死にそうになりながら、母さんが帰ってくることを信じて。


 だから、まだ死ねない。


 動かない体にムチ打ち、自分によりそう幼い妹の体を温めようともう一度抱きしめた。

 瓦礫に背を預け、何日も降り続いている雨を全身に浴びながら空を見上げ、息を吐く。

 ここ数日、俺も梨花もろくな物を口にしていない。突き刺さる雨が体から体温を奪う。

 このままじゃ飢え死にだ。

 頭では理解していても、体は言うことを聞かない。


「おにぃ、ちゃん……」


 不意に梨花が俺を呼ぶ。

 雨音にかき消されそうにか細く、不安に満ちた声だった。

 いつの間にかぼうっとしていた俺はその声にはっとして、安心させるように梨花を抱きしめる腕に力を込めた。


「大丈夫だ、梨花。お前は俺が守るから、だから安心しろ。ぜったい守ってやっから」


 寒さのせいで震える声で俺は何度も繰り返す。

 その言葉が不安で怯える自分自身のためでもあるのだと認めながら。

 本当は怖くて、不安で、逃げ出してしまいたかった。

 誰かに縋り付いて人の温もりに包まれて、泣き出してしまいたかった。

 俺がそうせずに自分を保っていられているのは、梨花がいるからだ。


 梨花を守る。


 二人で、ここで母さんが帰ってくるのを待っている。

 その信念だけが、約束だけが、俺が俺自身を見失わないでいられる唯一の理由。

 ぜったい守るから。

 繰り返しつぶやいていた俺にはもうほとんど意識がなかった。

 霞んでいく視界にふと、奇妙なデザインの黒いブーツが映ったのはその時だった。 

 膝下くらいの長さの編み上げブーツ。

 この街には人なんていないはずなのに、と思っていると、ブーツの主が言葉を零した。


「まだ、息はあるのか?」


 声は問うというよりも独り言のような響きを持っていた。

 腹の底を揺らす、奥深く低音の声­――どうやらブーツの主は男らしい。

 やはり終戦が近いと思った俺の予想は当たっていたのか、政府が寄越した救護隊か何かの人だろう。

 いや、しかし救護隊の人がこんな歩きにくそうなブーツを履くか?

 政府のことなど知るわけもないが、一般常識として救急車に乗っている人たちが編み上げブーツなんか履いていたら、おかしい。

 いや、軍隊の人は軍靴、みたいな物を履くというから別段おかしな話でもないのか?

 分からないままに口を開いたら、乾ききった舌が嫌な音を立てた。


「っ、だれ、だっ」


 男は突然の声に驚いたのか、すっと息を吸い込み、しばらく黙ってから「ほぅ」と感嘆の声を零した。


「生きているのか、少年よ。死にたくないか」


 すぐに答えようとして口を開いたが喉がひりひりし、咳き込んだ。

 男の非常識な発言に怒りが湧く。

 早く喉の渇きを潤わせ、この男に当たり前だと怒鳴りつけたい。

 軍の戦車が放った銃弾に巻き込まれそうになったことは数知れない。

 そのたびに生と死の狭間に立たされ、命からがら生き延びてきたのだ。

 目の前で人が死んでいくのを見たこともあった。皆、必死に生き抜こうとしていた。死にたくないと、強く、願っていた。

 この男はそんな人々を馬鹿にしたのだ。

 この地獄絵図のような街で、軽い調子で死んでいった人々をないがしろにした。


「もし、我がおぬしたちのうち一人しか助けられないと言ったら、どうする?」


 男の質問は俺をさらに苛立たせる。

 楽しんでいるのかと思えるほど、余裕のある言い方だった。

 頭の奥がカッと熱くなり、凍えて震えの止まらなかった体に血液がドクドクと脈動しているのが分かる。

 気づけば梨香を抱きしめながら、男に向かって叫んでいた。


「二人で助かる方法を見つけるに決まってんだろうがッ!」


 てめえみたいなやつに梨花を任せられるか。

 しかし威嚇のつもりで怒鳴った声はかすれて、みっともなく無人の街に響き、男は微笑ましいそうにふっと笑みをこぼしただけだった。

 こちらへ水溜りを踏んづけながら近づいてき、俺の前まで来ると、その場に片膝をついてくる。

 すると、今までブーツしか見えていなかったのだが、男がしゃがんだことで全体像が見えるようになった。

 そして気づいたことは男が多くの傷を負っている、ということだった。

 ぴっちりとしたジーンズはボロボロで、土がこびりついている。

 上半身は裸の上から革のジャンバーを着用しており、その下の皮膚は思わず目を逸らしたくなるほどに痛々しい裂傷れっしょうで傷つけられていた。

 先程まで燻っていた怒りの炎がしぼんでいく。

 同情してじゃない。

 その生々しい傷跡は死を連想させて、恐ろしかったからだ。

 まだ六歳の俺には目に痛い。

 とげとげしいオーラーが弱まったとみたのか、男はいきなり腕を伸ばしてくると、優しく俺の頭を撫でてきた。驚いて身を固まらせる俺を可笑しそうに笑う。


「気に入ったぞ、少年」


 何故か、涙ぐみそうになった。

 幼い俺には抱えきれない巨大な不安が堰を切って溢れそうになるのをぐっとこらえる。

 今ここで泣き出してしまったら、もう二度と立ち上がれない確信があったから。

 安心したら、思い出したように飢えと疲労がやってきた。

 男に頭をぐりぐりと撫でられながら、意識が遠のいていくのを感じる。

 薄れゆく意識の中で最後に、


「あやつとは似ても似つかぬな」


 なんていう言葉が聞こえてきたが、全て聞く前に俺は意識を手放した。




 ――世界が〝彼ら〟を受け入れたのは今から約三百年前。

 当時のアメリカの大統領が〝彼ら〟の人権を尊重するべきだと世間に説いたことがきっかけとなり、アメリカのニューヨークを支部に、〝彼ら〟を守る行動が広まった。

 そして何千年も相容れなかった人間と〝彼ら〟―― 吸血鬼は大昔からの確執を乗り越え、ともに共存する未来を選んだ。それまで闇に隠れて生きてきた吸血鬼たちは突然の変化に戸惑いながらも人間と寄り添い、共に生きることに納得していった。

 昔、人間と吸血鬼は決して相容れないと語られたことなど忘れたように――



 二千五十年、原因不明の病が発生し、約三千万人の人が二週間で亡くなった。

 その病は発症すると一日で死に至る。足先から青色に変色していき、皮膚に海で見かけるウニによく似た形の黒い結晶が無数に浮かび上がり、結晶が心臓にまで達すると、死ぬ。

 全身を体内から刃で突き刺されているような激痛が襲うその病のことを人々は【結晶病】(けっしょうびょう)と呼んだ。

【結晶病】が流行ってから数か月、人は【結晶病】と闘い、そしてその病が一度発症するともう治すことはできないという事実に敗北した。

 それから一年後、ある研究者が一つに真実に辿り着く。

 吸血鬼の血を体内に取り入れることで、【結晶病】の進行を数日遅らせることができる、という真実に。

 すでに世界中の人口が減りすぎていた現状で、その情報は人々に大きな希望を与えた。世界中の人間が躍起になって吸血鬼を探し始めたのだ。


 ―人間と吸血鬼の共存、その歴史を大きく覆す『吸血鬼狩り』の始まりだった―






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