Ⅶ.混血
目を覚ますと、灰色の部屋には俺以外、朝霧も梨花もいなかった。
いつものように洗面台の蛇口から、勢いよく水を被る。
濡れた頭と顔を乱暴に着替えたばかりの黒のタンクトップで拭うと、俺は颯爽と部屋を出た。
よれよれのズボンのボケットから社員証を取り出しスキャン。
もしかしたら朝霧と朝飯を食べに行っているのかもしれない。
梨花を探して俺はひとまず食堂へ足を向けた。
エレベーターで2のボタンを押して、壁にもたれる。
昨日は梨花の必死の懇願に流されちまったけど、ちゃんと言わねぇと。
棗の作戦には、参加させられないって。
梨花の、母さんを助けたい気持ちは痛いほど分かる。
分かるからこそ、認めるわけにはいかない。
だって俺は母さんに梨花を頼まれたのだから。
エレベーターの扉が開く。
2階は主にトレイニングを目的に構成された階だ。
エレベーターを出てすぐにあるトレイニングルームは中の様子が見えるよう、全ての部屋の扉、壁が透明の素材だ。
それでいて強度は抜群。
まあ、一回棗とのお戯れの戦闘で一室まるごと崩壊したことはあったけどな。
でも、ここのトレイニングルームが壊れたのはその一回きりらしいし。
K機関支部の社員証を持っている人間ならいつでも誰でも利用できるので、俺も蓮や撫子さん、時には棗や薔薇に付き合ってもらって、頻繁に利用していた。
最近は随分とご無沙汰だったし、梨花見つけて、飯食ったらやってみるか。
とかなんとか考えながら首に両腕を回し、伸びをしたところに、とある一室の光景が目に入った。
そこでは仁王立ちした蓮と、その足元で体造りにいそしむ、ポニーテイルの梨花。
梨花。
「ぅおいっ!」
素通りしようとした足を無理やり方向転換させ、透明な壁にはりつく。
が、そんなことで当然中に入れるわけでもないので、急いで扉に回ると社員証をスキャンし(ああ、社員証がなくて蓮たちに付き合ってもらっていたのが感慨深ぇ)、蓮の胸ぐらを掴んだ。
「てめぇ、梨花に何させてやがるッ!?」
梨花とお揃いでポニーテイルになんかしやがって、引っこ抜くぞ!
ガルルルル、と歯を剥き出して噛みつく俺をしかし、止めたのは梨花だった。
「やめてお兄ちゃん!私が、蓮さんにお願いしたの!」
「なにっ?」
驚いて振り返ると、汗だくで息も切らしながら、梨花は、蓮の胸ぐらを掴む俺の腕にそっと触れた。
「棗さんの計画に参加するんだもの、強くならないといけないから。だから蓮さんに稽古をつけてくださいって、私がお願いしたの」
「なっ……いつの間に」
「それは、その、朝方、お兄ちゃんのポケットから社員証を借て……。勝手に社員証を持ち出して、ごめんなさい。」
見ているこちらが辛くなってくるほど、すまなさそうに目を伏せる。
俺は無断で社員証を持ち出されたことよりも、梨花が俺の知らないところで蓮と二人きりで会っていたことの方にショックを受け、よろめいた。
「何で、俺じゃねぇんだよ……」
蓮の胸ぐらから両手が力なくほどけ、蓮ははだけた胸元を神経質に直した。
打ちひしがれる俺に梨花は伏せていた目をあげ、きっぱり。
「だって、お兄ちゃんは絶対に手加減をするから」
…………俺も、そう思う。
ぐうの音もでない俺の両手を取り、ぎゅっと握りしめると、梨花はとどめとばかり、満開の笑顔を俺に見せた。
「私、頑張るから!だからお兄ちゃん、一緒にお母さんを助けようね!」
無邪気なその笑顔に、つい先程まで、梨花の決意を否定しようとしていた、俺の決意が、ぼろぼろに崩れていく。
俺は、梨花のこの笑顔を守りたい。
この笑顔を曇らせたくない。
もしかしたら、棗の計画で、梨花は傷つくかもしれない。
人を傷つけるかもしれない。
でも、棗の計画で無事、母さんを助けられるかもしれない。
そうすればまた以前のように三人で穏やかに暮らせるかもしれない。
いや、きっと。
嫌なもしかしたら、それと同じように、幸せなもしかしたらがある。
その可能性を、実る前に潰してどうする?
きっと。
きっと。
母さんは帰ってくる。
そして三人で、穏やかに暮らすんだ。
そこに梨花の笑顔がないなら、そんなの何の意味もない。
「たっく、しょーがねぇな」
梨花の頭を撫でながら、俺は笑う。
認めよう。
例え怖くても、不安でも。
その可能性を信じて、手を放すんだ。
母さん、あんたもあの時、こんな気持ちだったのか?
俺の許可がやっと下りたことに飛び上がって喜ぶ梨花とは反対に、ものすごく不可解だとでも言いたげにこちらを見つめてくる蓮。
その端正な顔を睨みつけた。
「見てんじゃねぇよ。野郎に見つめられたって気持ち悪いだけだ」
「すみません。ですが、桜くんは絶対に許可しないと思っていました。……どうして……」
「……ま、いい加減妹離れしねーとな」
苦笑交じりにつぶやく。
俺の言葉が聞こえなかったのか、蓮はなおも不可解そうな顔を崩さない。
嬉しそうに笑う梨花を横目に、頭を掻いていると、
「おっはよー!朝からトレイニングルームとは、元気だねえ」
無駄にテンションの高い声が耳に突き刺さった。
ったく、朝から元気なのはお前だっうの。
「おはようございます」
丁寧に腰を折って礼を返す蓮。
振り返ると、透明な扉の向こうに棗、撫子さん、朝霧が立っていた。
この蒸し暑い中、相変わらずの長袖をなびかせながら手を振る棗を見て、ハッとしたように梨花がトレイニングルームを飛び出す。
「おはようございます、棗さん。先ほど、お兄ちゃんから、計画に私も参加する許可をもらいました。これからよろしくお願いします」
頭を下げたひょうしに、青い髪が一房、肩から零れ落ちる。
「そっか。桜、許してくれたんだ。よかったね。これからよろしく、梨花」
寂しそうに棗は哂う。
梨花は母さんに生き写しだ。
俺に母さんを重ねたように、棗は梨花に母さんを見ている。
それが分かって、苦い痛みが胸にじわりと広がった。
けれど棗はすぐに表情を切りかえるとトレイニングルームに入ってくる。
「ちょうどよかったよ。これから混血の吸血鬼に共闘をお願いしに行くんだけど、桜もおいでよ」
さらりと誘ってくる棗に俺は目を剥いた。
「おいおい、そんな、買い物に誘うみたいに言われても……。第一、俺、愛想よくねえし」
「大丈夫大丈夫。話をするのは撫子と朝霧だから。桜は社会見学だと思って気楽に構えててよ」
「社会勉強って……」
「それじゃ、ボクは別件があるから。よろしくねっ」
「お、おい!棗!」
俺の静止を無視して颯爽と去っていく棗の背中に思わず吠えるが、鼻歌なんか歌って、棗は一度も振り返らなかった。
✞
「で?その混血の吸血鬼とやらはどこにいるんだよ?」
K機関支部を出て、ゴーストタウンと化している街中を歩いながら俺は無駄に高い位置にある朝霧の顔を睨みつける。
くそ、本当にでけえな、こいつ。
俺の首の角度ほぼ垂直だぞ、垂直。
「エリア兵庫19区域に潜伏しておるな」
K機関支部はエリア兵庫を統括しており、かつての兵庫県に配置されている。
詳しく表するならここはエリア兵庫18区域だ。
つまり、隣の区域、かつての京都県に、混血の吸血鬼とやらはいるらしい。
「なんだ、近いじゃねえか」
電車で行けば一時間ほどで着く。
長時間の移動は面倒くさくて苦手だ。
蓮と梔子がK機関本部に定期報告に行く時は新幹線で片道三時間だと聞いた。
我慢できないほどではないが、聞くだけでげんなりする。
俺は思うほど時間のかからなさそうな用件に安心する。
そして、同時に孤児院、ファミリーのみんなを思い出す。
ファミリーも、K機関支部から電車に揺られて一時間の距離にあった。
梔子にもらった端末を尻ポケットから出して地図を開く。
案の定、ファミリーはK機関支部があるエリア兵庫17区域と18区域の境界線ギリギリに建っていた。
傷ついた後のファミリーが今どうなっているのか、見に行きたい。
両隣の朝霧と撫子さんを横目で見る。
二人は気づいているだろうか?気づいているとしたら、あえて何も言わないのか。
梨花と行こう。
二人を付き合わせるのは気が引ける。
撫子さんも俺と一緒じゃ気まずいだろう。
端末をホーム画面にし、元通りポケットに戻しながら俺は決めていた。
梨花と一緒に、ファミリーのみんなに会いに行こう、と。
それから今後のことに考えを移らせる。
俺は正常な混血の吸血鬼に会うのは初めてだ。
実験で相対してきたのは、自我を失くした混血の吸血鬼ばかりだったから。
棗たち純血からは、混血の話を聞いたことはあまりない。
同じ吸血鬼だが、何か事情があるのだろうか。
興味がわいてきた。
「これから会いに行くのはどんな奴なんだ?」
できればフレンドリーなほうが面倒がなくていい。
苦笑しながら朝霧は答えた。
「いささか融通が利かぬ。我らの仲間になってくれるかは怪しいな」
「……大丈夫なのかよ、それ」
困った困った、と笑う朝霧に半目を向ける。
「だが、悪い奴ではないぞ?我の古くからの友人なのだ。先日外国から日本に帰ってきた時も、奴にしばらくは世話になった」
「わたくしは十年前の『吸血鬼狩り』の時に会ったのが最後だわ。懐かしいわね」
紅花のような鮮やかな紅いワンピースを優雅に揺らす。
今日はいつも腰に差している日本刀はない。
「二人ともその混血と仲良いのか。だったら手を貸してくれるんじゃ……」
「……そうなら、いいのだけれど」
色香のにじむ吐息を、撫子さんは苦々しそうに吐き出した。
朝霧も頭を掻く。
「難しいだろうな。なにせ、混血は我ら純血を恨んでおる故」
「は、はあ?なんで」
耳を疑う。
棗たちは政府のモノに成った後K機関支部を拠点とし、他の吸血鬼たちを『吸血鬼狩り』から守ってきた。
確かに、全ての吸血鬼たちを守りきれているわけではない。
けれど棗はその苦悩を抱え、今も闘っている。
それなのに、何故他の吸血鬼たちが棗たち純血を恨むのか。
「彼奴らは十年前、我々純血が政府と手を結び、終戦を誓ったことが許せないのだ」
「だって、母さんを人質に取られてた。棗たちは終戦を結ぶしかなかったはずだ」
それに終戦を結べば、それ以上の犠牲を防げた。
「桔梗のことなんて、混血には関係ないわ。棗様は親しい者だけに、桔梗を人質に取られたことを告げた。けれど混血は話を聞き終わると怒り狂ったわ。何故人間を根絶やしにしないのか、と。たった一人と、数千の命。どちらをとるかは明白だったのよ、混血のなかではね」
「混血は、終戦なぞ結ばずに人間と戦い続けるべきだと思っておる。それは吸血鬼としての生きる誇り。そして死んでいった仲間のための復讐であろう。だから今でも世界各地で、彼奴らは抵抗しておる」
「『吸血鬼狩り』がなくならないのも人間と吸血鬼、両者の憎しみ、自己保身がなくならないためね。棗様
がいくら手を差し伸べても、混血には届かない」
撫子さんの赤い瞳が翳る。
切なさの滲む声。
『吸血鬼狩り』がなくならないこと。
憎しみに巻かれた同胞に救いの手が届かないこと。
その手を伸ばし続ける棗。
撫子さんはもしかしたら、その全てに対して己が無力なことが、悔しくて悲しいのかもしれない。
あるいは、諦めない棗を傍で見つめ続けることが。
うつむいた撫子さんをちらりと見、朝霧は少し言いよどんだ。
俺に視線を移す。
「混血の多くは、棗のことを同族よりも人間を取ったと思っておる。戦争を避けた臆病者とも」
「っ!!」
頭が怒りで熱くなる。
勝手なこと言いやがって。
棗がどれだけの思いで政府の指示に従っていると思っている。
全部お前らを守るためじゃねえか。
喉からほとばしりそうになる怒り。
だがそれは、絶望によって俺の中でつっかえた。
目を見開いて立ちすくむ。
棗の苦しみも決断も、混血の連中には、関係がないんだ。
どんな事情があっても、それを知るすべは奴らにはない。
奴らには戦うことこそが正義。
人間を滅ぼすことが、死んでいった仲間たちへの手向け。
その戦いを降りた棗はもう奴らの仲間ですらないのだ。
同情の余地もなく、話を聞く耳すらなく、棗は尻尾を巻いて逃げた臆病者。
吸血鬼のみんなを守りたいと、棗は言った。
言葉が出てこない。
喉に絡まったまま、告げるべき言葉が見つからない。
人間と手を組み、終戦を誓えば吸血鬼側も犠牲は少なくなる。
少し考えれば悪いことではないと、分かるはずなのに。
棗は逃げたわけではなく、より良い未来の選択を選んだと分かるはずなのに。
こんなにも、人と人は理解しあえないのか。
些細なすれ違いや意見の食い違い。
たったそれだけで、両者の溝はこんなにも深まるのか。
その事実に絶望した。
二の句が継げなくなる俺の頭を、朝霧の大きな掌が撫でる。
「故に十年前、棗が終戦を誓うとモニター越しに世界に配信した時、混血は怒り狂い、各地で人間を襲う吸血鬼が多発した。以来、混血と純血はいがみ合うようになってしまったのだ」
人間だけでなく、同種の吸血鬼との絆まで壊れてしまった。
【結晶病】という、不治の病のせいで。
「此度の棗の計画に参加してくれる混血は少ない。多くが今更政府と戦うと決断した棗を『いまさら何用だ』となじっておる。だが、安心しろ。これから訪れる奴は混血の中では大人しいほうだ。それでも棗は顔を合わせるのをためらった。だから今日は棗は来れなかったのだ。我一人で行ってもよかったのだが。桜はとばっちりというわけだ。まぁ、よい経験になろう」
確かに一度戦いを拒否しておきながら、十年も経って戦うから力を貸して、とは随分と虫のいい話だろう。
けれど棗は今も昔も、みんなが共存できる世界を目指しているだけなんだ。
快活に笑う朝霧を見上げる。
今日会う混血が、それを分かってくれる奴だといい。
「撫子も、すまなかったな。今日は棗とでぇとだったのであろう?」
身長190をゆうに超える大男が肩を落として申し訳なさそうに撫子に言う。
ゲッと、俺の喉からカエルが潰れたみたいな声が出た。
「ま、まじかよ!?撫子さんごめん!こいつ空気よめねーからっ……」
「あら、朝霧が空気を読めないのは生まれつきなの。サクくんが気にすることじゃないわ。それにいいのよよ。こちらの用件の方が大切だもの」
「失礼な!我は節度と礼節を弁えておる、じぇんとるまんだぞっ?」
「うるせえよ。女性のデートを邪魔するのはジェントルマンじゃねえ」
「うっ……」
ころころと可笑しそうに笑う撫子さんはあどけない少女のようだ。
撫子さんはいつもこうだ。
誰かに棗と約束を邪魔されることが多い。
他人の都合の場合もあるし、棗自身に用事ができることも。
けれど撫子さんは決して怒らない。
運命を受け入れるかのように優雅に笑う。
本当に。
俺は心の底から撫子さんに両手を合わせた。
ほんっとうに、ごめん、撫子さんーー。
✞
初めて訪れた京都という街はその景観を留めてはいなかった。
K機関支部のある18区域の隣だというのに、綺麗に整備されているのは物資の往来のある道路のみ。
都市部の方向には建造物の影が見えるが、それだけだ。
18区域を出てすぐに、戦火の爪痕が残る街の残骸が目につき始め、何年も人の手の入っていない風景が電続いた。
その景色を電車の窓から見つめながら、俺は今だ復興の進んでいない現状を思いしらされていた。
K機関支部とその周辺は復興が進み、以前の街並みを取り戻しつつある。
だから忘れていた。
俺の住んでいる場所がどれほど綺麗な外観を取り戻しても、地獄はまだ続いているのだ。
何も終わってなんかいない。
十年前に終戦を迎えてから、政府は東京を中心に復興を始めた。
しかし人間が『吸血鬼の血』を求めて吸血鬼たちを襲い、その被害から復興は進退を繰り返した。
やがて政府は日本の主要な都市を最優先に復興し、他地域は放置しているのが現状なのだ。
アスファルトが散らばり、剥きだしになった地面。
瓦礫の山。
組み倒れた柱、崩れた屋根。
しかし京都に入り、電車に揺れること十数分。
京都府の都市、京都市があった都市部に近づくにつれ、整備された街並みに入ってきた。
やはり。
政府は都市部のみを再構築しているのだ。
建造物が並び、往来にはわずかだが、人の姿がある。
どこでも同じなのか。
【結晶病】の脅威に侵されながらも、外にでて、人との繋がりを求めずにはいられない。
電車が目的地を告げる。
エリア兵庫19区域。
かつての京都市。
「実に一週間ぶりだな」
改札をくぐり京都の街に踏みいると開口一番、朝霧が言った。
商店街やビル群の向こうで、シンプルな造りの仮設住宅らしきものが多く見受けられる(距離は1㎞ほどだが、半鬼である俺には見えている)。
その周りでは人々が洗濯物を干したり、子供たちが駆けまわったりしており、生活の匂いが満ちている。
初めて見るK機関支部以外の街の様子に安堵している自分を感じる。
良かった。
【結晶病】が蔓延る世界で、希望を人々が抱えて生きていることが分かる。
それに、これほど安心するなんて、な。
空気をうまそうに吸い込むと、朝霧は振り返った。
「こっちだ」
東へ向かう。
朝霧が先導し、撫子さん、俺、とその後に続く形となった。
「こんな都市部、人間が多いだろ。本当にいるのか?」
吸血鬼は政府に見つかると【結晶病】への協力を強制される。
抵抗すれば生け捕りか、殺害し、死体を実験に使用するか、政府に協力し棗たちのように一時的な自由を得るか。
その三つの道しかない。
必然、彼らは身を隠して生きていくしかなくなる。
それが何故、このような人間が生活する場所にいるというのか。
「混血は常に瞳が赤いわけではないからな。うまくすれば人はが多い場所は良い隠れ蓑になるのだ」
「発想の逆転、というわけね。朝霧、彼女は元気にしていて?」
「あやつは……十年前も今も、何も変わっておらなんだ。我が日本に帰ってきてあやつに会いに行った時も、な」
「そう……」
撫子さんは苦みを含めて哂った。
電車に乗る前に交わした会話を思い出す。
恐らく他の混血の吸血鬼たちの中には撫子さんたちを憎んだり、襲ってきたりした者もいるのだろう。
そう考えると……。
「今から会う奴ってのは、そうおっかねー奴でもないのか」
両腕を頭の後ろで組み、空を見上げる。
融通が利かなくて、でも日本に帰ってきた朝霧に、十年前と変わらず接してくれたという混血の吸血鬼。
ただ憎むのではなく、それを抑制することのできる、良識のある人物に思えた。
思考を巡らせていると、
「おぬし、混血には会ったことがないであろう?」
「?ああ」
「簡単に事が運ぶと思わぬほうが良いぞ。どれ程あやつが優しかろうと、我らに思うことがないわけではないのだから」
朝霧の、感情を窺えないまなざしに言葉が告げなくなる。
混血にとって純血は、自分たち同胞よりも戦争を仕掛けてきた人間を選んだ、裏切り者で。
友人である朝霧に会った時、何の感情もよぎらなかったわけがない。
黄色い朝霧の瞳はそのことを当然だと受け入れているかのように、澄んだ色をしていた。
友達に恨まれて、憎まれて。
それを当たり前だと受け入れてしまうこと。
どれ程の痛苦か。
「……朝霧」
知らず知らず、名前を呟く。
吸血鬼の耳に届かないはずはないのに、朝霧は振り返らなかった。
俺は朝霧が優しくて、頼りになって、憎めない奴だと知っている。
どんな現実でも俺と梨花を助けてくれた。
だから俺はこの先何があってもこいつを信じる。
守る。
こいつが俺にくれたものを少しでも返せるように。
沈黙が落ちた二人の間に、撫子さんの凛とした声が入った。
「サクくん、今から会うのはアマリリス・ウィステリア・ソルキルティス。混血の中では穏便派の筆頭で、他の混血からの人望も厚い。だからこそ、彼女は一筋縄ではいかないわ」
桃色の髪がひるがえり、振り向く。
桜色の唇がほころび、彼女にしては珍しく溌剌と笑った。
「それでも、行きましょう。もう一度、共に在るために」
理解する。
この訪問は混血―-アマリリスに共闘を申し出ることを目的としているが。
本当は十年ぶりに友達に会いに行く、それだけなのだと。
「ここだな」
朝霧の歩みが止まる。
周囲は仮設住宅が密集しており、どれも似通ったクリーム色の建造物が並んでいる。
その中の一軒の扉の前に俺たちは来ていた。
周りでは子供たちがかけっこをして遊んでいる。
大人はそれを見守っている。
……本当に、人間に囲まれて暮らしているのか。
二階建てのその建物はいたってシンプルな造りをしており、そんな疑問を俺が感じているのも知らず、朝霧は気軽に呼び鈴を鳴らした。
……もう少し気構えというか、葛藤というか、そんなものはねえのか。
相変わらずの遠慮のなさに半目で朝霧を見ていると、
『誰ですか』
警戒心の滲んだ、渋い男の声がスピーカーから聞こえてきた。
「朝霧だ。この間は世話になったな。今日は大事な話があってまいった」
『……そのまま待て』
硬さを感じる武骨で不愛想な声に喜々として応じる朝霧。
アマリリスは彼女、と呼ばれていたことからも女なのだろう。
つまり、今の声の主はアマリリスの仲間、だろうか。
しばらく待つとふいに扉が開き、
「待たせた。入れ」
出てきた大男に俺はあんぐりと口を開いた。
一言で形容するなら、岩。
荒野に転がる岩のような巨躯。
二百はあるだろうかと思う身長は俺の顔に影を落とす程だ。
年は三十代後半くらいか?
盛り上がった肩の筋肉、胸筋、厚い胸板。
深緑のタンクトップは上半身の筋肉でぴっちりと肌に密着していた。
色白の肌に、ぎりぎりまで刈りあげた金髪と、黄土の鋭い眼光。
眉間に刻銘に刻まれた皺、石板のように微動だにしない表情。
で、でかすぎだろ。
そして俺が呆然とした理由のもう一つ。
広く硬い男の顔には、端から端にかけて、凄惨な傷が走っていた。
古傷なのか、すでに傷口は塞がっている。
しかし見ただけで痛みを感じてしまうほど、引き攣れてひび割れた傷。
唖然と男を見上げたまま固まる。
朝霧と男は身長差十センチほど。
しかし、細身の朝霧と違い、横幅もあるこの男は目前に立っているだけで熱気のような物を感じる。
「久しぶりね、ライラック」
中に上がり、扉を閉めたところで撫子さんが微笑んだ。
「十年ぶりになるか、貴殿に会うのは」
「ええ。変わりないようで、良かったわ」
この男―-ライラックと撫子さんも面識があるのか、二人は親し気に会話をする。
ライラック。
懐かしい音色に俺は目を細めた。
ファミリーで一番のデブ、ライラック。
生意気で泣き虫で、かわいい俺の弟分。
最後に会ってから、長い間会っていない。
胸に一握の寂寞が流れ込む。
新しい孤児院に移って、うまくやれているだろうか。
不安がっていやしないか。
ライラックが俺を一瞥した。
まるで誰だこいつは、と言わんばかり。
こいつも混血なのだろうか。
見た目からは判断できない。
俺は腹に力を込めて、ライラックの黄土の瞳を見上げた。
「桜だ。K機関支部で棗たちに協力している。今日は棗の命令で朝霧と撫子さんに同行している。よろしくな、ライラック」
手の平を差し出す。
ライラック、と音を転がした時、舌がひりつくような感覚を覚えた。
目を眇めると、ライラックは
「ライラックだ。……アマリリスは奥だ、入れ」
差し出された掌を見つめ、それを無視して奥へ引っ込んだ。
無視するとは何事だ。
行き場を失った右手を拳にする。
初対面の人間を警戒するのは当然。
誰だって、大事な話があると言われた局面で、知らない人間が現れて、いきなりよろしくと言われれば怪訝に思うだろう。
信頼を得るのは、難しい。
拳を握りしめる俺の頭を気にするなと言わんばかりにぽむぽむすると朝霧と撫子さんはライラックの後に続いた。
内装はクリーム色の外観に合わせているのか、黄味の強い壁と白い柱で成っていた。
ライラックはまっすぐに目の前の扉を開けて室内へ向かう。
見渡してみるが白い廊下に階段は見当たらない。
外から見た仮設住宅は背の低い造りだった。
恐らく一階建てになっているのだろう。
室内は四畳程の広さで、四角く小型のテーブルが敷かれている。
これまた小型なテレビがあることから、お茶の間と見て取れた。
昼時だというのにカーテンは閉めてあり、蛍光灯の白々しい光が室内を照らしていた。
「アマリリス、入るぞ」
さらに奥に続く引き戸に向かってライラックが声をかけ、開いた。
薄暗い。
まず思う。
電気がついていない。
カーテンからもれる陽光のみが部屋に差し込んでいる。
八畳くらいの部屋には家具がなく、異質な、夏だというのに冷気ともいえる空気が流れていた。
空気は澱のように流れることなく滞っており呼吸の苦しい場所。
中央に、床にそのまま座り込んでいる人物。
「十年ぶりね、アマリリス」
撫子さんの声にその人物―-アマリリスはかすかに身じろぎをしてこちらを見た。
彼女は、あどけない少女だった。
どう見繕ったって十代前半に見える。
真暗なワンピースに身を包んだ少女は淡雪のような、暗い中でも浮くほど白い肌をしている。 細い脚には黒紐が絡む。
美麗な輝きを持つ黒髪は肩口でそろえられたボブ型で、しかし顎周りは頬を包むように長く、胸元まで伸びている。
頭上にある少女の頭よりも大きい真白のリボンは生きているようにぴくぴくと動いていた。
……以前梔子に強制され装着した猫耳カチューシャを思い出す。
ええい、出てくるな!
少女の緋色の瞳は無表情。
混血の吸血鬼の穏便派の筆頭。
それがこれほどに幼く見える少女だとは。
驚く俺を撫子さんが手のひらで示す。
「この子は桜。桔梗の息子よ。今日はあなたにお願いがあって来たの」
いつの間にかライラックはアマリリスの傍らに立っていた。
四つの瞳に見つめられ、撫子さんは語りかける。
棗の計画のすべてを―――。