14.十年前
遠い昔、ボクたちは生まれた、と棗は言葉を紡いだ。
何百、何千と昔、ある日突然ボクたちはこの世に生まれ落ちたのだ、と。
始まりは覚えていない。
目を開くとそこ名も知らぬ世界で、生まれたばかりの赤子のように無知だった。
裸のままあるものは路上に、あるものは道の真ん中に、ただただ存在していた。
知っていたのは、自分は人間とは違う生き物、吸血鬼。
しかもその最たるるものであり、仲間があと四人、この世界のどこかにいる、ということだけ。
棗は、仲間を探した。
世界中にいるたった四人の自分と同じ境遇のモノを。
そして最後に出会ったのが、桔梗だった。
この国、日本で、出会った。
純血の吸血鬼、という呼び名はのちに人間が自分たちに付けたモノだ。
その呼び名で言うならば、自分たちはまさしく純血の吸血鬼。
気高き何の混じりけのない吸血鬼の血をその身に流す。
だが、桔梗は同じ純血の吸血鬼である棗たちから見ても異質だった。
既に出会っていた三人でお互いの共通点を話し合って知った、純血の吸血鬼の特徴。
第一に、瞳が常に血のような赤であること。
しかし桔梗の瞳は群青色に瞬いていた。
桔梗ただ一人が、群青色の瞳を持っていた。
第二に、昼の間、力が多少弱まる。
正確には太陽のもとに出ると、だが。
これも他の四人とは違い、桔梗は不思議なことに太陽のもとに出ると力が増すのだ。
もっともこれは桔梗の能力に関係していそうだが。
第三に、純血の吸血鬼には一人ずつ能力がある。
棗なら重力操作。朝霧なら人体破壊など。
主に戦闘に役立つ能力をそれぞれ持っていたが、何故か桔梗の能力は花を咲かせる、というものだった。
姉御気質だった桔梗は珍しく照れて頬を染め、、恥ずかしそうに頭を掻いていた。
「あたしらしくないな」と。
どこにでも誰にでも何の種類の花でも咲かすことができる、という乙女な能力は確かに桔梗には似合っていなかった。
第四に、鏡に姿が映らない。
第五に、不老不死。
この二つだけが、桔梗と棗たちの共通点だった。
それでもボクたちは家族だったんだ、と棗は言った。
腰まで届く長い蒼の髪。
群青の瞳は常に好奇心でらんらんと輝いていた。
白のタンクトップは豊満な胸のふくらみで縮み、いわゆるへそ出しスタイルになっていた。
青色のジーパンをはき、仁王立つその姿は男気溢れており。
細かいことは気にせず、豪快に笑い、けれど誰よりも涙もろい。
人間よりも人間らしい。
それが棗たちが知る桔梗という吸血鬼だった。
✞
話を聞きながら俺は思う。
やっぱり母さんは、昔から母さんなんだな、と。
俺の知る母さんも、棗が話す通りの母さんだったから。
美人なのに大口を開けてガハハハと笑い、「寝る前に本を読むぞ!」とフランダースの犬を持ってきて、途中で自分が大泣きしてしまう。
太陽みたいに、あったかい人。
✞
何百年も、それからは五人で時を生きてきた。
棗が言う。
数えるのが馬鹿馬鹿しくなるくらいに、長い間、世界を巡り。
最終的に落ち着いたのが、桔梗の生まれた日本だったと。
日本には他国にはないものがあった。
戦争による怯えも、感染症に苦しむ危険もない、命の持続が簡単に成せる、唯一の国。
医療も環境も何もかもが進行していった現代。
叶わないと思っていた、人間と吸血鬼の共存。
世界は優しい時を築いていく。
この世界が好きだと、桔梗は言った。
美しいものも醜いものもこの世界にしかないもので。
どれほど長く生きても、この世界にあるものすべてを知ることはできない。
そんな雄大で絶大な存在の、青い青い惑星。
まるで宝物でも夢見るように語り、優しく微笑んだ。
結婚する、と桔梗が言ってきたのは、それから数日後のことだった。
当時、とあるアパートの一室に五人で暮らしていた棗たちは突然の発言に文字通り目をむいた。
混血の吸血鬼と人間の結婚ならまだしも、純血の吸血鬼と人間の結婚など、初めてのことだったから。
長い年月を生きてきて、この時ほど驚いたことはない。
桔梗に恋をする、という概念があったとは誰も思っていなかった。
同じ女である撫子でさえも。
アパートに相手の男を連れてき、指さして結婚すると、ふんぞり返る。
文句は言わせない。
瞳はそう言っていた。
相手の男は線の細い体つきで、不健康に痩せていた。
毛玉だらけのあずき色のセーター。
よれよれのシャツの襟。
伸び放題の無精髭と、酷い猫背。
あちこちはねまわった黒髪。
フレームの曲がった眼鏡の奥で気弱そうな瞳は怯えていた。
いきなり純血の吸血鬼の前に突き出されたのだから、無理もない。
付き合っている彼女に連れられて家に上がると、いきなりご両親にご挨拶してと言われたようなものだ。
自分が純血であることは話してある、と桔梗は言った。
「ど、どどどうもはじめまして、木槿といいいいます」
明らかに動揺している声で、男――木槿は言う。
緊張に強張った顔。
枯れ木のような体はかわいそうなくらいに震えていた。
四人の反応は様々だった。
朝霧はキラキラと瞳を輝かせて喜び、撫子は「初めまして」と優美に笑んだ。
薔薇は、「なんだこのもやしは」とうさん臭そうに言い、棗は複雑に哂った。
結婚に反対の意見は誰もなかった。
誰だって、家族の結婚は少し寂しいような、それでいておめでたいと思うものだから。
薔薇なんかは普段ガサツな桔梗が木槿の前では時々乙女チックになるのを面白がっていたが。
✞
木槿。
父さんの名前。
懐かしさに、胸がしめつけられる。
父さんは見た目は根暗で小動物みたいだけれど、自分の夢をいつまでも追い続ける、一生懸命で心の熱い人だった。母さんと一緒になって小さなことにも興味を持ち、子供のように瞳を輝かせる四十歳過ぎの男。
今思い出しても笑える、そのアンバランスさ。
生まれてきた子供が二人とも母親似のものだから、その話題について話すときはいつも相好を崩して幸せそうにしていた。
何度も何度も「桔梗に似て可愛いなぁ」と呟いていたのを覚えている。
梨花の知能指数(IQ)が高かったことが唯一、父親似といえるものだと知った時の、はしゃぎよう。
本当に……懐かしい。
✞
木槿は見た目からもわかるように、研究者であった。
能力は高く、優秀ではあったが、なにぶん要領が悪かった。
日の目を見ることのない、無名の研究者。
「君と安定した家庭を築いていける自信がない」と悩む木槿に「つべこべ言わずにあたしと結婚しろー!」と桔梗は言った。
強引に押し切っての、結婚だ。
そして数年後、子供が生まれた。
桔梗という純血の吸血鬼の血を受け継ぐ桜と。
桔梗に生き写しな、梨花。
不思議なことに、妹の方である梨花には吸血鬼の血が一切受け継がれていなかった。
容姿はまるで桔梗なのに。
子供たちのためにもより一層家庭を安定させようとそれまで以上に研究に取り組む木槿には、同志と呼べる一人の男がいた。
無名であるにもかかわらず、木槿の優秀さを認めており、男が建てた独自の研究所で二人仲良く研究に明け暮れ。
木槿とは幼馴染でもあり、同じ夢を追い続ける、真の意味で二人は同志だった。
男は、鈴蘭、といった。
嬉々として木槿が鈴蘭を棗たちに紹介してきたのはいつだったか。
眩しいまでに白い白衣を着こなし、艶を帯びた黒髪をオールバックに整え、グレーの瞳は鷹のように鋭く光る。
固く、ピクリとも動かない表情には愛想のかけらもない。
木槿とは正反対の人種だった。
「初めまして。木槿の友人の鈴蘭だ」と折り目正しくお辞儀をしてくる鈴蘭を木槿は気持ち悪いくらい褒めちぎった。
「彼はね、すっごい人なんだ。良家の一人息子なのに、両親の反対を押し切って僕とともに研究への道を進んだんだ。自分の理想に揺るぎのない信念を持っていて、飛躍した発想からその理念に近づく道を何度も見つけ出していて……」
自分のことのように話す木槿の隣で鈴蘭は眉ひとつ動かさず、微動だにしなかった。
まるでそんな褒め言葉は当然だという風に。
しかし、耳まで真っ赤に染まっていたのは、羞恥からくるものだっただろう。
二人はお互いにお互いを同志だと語り、二人三脚で研究の成果を上げていった。
だが、崩壊は何の前触れもなくやってきた。
『 結 晶 病 』
二千五十年に突如発生したその病に人類は蹂躙されていった。
多くの医者や研究者が『結晶病』の治療法を発見しようとし、できなかった。
木槿や鈴蘭もしかり。
次第に研究所にこもりがちになる木槿。
天井に取り付けられた電気は真っ白の研究所を照らす。
机の上にくしゃくしゃのルーズリーフを広げ、何度も何度も黙考する。
桔梗には何が何だかわからない論理を展開し、亡霊と化したふうにぶつぶつと唇の裏側で何事かを呟いている。
彼の考え全てを理解をすることはできない。
それでも、あたしがついている。
木槿の傍には、あたしがいて、何があっても支え続ける。
いつでもポジティブシンキングの桔梗はこの時も明るく立ち回り、毎日研究所を訪れた。
木槿の好きな、梅こんぶ茶を水筒に入れて。
合鍵を取り出して扉を開くと、いつも通り、木槿は顕微鏡のレンズをのぞいては、ルーズリーフに書き込みをしていた。
「木槿、元気してるかい」
と声をかけながらその背中に近づく。
数歩歩を進めて、足を止めた。
木槿のつぶやきが聞こえてきたからだ。
「このウィルス、細胞の破壊速度が通常の数値を大幅に超えている。これでは人間の治癒能力がどれほど力を尽くしても追いつかない。どうすればこのウィルスの活動を止めることができる?どうすれば。どうすればどうせればどうすれば―――」
負の感情ではなかった。
答えが出ないことに憤っているわけでも、焦っているわけでもない。
純粋な好奇心からの言葉だった。
なかなか結論を出せないのが、もどかしいと思っているのか、せわしなく瞬きを繰り返す。
おいおい、愛すべき妻が来たというのに、無視するとは何事だ。
腰に手を当て、吠える。
「こらー!あたしを無視すんな!」
突然の大声に木槿は情けなくもとび上がり、椅子から転げ落ちた。
逆さまにずり落ちた木槿に慌てて駆け寄ると、ぱちくりと目を瞬かせ、
「や、やあ」
今気づいた、という風な声を出した。
夢から覚めたばかり、と焦点の合わない瞳を向けてくる。
やっと桔梗と目が合うと、頬を弛緩させて子供っぽく笑った。
耳に引っかかって垂れ下がっている眼鏡を両手で直し、立ち上がる木槿に、
「大丈夫かい?派手に転んでたけど」
と声をかける。
が、当の本人はのん気なもので。
「平気だよ、これぐらい」
研究所には木槿ただ一人だった。
もともと木槿と鈴蘭の二人だけの研究所なので、鈴蘭がいなければ木槿は一人で研究に没頭することになる。
寂しくは、心細くは、ないのだろうか。
いや、研究に没頭すると平気で何日も食事を忘れてしまうような男だ。
そんな感情など抱いたことがないに違いない。
隣の鈴蘭のデスクから椅子を持ってきて、木槿の向かいに座る。
改めて見ると、やはり木槿は前より痩せえていた。
元から痩せてはいたが、最近研究漬けだからか、拍車がかかっている気がする。
過去に食事のとらなさすぎで倒れたことが何度もある、心配だ。
「研究はどうだい?」
尋ねてみると、そう、そうなんだよ!と木槿はえらく興奮した声を上げた。
先程まで自分が覗いていた顕微鏡を指し示し、見てごらん、という。
どれどれとレンズを覗き込んで、桔梗は思わず吐息を零した。
小さな視界の中に無数の煌めきが飛び込んでくる。
宇宙のように黒い点から、剣山のように鋭い針がざくざくと飛び出す。
そのたびにキラキラと光が反射して角度を変え、幻想的な世界を創り出していた。
かつて覗いたことのある、それは万華鏡の世界にとてもよく似ていた。
悪魔のような力のウィルス。
その姿は非常に美しく、まさに『結晶病』の名にふさわしいモノであった。
レンズから目を離した桔梗は感想待ち、という風に期待に満ちた瞳で見つめてくる木槿に「すげー綺麗じゃないか」と素直に話す。
にっこりと笑う木槿だったが、すぐに表情を引き締めてしまった。
「だが、美しさに反して、『結晶病』はとても恐ろしい病だ」
「まだ、治療法が見つかってないんだもんな」
「それもある。それ以上に恐ろしいのは、『結晶病』の驚異的な細胞破壊速度なんだ。本来人間の体内には侵入してくるウィルスに対抗する力がある。分かりやすく言うと、治癒力や回復力と呼ばれるものだね
ね。人間の治癒力は余程のことでない限りそう簡単にウィルスに屈服するものじゃない。それくらい人間は強い生き物なんだ。だから、『結晶病』のウィルス――結晶ウィルスが破壊した細胞を人間の治癒力によって人間は結晶ウィルスにあらがおうとしている。が、結晶ウィルスの破壊速度に人間の治癒速度が追い付かない。その結果、一日というわずかな時間でこのウィルスは人間を殺してしまうんだ」
眉間にしわを寄せる。
「……わからない……」
「わからない?」
「うん。『結晶病』が生物から生物には感染しない、というのは知っているかい?」
「あ、ああ。特に条件があるわけではないんだってことぐらいなら」
「そう。常に無差別に、何の前触れもなく感染する。唾液感染も飛沫感染もしない。直前の症状もなく、気が付けば感染している。何より、やはり、結晶ウィルス破壊速度が尋常じゃない。ここまで破壊だけに特化しているウィルスを僕は見たことがない。まるで、まるで人類を滅亡させるためだけに生まれてきた病としか考えられない……」
途中からは桔梗に話している風ではなかった。
独り言のように呟き続け、物騒な言葉を最後に沈黙してしまった。
早口なうえに桔梗にとっては難しい話だ。
半分も理解できずに、くらくらする頭を乱暴にかき乱した。
押し黙っている木槿の瞳は透明で、ここではないどこかを見ていた。
きっとまた頭の中で数々の仮説を組み立てているのだろう。
思考が止まらなくなると木槿が押し黙るのはいつものことだ。
これは当分帰ってこないな、と諦めると、手持ちぶさたに室内を見回す。
木槿の隣にあるデスクは鈴蘭のもので、木槿とは違い綺麗に整頓されている。几帳面で神経質な鈴蘭らしい。
当の本人は外に出ているらしい、今は留守だ。
反して木槿のデスクは汚いなーと心の中で嘆息する。
鈴蘭の整頓されつくしたデスクを見た後だからか、なお一層それが際立つ。
壁にだってあんなに写真を張りまくって……。
何十枚も並ぶ写真を見上げていると、そのうちの一つに目を吸い寄せられた。
「これ……」
それは、結晶病感染者の遺体を写した写真だった。
研究に必要なことはわかる。
けれど、遺体の姿を写真におさめるなんて。
異常なことに、すぐにはそんな感情が湧いてこなかった。
ただただその写真に魅入る。美しかった。
遺体は女性のもので、衣服は取り払われて全裸の状態だった。
皮膚は黒く変色し、星のような無数の煌めきが瞬いている。
所々に青白い色が見え、まるで宇宙と空が同席しているかのようだ。
一つの優れた美術品。
そんな美しさが写真から伝わってくる。
突如人類を襲った『結晶病』は、残酷な悲劇と夢を運んでくるモノだと、桔梗は思った。
そういえば梅こんぶ茶を持ってきていたなと、桔梗が思い出したのはそれから数分後のことだった。
それも、
「ところで桔梗。その手に持っているのはひょっとして梅こんぶ茶?」
という木槿の発言によって、だ。
いつの間にかこちら側に帰ってきていたらしい。木槿は疑問を問うてきながら、実際は確信しているのだろう、喜色満面だ。
「え?……あ、そうそう。わっすれてたよ、せっかく持ってきたのにさ。今から淹れるな」
悪い悪いと頭を掻きながら詫びる。
今から淹れるな、の言葉に木槿は肩をはね上げ、居住まいを正した。
待ち遠しいのか、体を左へ右へと揺らす。
デスクの上にあるはずの木槿のマグカップを紙束の間から苦労して探し出すと、軽く埃を払ってから水筒の中身を注ぐ。
普通は埃がついていたら洗うものだが、桔梗の性格からしてその選択肢はない。
木槿もそんな些細なことを気にする性格ではなかった。
コポコポと音が立ち、独特な酸味の香る湯気が立ち上がる。
緑のカエルがプリントされた木槿のマグカップを「ほいよ」と手渡すと、すっかり鼻の下を伸ばしてだらしなく、木槿は笑った。
「ありがとう、桔梗」
どういたしましてと返しながら、木槿の無邪気な笑みに胸がこそばゆくなる。
照れくさくなって、桔梗は頭を掻いた。
湯気で曇った眼鏡の向こうで木槿は自分の妻の可愛さに優しく瞳を細めた。
次いで、自分が猫舌なことも、梅こんぶ茶が適温以上に熱い事も忘れてぐいとマグカップを傾けた。
「!あっつ……っ!」
舌を突き刺す熱の痛みに思わず声を上げると、反射的にカップから手を放してしまう。
あっと思った時にはもう遅かった。
手元を離れたマグカップは派手な音を立てて割れ、デスクに深緑色の液体が広がっていく。
液体はデスクの縁からあふれ、床にぽたりぽたりと滴を落としていく。
「木槿!」
火傷を心配して訪ねてくる桔梗に「へーきへーき」答える木槿。
実際服に汚れた様子がない事に桔梗は胸をなでおろした。
自分の失敗に取り乱したようにおろおろし、割れたマグカップと、デスクに広がっていく液体とを交互に見比べている姿はつい先ほどまで難しい話をしていた姿とは全く似ても似つかないものだった。
零れた液体の近くには顕微鏡とシャーレに入った結晶ウィルスもある。
普通は研究者として、そちらを優先するはずだ。
それなのにどちらから先に取り掛かるのがより効果的かを考えている木槿。
相変わらずどんくさいなぁなんて思っていると、あろうことか危なっかしい手つきで割れたマグカップの山に手を伸ばすものだから、たまったものではない。
「木槿!こっちはあたしがやったげるから、あんたはそっち拭いてな」
慌てて止めに入ると木槿は不思議そうな顔をしたものの、素直に頷いてくれた。
ふう。
そんな危なっかしい手つきで片付けなんかされちゃあ、怪我するに決まっているからな。
胸の内で呟くと、いびつに割れたマグカップに手を伸ばす。
カエルの絵がバラバラになっていて、何だか悲惨だ。
早く片付けてしまおうと破片の一つをつまみ上げようとしたら、チクリと指先に痛みが走った。
自分が吸血鬼だからか、久しぶりの痛みの感覚に破片を取り落すと、デスクの上に血が点々と飛び散った。
見ると人差し指に赤い筋が流れてる。
そうとう深く切ったのか、人の血よりも鮮やかな赤い血は溢れ出して止まる気配はなかった。
しかし、そこは吸血鬼。
木槿が心配して覗き込んでくるころにはすでに傷は癒えていた。
「大丈夫?桔梗」
「ん?……まぁ、あたし吸血鬼だしな」
ひらひらと手を振って何でもないとアピール。
あ、でも、と桔梗は続けた。
「血、けっこーでてさ。飛び散っちまったから、あんたが観察してたウィルス、汚してないか?」
「え?」
たぶん大丈夫だと思うけれど。
言いながら、顕微鏡のレンズを覗き込む木槿の顔色が変わったのは、それからすぐのことだった。
「……なんだ、これは……」
驚愕に満ちた声がふわふわと洩れる。
ただならぬ様子にどうしたんだい、と声をかけるが、木槿の耳にはまるで入っていないようだった。
極限まで見開かれた瞳が何をとらえているのか。
調節ねじを回す指が震え始め、ごくりと生唾を飲み込む音が響く。
顔色は酷く悪く、亡霊のようにうわごとを紡ぐ。
「ありえない。この細胞の回復速度は何なんだ。結晶ウィルスと互角?人間の治癒力では結晶ウィルスの破壊速度には対抗できないというのに……?凄い、凄いぞ。結晶ウィルスが細胞を破壊するたびに細胞が再生していく。……だが、そうさせているモノはなんだ?……桔梗の血?桔梗……、桔梗、いや、吸血鬼の、血……」
早口のそれらに桔梗は全くついていけなかった。
だが、
「……そう、か……」
と言ってレンズから目を離した木槿の様子から、何かまずいことになったのだということは、察せられた。
どさりと椅子に倒れ込むと、木槿は顔を手で覆い、うなだれてしまった。
まるで投げやりな座り方はどこか木槿らしくない。
「悪い。あたし何かまずかったかい?」
「……いや、違う。そうじゃない、そうじゃないんだ。桔梗、君は……、何も悪くない」
ゆるゆると首を振る。
そして一言。
「酷いことが起こる」
「酷い……こと?」
「……いいかい、桔梗。今から僕が話すことは他言無用だ。棗さんたちにも、秘密にするんだ。僕と君、二人だけの話。……できる?」
いつになく真剣な瞳。
棗たちにも秘密、というところが気になった。
が、こんなに何かに疲れ切った、悲しそうな顔をした木槿を見たことがなくて。
桔梗は気圧されるように、頷いた。
そして語られた内容は、世界を揺るがすモノだった。
「まず、顕微鏡をのぞいてみて」
「?」
言葉の真意の分からぬままに言われた通りレンズをのぞいて、あっと声を上げた。
レンズの中の景色が、先程とはまるで違っていたからだった。
美しさのかけらもない。
そう思った。
赤色の世界で、結晶ウィルスと呼ばれる黒い点は針を出したりしまったりとぎこちない動きを繰り返していた。
細胞と混ざり合っては進行と退避を繰り返す。
その姿はグロテスクで、桔梗は自分の目を疑った。
「何でこんなことになってんだい?」
「君の血が、シャーレに入ったみたいなんだ。レンズ一面が赤いのは君の血が影響している。そして、ここからが本題だ。結晶病が一日で人を死に追いやるのは、結晶ウィルスの細胞破壊速度が人間の治癒力をはるかに凌駕するから、という点は理解できるかい?」
「うー、ん、まあ。なんとか」
「つまり、人間が結晶ウィルスの細胞破壊速度を凌駕する治癒力を持っていれば、結晶病で死ぬことはない、という仮説が生まれてくる。これに気づいたのは、このレンズをのぞいた時だ。あれほど活動的だった結晶ウィルスがぎこちない動きを繰り返す。まるで進行を阻まれたかのように。何故だと思った時、理解できた。人間の治癒力を上回る治癒力を持ったモノがいることに」
「……それは」
「うん。君たち吸血鬼だ。吸血鬼は人間をはるかにしのぐ治癒力を持つ。その力が、結晶ウィルスが破壊した細胞を再生したんだ。どこまで再生できるのかはまだ未知数だが、一つだけ言えるのは、吸血鬼の血があれば、結晶病の進行を抑制することができる、ということだ」
それはまさに、地球の地軸を叩き壊すほどの発見。
偶然がもたらした功績は大きい。
この情報で、世界中の結晶病患者が助かるかもしれない。
……だが、何故これほどの話を木槿は他言無用だというのか?
「凄いじゃないか、木槿!これで結晶病に苦しむ人たちが助かるな!」
「この話は他言無用だと言ったはずだよ。僕はこの話を公表する気はない」
「な、何でだよ!」
戸惑う。
多くの人を助けたい。
それが木槿の夢だったはずだ。
木槿の仮説が真実なら、日本だけではない。
世界中の人たちが木槿のおかげで助かる。
それに、結晶病の治療法を一番最初に発見した者として、望んではいないだろうが、名声さえ、手に入れることもできるだろう。
比喩でも誇張でもなく、木槿は人類の英雄になれる。
なのに、どうして。
「世間に公表すれば、人間はきっと、吸血鬼を虐殺してしまうからだよ」
苦しそうな声だった。
確証はないはずなのに、木槿は見てきたかのように断言した。
喉から絞り出す、掠れて消えそうな声。
痛みをこらえて、けれど堪え切れずに揺れる悲しみの眼差し。
悲しいのは、苦しいのは、人間が吸血鬼を殺すからなのか、吸血鬼が人間に殺されるからなのか、または、その行為自体なのか。
桔梗は予想外の言葉に、何も言い返せなくなる。
「今の世界の在り方は君も知っているだろう?結晶病で人が死にすぎた。政治が機能していない国もある。少しずつだが、デモも多くなっている。身寄りのない子供たちも増えている。皆、精神が病んでいっているんだ。そこに吸血鬼の血があれば助かるかもしれないなんて、知ったらどうなるか……。お腹が空いた猛獣の前に食料を積むのと同じことだ」
「話し合って、あたしたちの血を分ける、という手はないのかい?」
「話し合いは意味をなさないだろうね。数億の人間に対して君たち吸血鬼の数は数千人ほど。分け与えるとしても、手が回らないはずだ」
「でも、黙ってたらこれからも人が死ぬ。人を助けることが、あんたの夢だったろ?」
「公表すれば、吸血鬼は世界中の人々に狙われることになる。……君も……。桔梗!君も例外じゃないんだ!僕はっ、君を失いたくないっっ……!」
椅子を倒して立ち上がると、木槿は声を荒げた。
いつの間にか話し合いに熱が入っていたようだ。
二人は肩で息をしながらしばらく見つめ合っていたが、やがて眼鏡の位置を直しながら木槿は言った。
「ごめん、怒鳴ったりして。……僕の夢を大切にしてくれて、ありがとう。だけど、君を失いたくない。その気持ちも、理解してほしい。時間をくれないか。必ず、他の治療法を見つけて見せるから。だから、どうか、それまで、二人だけの秘密のままに……」
あたしの命なんて惜しむ必要なんてない。
言いかけた言葉を飲み込む。
事は自分の命だけではとどまらないと気付いたからだ。
公表すれば、自分だけではない、世界中の吸血鬼の身も危険にさらされることになる。
逆に、公表しなければ人は死に続けるだろう。
「このままでは、戦争が起きてしまう……」
血を吐くような、苦痛に満ちた声。
大丈夫だと笑い飛ばすことも、励ましの言葉をかけることもできず。
桔梗は沈痛な面持ちで、木槿に寄り添った。
胸を満たすもやもやに不快感を抱きながらも、翌日、桔梗は木槿の研究所を訪れた。
木槿が考えすぎていやしないかと心配だったからだ。
そうして訪れた研究所に踏み込んで、すぐに異変に気付いた。
木槿が、デスクに突っ伏していたのだ。
寝ているのか、と思ったが、どうやら違う。
物言わぬ背中に不安が込み上げてきて、大きく肩を揺さぶると、木槿の体はぐらりと傾き、椅子からずり落ちた。
ぐったりと、だらしなく、四肢を投げ出し、崩れ落ちていく。
その顔には何の表情もない。
静かに瞼を閉じ、眠っているかのように見えた。
だけど、桔梗には分かった。
何百、何千という時を生き、何千、何万もの人の死を見てきた桔梗には、木槿が死んでいる、ということが。
死のにおいが、木槿の体にまとわりついていた。
触れた木槿の額が、怖いくらいに冷たくて、石のように固くて。
どうして。
まず思う。
それから、嘘だ、と。
息が苦しい。
眩暈がする。
あまりに唐突すぎる、別れ。
病院に搬送され、医師が下した死因は、心臓麻痺だった。
元々体が弱かったうえに、研究に根を詰めすぎた。
ストレスからくるものだろう、と。
✞
父さんの葬式を思い出す。
カメラに向かってってふにゃふにゃなピースサインをおくっている遺影。
箱の中の蒼白いと父さんの眠った顔。
泣きじゃくる梨花を抱きしめながら、いつまでたっても泣かない母さんを俺は心配していた。
フランダースの犬で大泣きしてしまうような人だ、きっと悲しくて悲しくて潰れてしまいそうなはず。 だけど、母さんは俺たちに一度も涙を見せなかった。
俺たちの知らないところで泣いていたのかもしれないが、悲しむそぶりもなく毅然としていた。
俺は、とてもじゃないが、そんな母さんを見ていられなかった。
✞
桔梗は木槿の死を不審に思っていた。
木槿なら悩みすぎてもおかしくはない。けれど、結晶病の治療法が分かってすぐに死んでしまうなんて。
それに、鈴蘭は木槿が死んでから、一度も研究所を訪れいない。
鈴蘭は桔梗たちの前から姿を消した。
木槿の葬式にも来なかった。何か知っていることがあるのでは……。
結晶病と吸血鬼の関係について、棗たちに話そうかとも考えたが、木槿との秘密を守りたいと望み、打ち明けることができずにいた。
だが、木槿が死んで数週間後、気を切り詰めていく桔梗は、思わぬタイミングで鈴蘭と再会を果たした。
ブラウン管を挟んだ、テレビの画面の中で。
白衣を着た鈴蘭と。
どうしてそんなところにあんたがいるんだ。
嫌な。
たまらなく嫌な予感がした。
いくら尋ねても彼は答えない。
桔梗の声の届かぬ世界で、彼は厳かに言葉を紡いだ。
『世界中の皆さん、よく聞いてください。結晶病の治療法が見つかりました。
吸血鬼の血です。吸血鬼の血を体内に取り込むことで、結晶病の進行を数日ほど、遅らせることができるのです。これは我々人類にとって大きな希望となるでしょう』
画面の下には、赤文字で大きく『研究者鈴蘭の発見!結晶病の進行を遅らせるモノは、吸血鬼の血!?』と表示されている。
インタビュアーの持つマイクに向かって、鈴蘭は厳格に、どこまでも傲慢に。
『彼ら吸血鬼には、我々人類の希望の糧となってもらいましょう』
宣告した。
―――それからほどなくして戦争が始まった。人間と吸血鬼の戦争、『吸血鬼狩り』が―――