13.純血
泣き止んだとたんに押し倒してきた棗に抗議の声を上げる間もなく、
「桜の家族を、危ない目に合わせたこと怒ってないの?」
両頬を腫れあがらせ、泣きはらした瞳で鋭い問いを突き付けてきた棗はやはり絶対的強者なのだと思った。
梨花を誘拐したことか。
ファミリーのみんなのことを言っているか。
孤児院を壊した責任でも取るつもりだろうか?
どんな罵詈雑言甘んじて受ける、そんな顔をしている。
棗たちを許せない。その気持ちはある。
だけど、
「あれは全面的に『吸血鬼の血』を盗もうとした俺が悪い。お前のやり方も、ファミリーの皆を襲ったことも怒ってるし、絶対許せねーけど、やっぱり結局は俺のせいで皆を巻き込んだ。……それに、お前はみんなを殺さないでくれただろう」
ニッと笑う。
俺の上に馬乗りになって見下ろしてくる棗の額に拳骨を食らわせると、アスファルトの上に仰向ける。
青く澄み渡った空を見上げた。
『吸血鬼の血』を盗んだ者は殺されて当然だ。
なのに院長先生はあれだけの浅い怪我ですんだし、誘拐された梨花は撫子さんの血で生きながらえることができた。
大切な孤児院を壊したことは許せないけれど、それでも。
「薔薇に殺すなって、お前が言ってくれてたんだろ。……ありがとうな」
「……」
棗はつらそうにして、何も言わなかった。
やっぱり、人間を好きだといった棗は嘘じゃない。
俺が尊敬して、憧れて、好きになった棗は本物だ。
じゃあ、あの日別人のように見えた棗は何だったんだ?
爆発跡の悲惨な社長室で見た棗の笑みを思い出して、ま、いっか、とその姿を遠い彼方へ追いやる。
「……簡単に許されるつもりなんて、ないからね」
拗ねたように睨めつけてくる棗に、俺はわざと大袈裟な溜め息を吐いてみせた。
数分前まで大泣きしていた奴が何を偉そうに。
棗をあそこまで追い詰めることが、泣くほどのことが、あったのか。
「俺だって、お前たちを裏切っただろ」
「桜はしょうがないよ、梨花が【結晶病】にかかったんだもん。ボクは、桜たちを巻き込まないことだってできたのに、それを利用したんだ……」
「そう、それ。ちゃんと全部説明してくれよ、棗」
唇を尖らせると、はっと顔色を変えて、棗は俯いてしまった。
俺が着ているタンクトップの胸元をきゅうっと握りしめ、哀愁をたたえた影をその顔に落とす。
「うん。話すよ、桜に。ちゃんと」
「……おう」
低く囁かれた言葉がひっそりと、だが重く響いた。
棗の計画。
朝霧を必要とする理由。
何も分からないまま、ただ俺は生き残ろうと必死だった。
知りたい。
棗が泣く程に傷つくことが何なのか。
何故、俺達を巻き込む必要があったのか。
全てを話すと約束してくれた棗に頷き返すと、俺は朝霧の腕から梨花を抱き上げる。
ありがとうと言えば、朝霧は礼を言うのはこちらのほうだと言い返してきた。
✞
太陽が真上に上り、支部に戻ると玄関前に二つの人影が立っていた。
不安そうに表情を曇らせた撫子さんと、相変わらず両目を包帯で覆っていて表情の窺えない男――薔薇だ。
二人はこちらに気づいた様子だったが、そのままその場に立ち、俺たちが、いや、棗が目の前に来るのを待っている。
先頭に立って歩いているのは俺。
右に朝霧。
左に棗。
その隊列から二人はことの成り行きを察したのだろう。
二人の手前で俺は足を止める。
ハンと薔薇が鼻で笑う。
撫子さんは切なげに瞳を細め、言いよどむように唇を震わせていた。
「ただいま、撫子、薔薇」
暗い影を残して棗が薄く笑うと、撫子さんはハッと目を見開き、
「まさか……」
「決めたんだ。桜に、ちゃんと言うよ。だから撫子も薔薇も、一緒に来て」
薔薇も、のところを強調して言う棗に「はァ~?」と不服そうな声を上げる薔薇。
その声を黙殺すると、棗は社員カードをスキャンさせ、左右に開いていく扉をくぐる。
不平を言いながらも楽しそうな笑みを口元に浮かべ、棗の後に続く薔薇。
撫子さんは二人を見送った後、俺を見た。
「サクくん、梨花ちゃんをわたくしの部屋に寝かせてあげてもいいかしら。棗様の話を彼女に聞かせたくないの」
棗の様子からも撫子さんの言葉からも、気持ちのいい話ではないのだということは察せられた。
「ああ……、そうだな。頼む、撫子さん」
撫子さんにそっと梨花の体を預けると、撫子さんはそのまま行ってしまった。
俺もポケットから社員カードを取り出し、後を追おうとして。
後ろで静かな朝霧を振り返り、尋ねた。
「朝霧は、棗の話…もう聞いて知ってるんだよな?」
「……ああ」
俺の言葉に苦渋に顔を歪めた朝霧は、俯いて答えた。
✞
爆発の被害でいまだ修理中の社長室の代わりだと言って棗は俺を薔薇の部屋に案内した。
幹部たちの部屋は最上階の五十階より一階下にある。
四十九階に手前から蓮、撫子さん、薔薇、と一室づつ設けられており、梔子だけは例外で、常に研究室で過ごしている。
蓮や撫子さんの部屋には入ったことがあるが、薔薇の部屋には初めて入る。
薔薇のことだから、普通の部屋ではないんだろうな。
さて、どんな変わった部屋が待っていることやら。
隣の部屋から梨花を寝かしつけた撫子さんが出てくる。
それを見届けてから、棗はカードをスキャナーに差し入れた。
扉が左右に開いていくのを辟易しながら待つ。
やがてあらわになった部屋の中に、
「蓮っ、梔子!」
知っている二人の人影を見つけ、俺は思わず声を上げて駆け寄っていた。
家具がシングルベッドだけのシンプルすぎる部屋の内装よりも、二人の姿に目を奪われてしまう。
俺を助けたことは棗たちに知られているはずだ。
梔子は通信が途中で途切れたし。
どこか怪我はないかと二人の体に目を走らせるが、それらしい外傷は特にない。
「だ、大丈夫なのか!?何かされてないか?怪我とか……」
「煩いですよ、桜くん」
『君に心配される謂れはない』
……あ?
何か、脱走するときと態度が明らかに違うような。
「お前らなあ!俺がどれだけ心配したと思ってんだ!」
胸ぐらをつかむ勢いで怒鳴ると、
「何にもありませんよ」
と、蓮が言った。
「は?」
「ですから、今回僕たちが君の脱走を手伝ったことに関して、僕たちには何の罰も与えられていません」
耳を疑った。
混乱して疑問符で脳の中がいっぱいになる。
何を言えばいいのかわからずに口をパクパクさせていると、後ろから棗の声がした。
「罰なんてあるわけないでしょ?だって蓮も梔子も仲間だもん」
振り返ってみてみると、当然だというような顔の棗が立っていた。
こいつ、本当に、アホなんじゃないだろうか。
やや呆れながらも、そうか、蓮たちは大丈夫なんだなと胸を撫でおろす。
蓮と目が合うと、軽やかにウインクをとばしてきた。
たく、気障なことしやがって。
蓮は俺を助けると言った時に、棗は仲間だと信じた者にはとことん甘い、と言っていた。
つまり、今回のことは、棗が簡単に許してくれると踏んでの、軽いいたずらみたいなものだったってわけか。
相変わらずの狐野郎だ。
薔薇はニヤニヤと口元を笑みの形に引き上げ、衣服の散乱した床を歩き、ベッドのそばの壁に背中を預けると、腕を組んだ。
撫子さんは扉の入り口付近で静かにたたずむ。
棗はベッドに腰掛け、朝霧は俺の傍に、いてくれていた。
棗の言っていた話とやらが、始まるのだろうか。
だがその前に。
「蓮、梔子、本当に、ありがとな」
頭を、下げなくてはならない。
突然の俺の発言に、その場にいた誰もがきょとんとした顔を向けてきた。
気恥ずかしくて、一息で言い切る。
「危険を冒して、俺と梨花を助けてくれて。ダチだって言ってくれて、嬉しかった。朝霧も、お前にはいつも助けられてばかりだ。それから棗、梨花に血を与える許可をくれて、撫子さんも、梨花に血をくれて、ありがとう」
言葉を紡いだ喉も頬も熱い。 とても、熱い。
「そんなお前たちを、俺は裏切っちまった。梨花を助けたかった。でもその結果お前たちを裏切ったこと、後悔してる。ごめん!きっと俺はこれからも梨花が危ない目に合ったらどんなことでもすると思う。でもその時は、お前たちに必ず言う。相談する。だから、その、俺を殴ってくれ!でないと俺の気が済まない!」
実験はつらいし、死ぬかもしれない目にあったことも数えきれない。梨花にも毎日会えないし、苦しいことばかりだけれど。
優しくしてくれた。
実験体に給料をくれる。血も以前と比べて安易に手に入るようになったし、何より、近い年の友達が二人もできた。俺のことを友達だと言ってくれた。
撫子さんには弟のように接してもらったし、棗にはあらゆる面で世話になった。
そんな優しい人たちを俺は裏切って、彼らから『吸血鬼の血』を盗もうとしたんだ。
その結果ファミリーの皆を彼らが襲い、俺をおびき出すために梨花を攫ったとしても、俺は彼らを責められない。
梨花を守りたかった気持ちは変わらない。
けれどもっと何か、他にやり方があったはずだ。
だから簡単に許されるなんて、俺が嫌だ。
「ほんっとうに、殴っていいのかよォ」
「やめなさい、薔薇」
ニヤニヤする薔薇が拳を構えるのを撫子さんが止めた。
「撫子さん……」
「サクくんが棗様に迷惑をかけたこと、わたくしは許さないわ。それでも、梨花ちゃんを助けたかったのよね。そんな貴方を、殴ったりできないわ」
小首をかしげて微笑んだ撫子さんの肩で、結い上げた桃色の髪が揺れた。
肩を大げさにすくめて、蓮も笑った。
「君が僕たちを裏切れずに梨花ちゃんを見殺しにするとは思えませんしね。むしろそんなことをしたら軽蔑してましたよ」
『改めてサクラのシスコンぶりを再確認した。K機関を敵に回そうとするとは……重症だな』
「な、なんだよ、わりーかよ」
俺は梨花の為なら世界だって怖くない。
面白くない気持ちで言い返す俺を見て、棗が微笑む。
「桜がボクたちを裏切ったことは悲しいけれど、君たちを巻き込んだボクが言える義理じゃない。桜が裏切ったからこそ、ボクたちは桜たちを巻き込もうと思ったんだから。……気に病まないで」
息が。
苦しい。
蓮と梔子の目を見つめる。
こいつらがいなければ、俺は今ここにいない。
一人で何でもできる気になっていても、できないことは山ほどあって。
自分の馬鹿さ加減や、弱さに苦しくなって。それでも。
生きていく。
何度も助けてくれた朝霧を見る。
一人じゃ何もできない。
梨花も、救えなかった。
もう一度俺は、心の中でみんなに頭を下げた。
ふう。
息を吐く。
そうして深呼吸をして、もう一度、俺は棗を見た。
もう大丈夫だ。
「棗」
呼びかける。
と、棗は、
「桜はボクを好きだと言ってくれた。嬉しかったよ」
寂しそうに、微笑んだ。
それからふっと顔色を陰らせ、その真紅の瞳で、俺を射抜いた。
「僕がこれから話すのは、桔梗。桜、君のお母さんの話だ」
俺と梨花の母親の名前。
何故それが棗の口から、今このタイミングで発せられるのか。
想像がつかないほど俺は無知じゃない。
そうか、母さんは……。
「桔梗はボクたちと同じ、純血の吸血鬼なんだ」
政府のモノと成り下がった棗、撫子さん、薔薇。
唯一逃げおおせたという朝霧。
『吸血鬼狩り』で命を落としたとされている、もう一人の純血の吸血鬼。
棗は語る。
十年前の戦争の真実を――――――――。