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桜は微笑む。  作者: 青柳 兎蝶
第一部 『胎動』
11/27

9.痛い



 霞みがかった闇の中でまどろんでいたのに、急速に視界がクリアになる感覚。

 目を開けるとそこは薄暗く、目元を擦ると濡れていたので泣いていたのかと他人事のように思った。

 天井の小さな灯りの中照らされている周囲を見渡す。

 錆びた灰色の鉄格子、淀んだ空気、冷たい石の床にあるのは簡易な手洗い場と便器のみ。


 ここは牢屋……?

 なんで…。

 確か俺は朝霧とK機関支部に向かっていたはず……。


 記憶が曖昧な俺は何か思い出す手がかりはないかと、限られた視界でうんと身を乗り出し観察する。

 俺の入っている牢屋のほかにも残り五つ、空の牢屋があるみたいだ。

 酷い匂いが鼻を刺激する。これは、獣と血の匂いだ。

 他の牢の中には血しぶきがこびりついていた。

 むせ返る血の匂い。

 目眩がした。咄嗟に目の前の鉄格子を支えにする。

 ざらりとした感触を掴む右手を見て、思い出した。

 噛まれた右肩。

 苦しげに屈服した朝霧。

 捕らえられ、叫ぶ梨花。


「――梨花っ!」


 あれからどれだけ時間が経った?

 俺は右肩に触れる。

 傷は完全に治っていた。

 あの時、あまりの痛みに気が触れるかと思った。


 まさかそのまま気を失ったのか!

 梨花を助けられてもいないのに!


 「……う、うう、あっ……」


 知らないうちに嗚咽が洩れていた。

 両手で顔を覆う。


 「俺は、ばか……か……!っ!」


 甘かった。

 棗たちの信頼を裏切ってまで梨花を助けたかったのに失敗した!

 ファミリーまで危険にさらして、必ず帰ると約束したのにまた失敗した!


 俺はまだ夢を見ていたんだ。

 一生懸命に謝れば、優しい棗たちは許してくれると。

 きっとちょっと怒るだろうけど、それから笑って許してくれると甘く考えていたんだ。

 それくらいのものを積み上げたきた。

 それくらいの関係だと自惚れていた。

 自分から手放した信頼をまだ彼らに求めていたなんて。

 おめでたい頭に呆れて笑いも起こらない。

 あの断罪の時、棗以外、誰も何も、言わなかった。

 優しかった皆が俺を冷たく見限っていた。

 そういう空気だった。


 ――ボクはね、本当は桜のこと嫌いなんだ――


 痛い、痛い。

 胸に槍が刺さって抜けない。

 それも毒がついた槍で、抜いた後もずっとひりひりじくじくと痛みに苛まれるような。

 全部。

 全部全部全部、夢だったんじゃないかって。


 まだ思ってる!


 または、ドッキリか何かで、全部嘘で、今まさにこの部屋の扉の向こうからみんなが出てきてネタバラシをしてくれるんじゃないかって。


 まだ願ってる!


 そうなら、いいのに……。

 でも、そんな都合のいい話なんてないんだ。

 夢なんかじゃないことくらい、俺が、痛みを覚えてる俺の体が、一番よく分かっている。


 梨花、梨花。


 俺の可愛い、たった一人の妹。

 すぐ目の前にいたのに助けられなくて、不甲斐ない兄貴でごめん。


 暗い檻の中で泣いていると、「くしゅっ」と可愛らしいくしゃみが聞こえた。それもさほど遠くないところから。

 びくっと跳ねて目を向けると、フードを目深に被った梔子が鉄格子の向こう側でずびずびと鼻をすすっていた。


「……何、やってんだよ」


『そう睨むな。私は泣いているサクラを気遣って静かにしていたのだから』


  つい先程聞こえた素の声だと分かるくしゃみとは打って変わり、無機質な機械音が応える。


「思いっきりくしゃみしてただろうが」


『し、仕方がない。私はこんな埃臭い場所にはめったに寄り付かないのだ』


「寄り付かないって、お前な」


『とにかく!私のくしゃみの話はどうでもいい。……サクラ、君に話さなくてはならない件がいくつかある』


 ゴホンッと大きな咳払い一つで空気を引き締める。

 俺は暗い顔で俯いた。

 引きこもりの梔子がいるということは、ここはK機関支部にある牢屋だろう。

 これから俺は殺されるんだ。

 罪人として裁かれるんだと思った。

 力なく、諦めたように瞳が色を無くしていく。

 

『まず、君の妹は無事だ』


「本当か!?」


 縋るように鉄格子に張り付く。

 勢いあまって額を打ち付けるが、そんなことはどうでもいい。

 梨花が生きている!


『ああ、外傷一つない。今は別室でナデシコが見張っている。彼女の【結晶病】はナデシコの血で抑制されているぞ。良かったな、サクラ。君の大事な妹は、生きている』


 感激して言葉が出ない。

 目頭が熱を持ち、止める間もなく涙が溢れる。

 泣いているところを梔子に見られるのは嫌だったが、止まらない。

 生きている。良かった、良かった梨花。

 泣きじゃくる俺が落ち着くまで、珍しく空気を呼んだ梔子は待っていてくれた。

 しばらくして、続きを聞こうと気持ちの高ぶりを落ち着ける。

 まだ何も解決していない。


『もういいか?……サクラ、君が殺されることはない。君はナツメがアサギリに拒否権を与えないための人質だ。君を殺してしまえばアサギリは簡単にナツメの要求を拒むことができる。それをさせないための人質が、君だ』


「な、んだと?」


『ナツメはある計画のために今まで動いてきた。そしてその計画にアサギリの協力は必須条件だった。更にアサギリの足枷に君も必要だった。大事に囲っていたが、突然君は『吸血鬼の血』を盗もうとした、面白そうだから我々はそのまま静観していた、というわけだ。本来、K機関に保存されている『吸血鬼の血』はあのようにたやすく盗み出されるようにはできていないぞ』


呆れて溜息を吐く梔子。普段なら噛みついていただろうが、何も言い返せなかった。

梔子の言葉を頭の中で反芻する。

……そうだ。

  世界の中心であるK機関から『吸血鬼の血』が盗まれた話なんて聞いたことがない。

 聞くのは機関の外で襲われて輸送中の『吸血鬼の血』が奪われる話くらいだ。

 それくらい機関内のセキュリティは硬い。

 

 だけど、俺が『吸血鬼の血』を盗もうとした時、拍子抜けするくらいに障害がなかった。

 見張りも、数十分前に俺と電話で話をしていた撫子さんさえいなかったのは、考えなくても異常なことだと気づけてもよかったものを。

 直前の会話の内容で、撫子さんなら俺の次に起こすであろう行動は予想できるはず。

 念のためにしばらくは社長室を離れないでおこうと考えるのが自然だ。

 梔子の話が本当なら、俺の考えは何から何まで露見していた。

 つまり。

 俺のこれまでの行動、全てが。

 棗たちの掌の上で転がされていたんだ。


「じゃあ、あの社員証は……」


『ああ、あれは純粋にナツメの好意で与えられたモノだ。最も、君はそれを無下にしたが』


 …………。


『君が寝ている間にナツメとアサギリは再び話し合い、計画を詰めている。アサギリがナツメに協力的な限り、君の身の安全は保障されるだろう。もちろん、妹もだ』


  「……棗の計画って、何なんだ」


  『それはサクラには関係のない事だ。君はナツメの計画が終わるまでここから出ることはできない。……裏を返せば、ナツメの計画終了後に用の無くなった君たち兄妹は殺されるかもしれないがな』


  いつも通り何の感情も込められていない機械の声。

  梔子は背を向け、部屋を出ようと自分の社員証を取り出してから、思い出したように振り返った。


  『逃げようなどとは思わないことだ。この牢屋は原始的な見た目に反して、セキュリティは万全だ。逃げてうっかり手違いで殺されても私は知らないぞ。君が不利益を起こした時に犠牲になるのはもう一人の人質であるリカだということを忘れるな。今後の自分の身の振り方を、どうするのが一番得策なのか、その小さな脳みそでじっくり考えるんだな』


 温度のない言葉に容赦なく脅される。

 つまり、俺は朝霧の、梨花は俺の人質ってことか。

 打つ手はない。

 俺が何かしようとして、バレたら梨花の身が危ないのだ。

 どうすればいいのかなんて。

 分かり切っていることだ。

 梔子が扉の向こうに消えてから、俺は悔しさのままに壁を殴りつけた。




   ✞




 時間は数時間前に遡る―――。


 昨日の続きを話そうという棗の後に続いて入った部屋には家具も何も無く、大きなベッドが一つあるだけだった。

 十畳ほどの広さで、コンクリートの床には足の踏み場もないくらいの衣類が散乱していた。

 唯一の家具であるベッドも白いシーツがかけられただけの酷く簡素なもの。

 朝霧の頭にはこんな部屋に住む人間は一人しか思い浮かばない。


「相変わらず薔薇は偏屈な男だな」


 純血一、変わり種の男――薔薇。

 この部屋は彼の部屋であった。

 我がもの顔でベッドに飛び乗る棗にそう声をかけると、楽しそうな笑い声が返ってくる。


「今に始まったことじゃないんだし、いいんじゃない?本当に必要なものしか手元に置きたがらない薔薇の考え方は好きだよ」


 しかしすぐに不満げに唇を尖らせる。


「それに、ボクの部屋は爆発でめちゃくちゃだから入れないしー。あーあ、修理が終わるまで薔薇と同室か。あの部屋気に入ってたのになー」


 部屋の主である薔薇は留守らしい。

 ベッドの縁に立つと、寝転がる棗を見下ろした。


「……何も、桜をあんな風に痛めつけることはなかったはずだ」


「……ああでもしないと、朝霧、ボクが本気だってわかってくれないでしょう?」


 寝転がったまま、こちらを見つめ返してくる棗に沈黙でもって肯定を返す。

 昨日聞いた彼の計画を朝霧は一度拒否した。「我にそんなことはできぬ」と。

 不服そうにはしていたが、朝霧には棗が本気で計画を実行しようとしていたとは考えられなかった。

 昔から彼には冗談が過ぎる所があったし、まさか思いついても、彼にだけはできないことだった、はずだ。


 ……昔の、棗であれば。


 もう一度話をしようと棗の元を訪れて桜と再会し、懐かしさと喜びに、楽観的になったことを否定はしない。

 しかし、桜の家族同然の人間たちを脅し、桜の大事な妹を逆手にとり、まんまと桜を捕らえられてしまった。

 全て自分を仲間に引き入れるためにしたこと。

 最初から棗の言うことを本気にして彼に向き合っていれば、こんなことにはならなかったのではないか。

 今では桜を巻き込んでしまった後悔しかない。

 だがこんなことになるなんて、誰に予想できたというのだ?


 「…本当はね、桜を巻き込むつもりなんてなかったんだ」


 突然の声にはっとすると、棗はベッドに腰かけ、小さな窓から見える月を眺めていた。

 あれから数時間。

 外はすっかり暗くなり、夜空に浮かんだ三日月は儚げに光を放っている。


  「ならば何故……」


  「朝霧が断ると思っていなかったんだよ。それで、仕方がないから桜を利用した。せざるを、得なかった」


  そこでおかしそうに吹き出す。


「まさか朝霧があそこまで桜にご執心だとはね。思ってもみなかったよ。おかげで桜はいい人質になったけれど」


 朝霧が桜を合成種からかばい、その後も廃墟で匿っていたことを言っているのだろう。

 あの時自分は、なんとしてでも桜を守らねばと、必死だった。

 監視されているとも知らずに。

 笑っていた棗は、不意に真面目な顔になる。

 そして静かに囁いた。


  「ねぇ、どうしてそこまで桜を愛せるの?」


 不思議に思って聞いたのではないと分かる、かすかな寂しさの入り混じった声は、囁かれたものなのに部屋によく響いた。


  「お前、桔梗(ききょう)と桜を重ねているつもりなの?」


 棗が滅多に口にしない「お前」という単語に、背筋を冷たいものが駆け降りる。

 けれど反射的に言い返してしまった。


  「桜は桔梗とは違う!重ねているのは、おぬしの方であろう!」


  屈辱だったのだ。

  桜を大切に想う気持ちは、桔梗と重ねているから滲むものではなく、二人が全く似ていないからこそ滲むものなのだから。

  悔しさに我を忘れて、言ってはいけないことなのについ口をついて出た、彼を責めるような言葉。

  棗はピクリと表情を動かした。

 歯噛みし、何か言い返そうとしては何も言えずに口を閉ざす。

 胸を荒らす激しい感情を飲み込もうとしているようだ。

 隣でその様子を見つめていると胸にやるせなさが広がっていく。


 十年前、我ら吸血鬼が失ったものはあまりにも多すぎた。


 同胞を守ろうと奮闘した目の前の頭は、既に一人では立っていられないくらいにボロボロなはずなのに。

 それでもなお同胞のために戦おうとするおぬしはやはり昔と寸分違わぬ、我らの頭だ。

 俯いてしまった棗を気遣い、腰をかがめる。

 と、急に肩の力を抜いた棗の綺麗な指先が眼前に迫り、反射的に目を閉じると額にぱちんと軽い痛みが走った。


「?」


 目を開くと、キツネの形を模した指を振るナツメ。

 どうやら安い心配は不要だったようだ。

 チェシャ猫じみた笑みを浮かべ、赤い瞳を三日月形に細めた。


  「本題、入ろっか」



 ✞


「そんなに気を遣わないで、まだ寝ていてもいいのよ梨花ちゃん」


「いいえ。お兄ちゃんの上司さんの前ですから、そういうわけにもいきません」


 ふるふると首を振ると、撫子が勧めたベッドの端にちょこんと遠慮がちに座る梨花。

【結晶病】の進行は血を飲ませ、遅らせることができていた。痛みは少し残っているだろうが、気丈に撫子を見つめるその様子は、病に冒されているとは微塵も思えないものだ。


 彼女が人質としてここにいる間、定期的に血を与えることが棗に頼まれたことの一つだった。

 ここは撫子の部屋だ。

 豪華できらびやかな部屋に最初は入りずらそうだった梨花も、撫子と話しているうちにだんだん見慣れてきたのか、彷徨っていた視線は落ち着いてきていた。

 赤とピンクを基調とした家具や小物などは見た目こそ派手なものの、どこか可愛らしさがあり、部屋の主である撫子の雰囲気と合っている。

 加えて、撫子には一言一言に他者を気遣う優しさがあり、それが梨花の不安を和らげていた。

 桜が気絶した後、目の前の兄の凄惨な姿にショックを受け、もともと【結晶病】の猛威で体力が底をついていた梨花も気を失った。

 その後、病に冒されている梨花を牢屋に入れることはあまりに非道で賛同できないと主張する撫子と、兄妹仲良く牢屋にいる方が互いに幸せだろうと主張する薔薇の意見は衝突した。

 言い合いを重ねる二人に焦れた棗が「女の子のことは撫子に任せればいいでしょ。撫子も、自分で言ったからには責任もって監視してね」と柔らかく諭して解決した、が。

 既に、撫子は了承したことを困り果て後悔していた。

 憎まれて恨み言の一つも言われることを覚悟していた撫子だったが、目を覚ました梨花は気を失う前のことを、何も覚えていなかったのだ。

 病で朦朧とした意識の中、無理もない。

 最初に、見知らぬ場所にいることに慌てた梨花が孤児院の皆の心配をしたので、彼らの無事を伝えると彼女はとても安堵した。

 しかしその次に、ここは桜の働いている所だということ。

 そして自分の為に『吸血鬼の血』を桜が盗もうとしたこと。

 兄はその罰を受けていて会うことはできないし、梨花もまた、外へ出ることは許可できないと説明すると、ひどく落ち込んでしまったのだ。

 彼女の歳は十四。

 その年ならば、『吸血鬼の血』を盗むことがいかに大罪であるか、理解できているだろう。

 大切な兄が自分の為に罪を働き、今尚罰せられていることに心を痛めているようだった。

 元より子供と話をする機会などなかった撫子はこんな時どういう風に接するべきか、知らない。

 口止めされてはいないから彼女の覚えていないことを話してもいいのだが、罪悪感で撫子にはそんなことはできない。

 あの桜の痛ましさを思い出してしまったら、彼女は今よりももっとその心を裂くだろう。

 この純粋そうな娘を悪戯に傷つけたくなかった。


「あの、撫子さん。やっぱり、貴方の血はいただけません」


  先ほどいただいたばかりですけれど、次からは必要ありません。

 哀しそうに訴える声に思考から呼び戻される。

 いきなりの申し出に目を見張った。

「お兄ちゃんが私の為に頑張ってくれたこと、分かっています。

 お兄ちゃんはそういう人なので。…それでも、だからこそ、私は病を受け入れるべきだと思うんです」


 強いまなざしに、揺るがない意志。梨花は両手を胸の前で合わせた。


「この先、何年も何十年も、私の寿命まで『吸血鬼の血』で延命できると思いますか?

 ……いつかは必ず、受け入れる時が来る。誰かを踏みにじってまで、それを先延ばしにしたくないんです」


 目を閉じた梨花は、思い出すようにゆっくりと笑う。


「お兄ちゃん、ここで働くの楽しいって言ってました。皆優しくしてくれて、孤児院にも帰れるように休暇をくれるって。なのに、私のせいで、もうここでは働けないでしょう?皆さんを裏切ってしまった。裏切らせてしまった。……私のために、お兄ちゃんはまた、何度だって、無茶をするから」


 彼女は自分の兄がここで何をされていたのか知らないのだろう。

 知っていたら、こんなふうに撫子に、兄の所業を申し訳なさそうにしていないだろう。

 兄が、ここでは実験体(モルモット)で、交換条件に金銭を得ていたとは。

 桜が黙っていることを、部外者が教えることでもない。

 撫子は黙って梨花の話を聞いていた。


 そうか。この少女はずっと考えていたのか。

 それこそ【結晶病】にかかった時から、覚悟していたのか。

 己の死を。

 その決意を桜はきっと受け入れられないだろう。

 己の命を諦めるという行為を嫌っている、いや、恐れている彼は。

 自分で自分の命を諦めることで周りの者を悲しませることが怖いから、だから彼は諦めない。

 けれど、わたくしは……。

 自分を見上げる群青の瞳に微笑みかける。


「そう……。もう、決めているのね」


「はい」


 揺るがない視線を見つめ返して、撫子は梨花の冷たい手を包み込んだ。


「なら、そのことをサクくんにも伝えて。そうして二人できちんと決めた方がいいわ。だからそれまでは、『吸血鬼の血くすり)』を摂っていましょう」


「……はい」


 一度葛藤しながらも、やがて小さく梨花は頷いた。

 繋いだ手のひらから細かい震えが伝わってくる。

 怖かっただろう。

 今も怖いだろう。

【結晶病】にかかり、すぐに自分が死ぬと知り、その痛みを誰とも分かち合えず、こうして命を繋いでも、いつ死ぬか分からない恐怖。それと懸命に闘っている少女。

 震える身体とは対照的に、なんて力強い瞳だろう。

 その瞳に、桜の瞳が重なる。

 ああ、兄妹なんだなと、思った。

 ポッポ―と間抜けな音が響き渡る。

 壁に掛けられたピンクの鳩時計が夜の七時を告げている。


「いけない、もうこんな時間なのね。お腹が空いたでしょう?すぐに夕食を持ってくるから、待っていてもらえるかしら」


 撫子が立ち上がると、一瞬不安に瞳を揺らした後、笑みを浮かべる。


  「はい」


 早く戻ってこようと足早に部屋を出ると、壁に背中を預け、腕組みをしている薔薇が立っていた。

  包帯で表情はうかがえないが、口元に浮かんでいる笑みは、撫子の梨花に対する行為を揶揄っているようだった。


「盗み聞きなんて悪趣味よ」


 食堂へ向かうために薔薇の前を横切りながら言うと、彼は何も答えずについてきた。

 頭の後ろで腕を組み、気だる気な声を出す。


「あんだよ。せェーっかく俺様が外から見張ってやってたってのによォ」


「ならついてこないで。そのまま梨花ちゃんを見ていてあげてちょうだい」


「はァ?俺様だって腹減ってんだよ」


 吸血鬼は食べ物から栄養を摂取したりしない。

 摂取しても栄養にはならないし、水を飲んだところで本質的な渇きは癒えない。

 それでも味覚は人間と同様に存在する。

 食べても腹の足しにならないが、味を楽しむことはできるのだ。

 薔薇はそれを馬鹿じゃないかと嘲る。

 血を飲んでこそ楽しむ、それが吸血鬼。

 つまり彼はこれから、誰かの血を(主に犠牲になるのは桜か、不愉快な事に、棗だ)飲みに行くのだろう。

 はあ、と溜め息を吐く撫子。

 相変わらず薔薇との会話は要領を得ない。

 が、今回ばかりは彼が何を言いたいのか、手に取るようにわかった。

 なかなか言い出さないのがこの男の悪趣味なところだ。

 言いたい事があるなら早く言え、という雰囲気を醸し出す撫子にカハ、と薔薇は笑った。


「本当のこと、教えてやればいいのに」


 ホントウノコト、と彼は言った。

 桜が実験体としてここにいた事だろう。

 もともと薔薇は純血以外、いや、棗以外はどうなってもいいと考えている。

 冷血で利己的。

 人の秘密を暴いたところで、誰にどう思われようと気にしないのだろう。

 真逆の性格である撫子とはいつも意見がかみ合わない。


「サクくんが秘密にしていたことをわたくしが教えるのは、サクくんや梨花ちゃんにたいして、不遜(ふそん)よ」


 言ってから思う。

 嘘吐きだと。

 本当は、桜に恨まれたくないだけなのだと。

 度が過ぎたシスコンである桜が、きっと唯一、妹に秘密にしていたコト。

 話してしまえば、桜は撫子を許さない。

 仕方のない事とはいえ、棗に蹂躙されていた桜を見ているだけだった自分を、許すも何ももう嫌われているかもしれないけれど。

 けれど、弟のように思っていた彼に、これ以上憎まれる要素を増やしたくない。

 長い睫毛を伏せる撫子。

 全てを見透かしていながら、薔薇は決して優しい言葉などかけない。

 バカにしたように、わざと聞こえよがしに。


「お優しいことだなァ」


 嗤った。





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