8.代償と呪い
俺達が身を潜めていたのは人の手が入らなくなった廃退したビルだった。
そこから飛び出し疾走する。
外はすでに暮れかかっており、夕日で空も雲も街も真っ赤に染まっている。
俺は半日も気を失っていたのか!?
失った時間の重さに歯噛みしながらたどり着いた先で、ファミリーは屋根に穴を開けていた。
教会に似た外装の孤児院は屋根の一部が大きな楕円形に半壊しており、その残骸がアスファルトに散乱していた。
上から、何かが突き破ったような穴。
幻想的な雰囲気を醸し出す光を放っていたステンドグラスは、今では見る影もない。
黒煙はその穴から細長く空を蛇行していた。
周囲の民家から驚きと好奇心から野次馬が集まってきていた。
……これは一体?
ーこの手の有名な話には一族皆殺しの例もあるー
朝霧の言葉が脳裏に浮かぶ。
まさか、そんな。
冷汗が背中を伝って、手足が震えだす。
恐怖に、心臓が早鐘を打つ。
孤児院の扉を開けるのが怖い。
中に何が待ち受けているのか知るのが怖い。
院長先生は?
シスター、帰るたび戯れついてきた子供たち……そして梨花は?
扉の前で動かない俺を通り抜けて、朝霧は何の躊躇いもなく、孤児院の扉を開けた。
「お前……」
「悩んでいても埒があかぬ」
そうきっぱりと朝霧は中へ踏み込んだ。
大きなその背中に、越えられない月日、くぐってきた死線や経験の差を感じる。
そうだ、悩んでいても何も変わらない。
だったら前へ、進むしかない。
例えこの先に何が待っていようとも、逃げちゃだめだ。
顎を上げ、朝霧の背中を追いかける。
「梨花!みんな!無事か!?」
奥の方まで届くように声を張り上げ廊下を進む。
何の返答もないまま、声だけが反響した。
いつも賑やかな声に溢れた孤児院の中は静まり返っている。
素早く移動しながら視線を走らせる。
外の倒壊に比べて、中は拍子抜けするほど綺麗だった。
多少煙臭いだけで玄関も廊下も、子供たちの部屋もそのまま。
懸念するのは、部屋に人の気配がしないことだ。
最後のドアを確認して、とうとう一人も部屋にいないことを確認する。
「……みんな、どこへいったんだ?」
誰もいないなんてことあるはずがなかった。
誰が買い物に出かけても、誰が散歩に行っていても、全員がいなくなることなんて今まで一回もなかった!
留守番の子供やシスターが、必ず残るはずなんだ!
辺りを窺っていた朝霧は、金の瞳を細めて廊下の奥をきつく見据えた。
「ここには誰もおらぬ、気配がない。だがこの先、奥に……誰ぞ居るようだ」
「……この先は、広間だ」
普段はみんなで食事をしたり、遊ぶ場所になっている。
それぞれ部屋はあるがいつの間にか皆が集まっている、そういう場所だ。
……外で見た、半壊していた場所だ。
焦りが勢いとなって、朝霧よりも先に進む。
院長室を過ぎ、医務室を覗く。
そこで眠っているはずの梨花の姿がないことにさらに不安は募った。
広間へ続く両開きの扉を開け放った先で、
「おかえり、桜」
赤い夕日を浴びながら苦笑する院長先生がいた。
広間にはやはり天井に穴があいていて、そこから夕日が差し込んでいた。
奥の暖炉は破壊され、煙の原因はこれだと察する。
それ以外に壊れたものはなさそうだ。
まあるい大きなテーブルを中心に一つ。
囲む十七の椅子。
その一つに、院長先生は腰かけていた。
白衣は煤けて、頬に細かい切り傷をいくつか負っているようだった。
だけど、生きてる!
安堵に力が抜けそうになりながら、院長先生のもとへ走り寄る。
「先生!良かった無事で!梨花は?他の皆はどこ、に……」
矢継ぎ早に質問する俺の頬を、ささくれだった掌が包んで優しく細められた目に覗き込まれる。
「まったく、無茶をしたね?」
「っ……まさかみんなは……」
「安心なさい、みな無事だ。今はシスターたちとともに知り合いの孤児院に向かっているはずだ。……私は君を待っていたんだ」
無事。
どれだけその言葉を聞きたかったか。
先生は、目じりに涙を浮かべる俺から手を放す。
「一時間ほど前にK機関支部からの使者、撫子さんと薔薇さん、という方がここへ来てね。君が『吸血鬼の血』を盗もうとしたので追っていると告げた」
「!」
「息が止まるかと思ったよ。まさか、そんな……とね。だけど君なら、やってしまうだろうなという気も……した。
……桜、本当に君という子は無茶ばかりする。血相を変えて出ていったと思ったら、私が昔できなかったことをやり遂げようとするなんてね。使者が現れた瞬間、私はファミリーのみんなごと殺されると覚悟したよ。しかし彼らは、誰も傷つけなかった。そして代わりに……君の大事な妹を攫っていってしまった」
絶句する。
俺の行いの代償。
結果として無事だったけれど、もしかしたらファミリーの皆が俺の軽率な行動の責任をとらされるところだった事実。
そして一番あってはいけない、恐れていたこと。
梨花。
が。
攫われた?
「伝言を預かっている。だから私は残っていた。私が伝えることが一番良いと思ったんだ。君は昔から梨花に何かあると取り乱して、私の言葉しか聞かなかったから……。君のことを心配していたんだよ……桜、聞こえているね?冷静に、息を詰めないでゆっくり呼吸して。ちゃんと聞くんだ。
〝妹を助けたいのならば、朝霧とともにK機関支部・社長室に来なさい〟と、そう、彼女たちは告げた。できる限り抵抗したんだが、すまない、このざまだ」
深くはないけれど、近くで見ると頬の切り傷や手足の擦り傷が痛々しい。
その院長先生の姿に、溜まっていた涙がこぼれた。
撫子さんと薔薇二人に。
人間で、戦ったことなんか無い、優しい院長先生が。
悔しそうに俯いている先生に、泣いている俺の背後から朝霧が声をかけた。
「よく殺されずに済んだものよ」
「貴方は…?」
見覚えがあるのか目を細めて目の前の男を探り、やがて記憶の人物と合致したのか驚いたように「十年前の」と声を上げた。
長身の朝霧を見上げている先生に、俺は慌てて、
「こいつは純血の吸血鬼の一人で、朝霧。捕まりそうになった俺を、助けてくれたんだ。こいつがいなかったら俺は殺されてた」
「そうだったのか……。朝霧さん、私は孤児院・ファミリー(こ)の皆の親代わりで、院長をつとめておりました。今回、そして十年前も、この子を助けていただいて。血は繋がっていなくとも、この子の親として家族として、何度感謝し尽しても足りません。本当にありがとうございます」
「よい、頭を上げよ」
俺は乱暴に涙をぬぐうと、先生の手をとって握りしめた。
「ごめん、ここが壊されたの、俺のせいだ。皆を危険な目に合わせて、先生にも怪我させて……ごめんなさい」
ここに来たのが撫子さんと薔薇だというなら。
まず間違いなく、屋根と暖炉を破壊したのは薔薇だろう。
先生の抵抗に、脅しのつもりか。
屋根のがれきは室内にはない。
考えにくいことだが薔薇はわざと破片を外部に散らばるように破壊したのだろうか。
撫子さん、あるいは棗の指示か…?
皆に怪我はなかっただろうか。
きっと怖くてたまらなかったに違いない。
謝ったって俺のした事は無かったことにならないし、何の解決にもならないけど。
だけど謝りたい。
許して欲しい。
皆を不安にさせて怖がらせて、この人をこんなに心配させてしまった俺に、償いをさせて欲しい。
手の平に、先生のぬくもりが伝わる。
生きている、温もりだ。
「……桜、非常時とはいえ君の行動は軽率すぎたね。そして私も、君が電話をしていた時、思いつめてK機関支部に乗り込む可能性を気づいていながら、止めなかった。
私たちは今回のことで皆を危険にさらした。そのことを十分に反省し、二度と、同じことを繰り返してはならない。分かるね?」
「はい」
「なら顔を上げて……大丈夫だから。皆、無事だ。…生きているから、桜」
「は、い、……はいっ!」
嗚咽をこらえて顔を上げる。
先生の思いやりのこめられた瞳としばらく見つめ合う。
大丈夫だ、みんな生きている。
生きていれば何度だってやり直せる。
だけど、みんなを危険にさらしたことを俺はこの先絶対に、忘れてはならない。
やがて先生は厳しいまなざしで俺を見た。
「梨花を助けに行けば、君は間違いなく殺されるだろう」
俺が逃げれば攫われた梨花は死に、今度こそファミリーの皆も殺されるだろう。
梨花をみんなを見捨てることは、俺にはできない。
分かってる。
全部、分かってるよ。
「それでも、君は行くんだね……」
「行くよ。梨花を助けに」
ぎゅっと、先生の手を握る指に力をこめる。
「大丈夫だ。何とかなるし、何とかするよ!
……俺、K機関の社長と仲良いから、うまいこと話をつけてくる。だから大丈夫、先生は安心して新しい孤児院で待ってて!
…だけど、もし、もし俺が戻らなかったら。その時は」
振りむく。
「朝霧、梨花を頼んだ」
大昔にこいつに梨花を任せられるか、と怒鳴った。
そんなこともあったな、と苦笑する。
梨花のことを、他の誰かに頼むなんて考えたことも無かった。
でもこいつは、十年前俺たち兄妹を助けてくれた。
そして今も、現在進行形で助けられてる。
変な話し方で偉そうに聞こえるけど全然優しくて、一緒にいるとまるで幼い子供みたいに守られているように感じて、安心した。
十年前に仲間を見捨てて逃げたことを今も後悔し、友人の棗の今の立場を慮って嘆き苦しむ姿に、朝霧の中の人間らしさを見た。
こいつなら信じられる。
朝霧なら、【結晶病】の梨花をその血で、延命させることができる。
見つめる視線の先で、朝霧は確かに頷いた。
だが、と続ける。
「そう易々と諦めるでない。我も、おぬしが目的を果たせるよう、全力で協力するぞ」
「ったりめーだろ。誰が簡単に死ぬもんか!頼りにしてるぜ、朝霧!」
にっ。
笑う。
「行ってくるよ先生」
「桜……」
「必ず、梨花連れて帰ってくるから」
諦めない。
俺がいなくなったら先生も梨花もきっとすごくすごく悲しむから、だから俺は諦めない。
最後まで己が生きる道を探し続ける。
梨花、お前を一人には、絶対にさせない。
✞
捕まって逃げたはずのK機関支部まで再び駆け戻る。
俺たちは、昨日今日で何度も往復している、すっかり慣れ親しんだ玄関をくぐり、一気に上へと進んだ。
途中ですれ違った幾人もの研究員たちに何か言われそうではらはらしたが、彼らは自分の研究に夢中で俺たちに全く見むきもしなかった。
最上階でエレベーターを降りると、爆発の名残か、煙臭い空気が鼻腔を突き抜けた。
煙たい。
長く続く廊下は半分から向こう側が黒ずみ汚れ、扉のない社長室の入り口から見える室内も酷い有様だ。
お互いに無言で歩く。
スニーカーの靴底越しに感じる廊下の感触は次第に荒れてくるが、かまわず歩く。
室内に、踏み込む。
「梨花!」
「お兄、ちゃん……」
目に真っ先に飛び込んできたのは、焼け焦げた天井、床、散乱した家具類、割れた窓ガラス、ではなく。
薔薇によって華奢な両腕を後ろで拘束され膝をついた、梨花だった。
スカートから覗くむきだしの足は、くるぶしまでしか見えないが、すでに真っ青で、黒い結晶が浮かんでいる。
【結晶病】は発症すると一日で死亡する恐ろしい病だ。
すでに半日以上が経過している。
蝋のように白い梨花の額を脂汗が伝っている。
目を閉じてぐったりと四肢を垂らし、俺の声にかすかに息を漏らす梨花。
その声はうわごとのようにおちる。
病特有の全身を刃で突き破られるような激痛に襲われているはずだ。
「梨花を離せ!」
まるで物を扱うかの如く片手で梨花を難なく抑え込み、やる気なさげに立つ薔薇に殴りかかろうとした時、
「早かったね」
場違いに明るい声がした。
爆発で半分ほどひしゃげている机に行儀悪く腰掛けて、棗が笑っていた。
傍らには撫子さんが佇み、後ろには左右に分かれて蓮と、珍しく地下から出てきた梔子がいた。
壁に大穴が空いて、そこから曇天が見える。
雨風が容赦なく部屋に侵入し、部屋は明かりがないので、暗い。
異様な、空気だ。
いつも通りのあっけらかんとした棗の表情から感じる異様さ。
ひやりと、悪寒が駆け上ってくる。
薔薇は皮肉な嗤みを浮かべた。両目を包帯で覆っているのに、その向こうから強い視線を感じた。
彼はうるさそうに空いている片手で側頭部を軽く突き、やる気のない声を出した。
「言っただろォ。実験体なんかに社員証渡すなってよォ」
四人の幹部がこの場に揃った。
その事実が何を意味するのか。
冷たくて息苦しい空気が室内を満たす。
「なァ、棗ェ?」
長い袖がたなびく。
暗い室内で影の落ちた棗の表情は、その陰影で俺の全く知らない表情を成す。
よっ、という掛け声とともに机から降りると満足そうに目を細める。
「しょうがないでしょ、薔薇。まさか桜がこんなおいたをするとは思わなかったんだから」
おどけた様に指先でリズムをとる。
真紅の瞳が俺を見た。
「桜、自分が何をしたか分かってるよね。君の妹がこんな目に合っていることは、君が文句を言える立場じゃないんだよ?」
縋るように見つめたその瞳に、かつての親しみはなかった。
「……確かに、俺がお前の信頼を裏切って『吸血鬼の血』盗もうとしたことは事実だ。その罰は受ける。そのつもりでここに来た、だから梨花は、解放してくれ」
「あのね、桜さー『吸血鬼の血』を盗んだ者は一族根絶やしにするのが通例なんだ。知ってるよね?君だけ例外を求めるなんて、虫のいい話だとは思わないわけ?」
「で、も…梨花を助けたかったらここに来いって」
「来たからって殺さないとは言ってないじゃない」
本当に桜は馬鹿だね。
くすりと笑みを洩らす棗の言葉に焦る。
俺がここに来れば最悪、梨花だけは助けてもらえるのだと、勝手に思っていた。
俺は馬鹿か、そんなの。
俺は実験体で、こいつらは、幹部とその社長なんだ。
先に裏切り、彼らに線を引いたのは俺なのだ。
「助けてくれ!お、俺にできることなら何でもする!お願いだ!だから梨花は!」
「ん?桜ってばボクと交渉しようとしてるんだ……いいよ、その条件呑んであげる」
こちらにおいでと手招きする棗に、少しでも聞く耳を持ってくれるならと、希望を抱く。
走り寄ろうと前のめりになった俺の体を、長い腕が邪魔した。
「朝霧?」
「……」
進路を阻まれた俺は高い位置にある朝霧の顔を見上げた。
無言なのに恐ろしく緊張し、警戒しているのが、棗を睨む彼の瞳から伝わる。
ハッとして俺も棗を、いや棗たちを見渡した。
そもそも何故、ここに幹部がそろっているんだ?
俺の処分なんて、棗一人でも十分なはず。
そして何故誰も何も言わない?
薔薇は変わらない気がするけど、他の三人はなんだかいつもと違う、おかしい感じがする。
俺の仕出かしたことに対するものだけでは無い様な。不思議な感じだ。
そして何故棗は、笑っている?
同胞が殺されていることに胸を痛め、人間に非難されてもそれを受け入れ、血を与えられないことに苦悩し、俺を仲間だと迎えてくれた棗が。
どうして、俺を処分する時に、笑っている?
笑って、いられる?
異様な、空気。
そうだ。棗の態度は、今この場では酷く不釣り合いで違和感しかない。
棗は、俺を片手で制したままの朝霧に視線を移す。
「昨日ぶりだね、朝霧」
「……っ」
俯く朝霧を見て、それまでの嗤みを消す。
「なに下向いているの。もっとちゃんと――ボクの顔を見なよ」
そう言うやいなや、ゴッと朝霧の体が床にめり込んだ。
「ぐ、ぅっ!」
「朝霧!?」
突然のことに驚き、慌てて助け起こそうとした。
這いつくばる朝霧の背に手を伸ばすが、しかし、あと数センチというところで手が何かに阻まれる。
なんだこれ。
指先が薄い膜に阻まれて、届かない。
朝霧は押さえつけられているナニかに逆らうように、痙攣しながら頭を無理やり上へ向けた。
棗と目を合わせる。
朝霧と目が合った棗は、俺の見たことがない凶悪な嗤みを浮かべる。
その凄艶さに、寒気が走る。
「ずっと、君のことを探してたって昨日も言ったよね?……返事はまだ、変わらない?」
苦しげに呻く朝霧の反応を静かに見下ろす棗。
声は明るいままなのに、相手を愉しげに痛めつける。
同類を苦しめているのに。笑っている。
今この目に見える仕草の一つ一つが知らない棗で。
……本当に目の前にいるこの棗は、俺が知っている棗、なのか?
「何度聞かれても我の答えは変わらぬ!おぬしの計画は無関係の者を大勢、巻き込むのだぞ?おぬしは、それを分かっているのか!?」
「ボクたちが人間にされたことを忘れたとは言わせないよ。
……みんな、普通に生きていただけだ。巻き込まれたのはボクたちの方だよ」
「…我は…我はっ……」
迷うように首を振ると、朝霧は言葉を詰まらせた。
しかし少しの迷いも許さない、という風に棗は目を細めた。
すると朝霧の体が更に、床に深く沈んだ。
「がっ…!」
「分かってないなあ、朝霧ぃ?キミに選択権はないんだよ。…まあ、いっか。キミが気持ちよーく引き受けられるように。その気がないなら、その気にさせてあげるよ」
棗はゆっくりと朝霧から視線を外して、獲物を見るように俺を見た。
棗の豹変に、さっきから俺はずっと、ただ戸惑っている。
棗が同類ー仲間を傷つける、という光景を、受け入れられなかった。
いや、それ以前に棗が誰かを傷つける、ということが想像、つかない。
想像できないことが現実に、今、目の前で起こっているのに、だ。
いつの間にか、機嫌がよさそうに笑う棗が俺の前に立っていた。
その笑みに、知っている棗を見つけ安心したのもつかの間。
笑顔のまま、棗に片手で首を掴み上げられた。
この小さな腕の、どこにこれほどの力があるのか。
あの、綺麗な細い指が首に食い込んでいく。
もがく俺を見せつけるように軽く持ち上げ、朝霧に再び向き直る。
後ろなので顔は見えないが、背中越しに朝霧の動揺した息が聞こえた。
何を、する気だ。
絡みつく指は俺を強く締め上げ、確実に気道を塞いでいく。
視界が霞はじめた俺を、グイと己に引き寄せ肩口に顔を埋めると、棗は大きく口を開け
――肩に思い切り噛みついた。
「桜ああッッッ!!」
「お兄ちゃああん!」
朝霧の声が、梨花の声が、遠くに聞こえる。
「ぅあああああああああああ!!」
声がうるさい。
誰かが叫んでいる。
壊れたようにやまない叫びに、これは自分の声なんだと、回らなくなった頭でぼんやり思った。
燃えるように右肩が熱い!
激しい痛みに生理的な涙が頬を伝う。
頭がおかしくなりそうだ!
ブチブチと、自分の皮膚が噛み千切られている音が鼓膜に響く。
噴き出した俺の血が、棗と俺の全身を、赤く赤く染めていく。
鉄の匂いに吐き気がする。
肩がこんなに熱いのに、指先からどんどん冷えていく。
噛み千切った肉を咀嚼しながら棗が問う。
「さあ、選んで朝霧。ボクの話を断って、大事な桜を喰われるか。ボクの計画に協力して桜を助けるか」
ごっそりと穴のあいた俺の傷口に舌を這わせ、音を立てて血を啜る。
「桜美味しいからー早く選んでくれないとボク、我慢できなくなっちゃうよ?」
言葉通り、棗はもう一度傷口の上から牙を立てる。
来るであろう痛みに、恐怖で喉の奥がひくりとした。
声は、もう出ない。
「やめろ!!っ……、おぬしに協力する!だから!だから、桜を、放してくれ……っ!」
大の大人がこれほど激しく取り乱す声を聞くのは、初めてだった。
その言葉に、棗は満足そうに破願した。
「いい子」
俺を掴んでいたことを忘れた様に、棗はすぐ手を離した。
「……、っ」
受身も取れずに床に落下した俺は、血を吐きながら痙攣していた。
右肩の肉がほとんど無くなり、ぶら下がった血管とちぐはぐな断面が、どろりと床に広がっていく。
あんなに熱かった身体が、今は凍えるように寒い。
ひりつく喉を唾液で潤して、何とか言葉を紡ごうとした。
「な、つ……め」
風が吹けば消えそうに小さな声に棗は反応して、ぼろぼろになっている俺を見た。
けれどその瞳に好意的なモノは感じられない。
赤く光る綺麗な瞳。
「…ああ、そうだ。桜には一つ、言っておかなくちゃいけないことがあったね」
動けない俺の目線に合わせて膝をついた棗の裾を、血が汚す。
徐々に治りかけている俺の傷口に手を置いて、血塗れの顔が笑う。
ニコッと、いっそ清々しいまでに晴れやかに、棗は笑った。
棗。
俺に実験体としての価値を見出し差し出してくれた冷たい手の平。
同胞の境遇を悲しげにひっそりと嘆いていた小さな背中。
戦争で傷ついた人間も吸血鬼も癒そうと奔走していた脚。
社長として頭として支部の皆に慕われている飾らない笑顔。
棗。
何も言ってないのに、記念日には心から祝ってくれた。
目つきの悪さを気にしてた俺を、くすぐって笑わそうとしたりして。
俺は俺のままで良い。
そんな桜がボクは好きだよ、そう言ってくれた。
棗。
照れくさくて、ちゃんと言ったことなんてなかったけど。
そんなお前のことがおれは。
「ボクはね、本当は桜のこと嫌いなんだ」
――――――好きだった。