十八話
青く晴れ渡る空の下、生い茂る木々の中、一人歩く影がある。
細身で長身の男だ。身長は一八〇センチは下らないだろう。全身をカーキ色の繋ぎで被い、安全靴の踵を地面に引き摺るように歩いている。
薄い唇と筋の通った鼻、閉じているのかと見紛うほどに細い目。それらを不機嫌そうに歪ませて、木々の間を練り歩く。
一人とぼとぼと歩いていた彼は目的の場所に着いたのか、少し顔を上げて立ち止まった。
彼の名はアクター。『無限臨界(No Limited)』中屈指の嫌われ者集団、PGKギルド【サクラクタ】、そのギルド長である。
周囲の迷惑を省みないプレイスタイルから、付いた渾名は〈バカップル♂〉。バカップルの名の冠する通り、常に妻である〈バカップル♀〉サクラと――少なくとも――手を繋いでいる男だ。
だが、今の彼は一人。彼等にしては非常に珍しいことに、別行動中である。
彼のご機嫌が斜めなのも、大好きなサクラと共に居られないからに他ならない。
辺りを見回した彼は、イライラした様子で溜め息を吐く。そしてメニューを操作し、虚空から一つの箱を取り出した。
手のひらに乗る程度の、小さな立方体だ。
それを足元に置くと、彼は近くの木に凭れ掛かった。
地面の立方体は暫く何もなく静かに鎮座していたが、軈てピピピと電子的な音を発した。
カシャンッと音を立てて立方体の上部が開き、小さなパラボラアンテナが出現する。ピーーと電波を発するその機器を、アクターは力無く眺める。
「……………サクラ」
ポツリと呟き、悲痛な表情を浮かべ、もう一度、サクラの名を呟いた。ズルズルと背を預けていた木を滑り、地面にしゃがみ込んだ。
消え入りそうな声で何度か繰り返し、軈て小さく唸って黙り込んだ。
辺りに電子的な高い音が響き渡る。
ここは『無限臨界(No Limited)』で最も科学技術の進歩した界である『地界』。
その最大の海洋のど真ん中。
その水深百メートル付近に停泊している【サクラクタ】のギルドホーム『オウゲイ』。
その内部のダンジョン部分。
そのアクター専用区画の一端である。
『オウゲイ』内部には、【サクラクタ】のメンバーが好き勝手にダンジョン部分を改造した混合区画と、メンバーが勝手に手を付け加えない――と、一応取り決めがある――居住区の二種に分かれている。
そしてダンジョン部分には、メンバーが各々に割り当てられ、他のメンバーは手を出してはならない――と、一応約束している――専用区画がある。
ここはアクターの専用区画。アクターが趣味全開で造り上げた、アクターだけの区画である。
………ということになっているが、誰かが勝手に何か仕込んでいる可能性は高い。非常に高い。
アクターの趣味が反映したこの区画は、青い空、白い土、多くの木々が乱立した、桃色の区画である。
いや、桃色という表現は相応しくない。
正しくは、桜の木が一面に植えられた、桜色の区画である。
密林の如く密集し乱立した大小様々な桜の木は常に満開に咲き誇り、舞い散る花弁が地面を、空を、視界の殆どを覆ってしまう。
『右を見ても上を見ても、常に桜を見ていたい』というアクターの愛情表現により生まれた、『桜ダンジョン』である。
アクターは『桜ダンジョン』が完成した時、『僕は既にサクラさんの愛に囚われています!』と宣ったとかなんとか。
そんな桜全開、趣味全開の地に居ながら、アクターの気は晴れない。実物が傍に居ないのだから、当然の結果かも知れないが。
気が重く、手持ちぶさたで、ポツリポツリとサクラの名を溢す。地面に積もった桜の花弁を一枚拾い、半分に引き裂いて時間を潰す。
ほんの一、二分後。
桜の雨の間から、突如何かが現れた。
直径五センチの鉄棒の胴体に、ソフトボールサイズの鉄球の頭、直径二センチの鉄棒の四肢、その先端に釘の指が付いた、棒人間だ。桜の花弁や木の皮でカモフラージュを施した、極シンプルな鉄の案山子。
アクターがダンジョンクリエイトした《鉄製人形》。名はiCB。
レベル450の隠密型モンスター。『桜ダンジョン』に出現するモブモンスターである。
それが、足音も立てず、突如アクターの眼前に出現した。
一体ではない。
隠密特化型であるiCBは、舞い散る桜の花弁に隠れ、そこかしこに出現している。スキル“隠密”を解除して尚、外装に施された桜の迷彩が、目を凝らしても姿を捉えさせないのだ。
立方体の飛ばした電波により、アクターの周囲に集まったiCBの数は凡そ三十体。それだけの数が居ながら、目視可能なiCBは五体もいない。
音も無く、身動ぎも無く、ただ集まったiCB達は、ただただアクターを見詰め続ける。目などどこにも在りはしないが。
アクターもまた、目前のiCBを眺め続ける。
サクラが傍にいなければ、アクターはどこまでも無気力である。にも拘らず、アクターがサクラと行動を別にしているのは、凡そ十五分前のこと。
朝食を摂り終えた頃、セルハイドが言い出した。「そういえば、ダンジョンのNPCがどんな風に現実っぽくなったか確認した方がいいんじゃない?」
これにソラとマイが乗り気になり、アクターとサクラも否定する理由が無く、各々が専用区画を確認する流れになったのだ。
そう、各々が、一人一人が、別々に、自分の区画を。
もちろん、アクターとサクラは猛反発。それにセルハイドと双子が抗議をし、十分近い議論の末、別行動を取らされている。
「確認くらい五分で終わるから」と言うセルハイドの言葉と、「たまにはギルド長らしい行動をしろ」という双子の尤もな意見に、アクターが渋々折れたのだ。
サクラは最後の最後、専用区画に転移する瞬間まで嫌がっていたが。
詰まる所、アクターとサクラは別行動を始めてまだ五分も経っていないのだ。五分どころか、三分経っているかも怪しい。
が、アクターはサクラと離れて既に一年近く経った気分でいる。正に一日千秋の思いである。一日の三百分の一も経っていないのだが。
iCBを眺めていたアクターは軈て溜め息を一つ吐き、ゆっくりと立ち上がった。
「さて………」と呟く。そして。
iCBの首をへし折り、離れた木の陰に隠れている別のiCBに全力で投擲した。
当然、二体とも即死である。
一拍置いて、二つ分のiCBの頭部が大爆発を起こした。
爆風に煽られ、他のiCBが宙を舞うほどだ。
桜の花弁を吹き飛ばす桜色の爆発が収まる頃、アクターは警戒心を露に周囲を見回した。
『ゲームが現実になった』という情報がある。真偽や表現の問題は別として、ゲーム内の様々な点がある日現実味を帯びたからだ。
その一つに『NPCが本物っぽくなった』というものもある。
NPC。ノンプレイヤーキャラクター。
ここにいるiCBも、NPCの一種だ。つまり、iCBが本物っぽくなっている、らしい。
リアルの世界に存在しない生物の本物らしさというのも妙な表現ではあるが、要は自立した思考回路があるか。又は無いか。
その自立した思考回路が有ったとして、今のアクターの行動は間違い無く敵対行動である。ならば、自身の命を守る為、アクターに牙を剥くのでは?という疑問がある。
本物っぽくなったとして、自らの命に危機が迫ったとして、ギルドの長に歯向かう可能性があるのか。
今回、アクターが自身の専用区画に訪れた理由はそこにある。
結果は無害。
二体の仲間が前触れ無く殺害されても、他のiCBは襲って来ない。逃げもしない。攻撃しても、敵とみなされなかった。
試しに近くのiCBの頭を掴んでみるが、身動ぎ一つ無くアクターを見詰めている。目などどこにも在りはしないが。
問題無し。
ということで。
「サックラ〜ッ」
ハートや音符の幻視や幻聴が表れそうなほどの満開の笑みを浮かべ、iCBの頭を握り潰した。手の中で爆発したが、『同ギルドのプレイヤーを傷付けることはない』というダンジョンの設定が働いているのか、衝撃すら感じなかった。
「今逢いに行きます」
足元のアンテナを踏み潰した後、アクターは『桜ダンジョン』から消えた。
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『オウゲイ』内部、居住区。その談話室。
敷かれたふかふかのカーペット、その上の大きな長方形の炬燵。その長い一辺に、三人の女が座っている。
一人は派手なミニ浴衣、一人は丈の長い白衣、一人は銀の鎧を着ている。
セルハイド、マイ、ソラの三人だ。
「どうだった?自分のクリエイトしたキャラが動く姿を見るのは?」
炬燵に突っ伏したセルハイドが、誰ともなく尋ねた。その口調は既に、NPCが自立行動をしていること前提である。
だが、談話室に居る誰も、その発言に異を唱えない。
「ちょっとイメージと違って残念でした………。あの子はもっと、こう……元気溌剌な感じで………。なんですか?あのウザい感じ」
溜め息を吐きながら、マイが溢す。
「私の所の子はよかったよ!なんかもう野獣やってます!って感じで!尻尾振りながら頭突きされてぶっ飛ばされたよ!」
拳を握り、興奮してソラが叫ぶ。
「あんたはどうだったの?」
セルハイドが一人掛けのソファーに座るフロウに尋ねると、フロウはゆっくりとセルハイドに顔を向けた。そして少し考える素振りを見せて、
「……………え?」
首を傾げた。端から話を聞いていなかったようだ。
「いや、だから、NPCがちゃんと動いてたよね?それをどう思った?」
「……………まぁ、別に」
「「会話にならないですね!」」
隣で叫ばれたせいでセルハイドが少し眉を寄せたが、双子の反応は尤もである。フロウは大抵いつもこんな感じだから、今更感のあるツッコミではあるが。
「ハンマーは?」
椅子に座って机に足を乗せていたハンマーが、少し間を空けて答えた。
「ふつー」
「こいつの方がダメだね!」「普通の意味知らないんですか!?」
「っていうか机に足を乗せるな!行儀が悪い!」「最悪です!最悪の意味は知ってますか!?」
ソラとマイが捲し立てるが、例によってハンマーはどこ吹く風。ガスマスクの下で欠伸をし、椅子を漕ぎ始めた。
「お姉様も何か言ってやって!」
「あの人の人格は更正すべきです!」
「二人もね、声大きいから直そうね」
「「はい!!」」
セルハイドは眉間を揉んで小さく唸る。返事が良いのは悪くないが、返事が大きいから意味が無い。双子は大概面倒だ。
「ハンマー、机から足を下ろせ」
「……………」
特に悩むでもなく、ハンマーの足が床に下りた。
それを見たソラとマイは、肩を小さく揺らして不敵な(と、本人達は思っている)笑みを浮かべた。
「そっちがその気なら私達も」
「取るべき態度を変えましょう」
「すなわち!」
「実力行使!」
ソラとマイが立ち上がり、炬燵を飛び越えてハンマーに襲い掛かる。その様子を楽しそうに見ていたセルハイドだが、二人の向こう側に、見てはならないものを見た。
ソラとマイの向こう側。そのソファーの上でサクラを抱いて座っていたアクターが、非常に不機嫌そうに、ソラとマイを睨む姿を。
「ちょっと……」
セルハイドが双子を押さえつけようと上体を起こした時には既に遅く、ソラとマイは床から出現した鉄の球体に捕らえられた。
「ちょっとアクター、あんまり酷いことは………」
「しませんよ」
言葉とは裏腹に、球体からは何やらキリキリキリキリ……と不安になる音が聞こえてくる。
「えっと、アクター……」
「大丈夫ですって」
十秒程度でその球体は消滅し、ソラとマイが宙に投げ出され、受け身も取らずに床に倒れた。十字架に磔にされ、猿轡を噛まされた状態で。
外傷は無く、意識もはっきりしている。だが、何故か二人は半泣きだ。中で何かがあったのか、これから起きるであろう惨劇に恐怖しているのかは、当人しか知り得ないが。
アクターが指を鳴らすと、二つの十字架は浮き上がり、近くの壁に二つ並んで貼り付いた。
「煩いですよ。サクラさんの声が聞こえないじゃないですか。迷惑だから静かにしましょうね」
十字架が軋むほど勢いよく双子が頷くと、アクターの興味は早くも失われたようで、再びサクラに向き直った。双子は放置である。
静寂の訪れた談話室に、バカップルの小さな話し声が小さく響く。
大半は愛の囁きで、それを好んで聞くメンバーでもないため、各々が好き勝手に動き始めた。しかし双子は放置され、聞きたくもないバカップルの「好き」という言葉を聞かされ続けている。
「あー、そうそう」
十指に嵌めた二十近い数の指輪を磨きながら、セルハイドが顔を上げた。
「ダンジョンにいるNPCって、敵じゃなかったよね?」
割りと重要な案件なのだが、誰からも返答は無い。それもそのはず。
ハンマーは椅子に座って眠っているし、フロウはいつの間にか談話室から居なくなっている。ソラとマイ、アクターとサクラは言わずもがな。
返答は無いが、先程までの話の様子なら反論も出ないだろう。
「…………それと、何?何か他に言っておきたいことがあった気がする………忘れた。もういいや」
どうせ聞いている者もいないのだ。
首に掛けていたヘッドホンを耳に当て、指輪の次はネックレスを磨き始めた。ゲームの仕様的に、装飾品を磨く必要は全くないのだが。因みに、ヘッドホンから音楽が流れているわけでもない。只の耳栓代わりだ。
耳栓をしなければならない理由は、もちろんソファーに座った二人にある。
クスクスと笑いながら顔を寄せ合うアクターとサクラの声を、ソラとマイは耳も塞げず聞かされ続けた。悲鳴を上げたいくらいだが、今騒いだら何をされるかわからない。結果、目を閉じて必死に耐え続けることになる。
ソラとマイが解放されたのは、凡そ二時間後のことである。