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新歓コンパの夜

 シュワって、あの手話? 

 NHKとかでニュース流してるとき、画面のはじっこでオバサンがやってるやつ?

 ってことは、さっきから皆がやってる指揮みたいな、手旗信号みたいなこの動きも、全部手話ってこと?

 ふいにマトリョーシカが振り向いた。のび太君がかけてそうなまん丸めがねの奥から、つぶらな瞳がこっちを見ている。森の中で遭遇した野生の小鹿のような、ふしぎに澄んだ瞳だった。

 マトリョーシカがほわんと笑う。

「君も一年生?」

「しゃべれるのかよ!」

 おもわず光速でツッコんでしまった。なんだったんだ今の流れは。

 ……わっけわかんねぇ。

 不信感もあらわに眉間にシワを寄せるマコトを気にする風でもなく、マトリョーシカは焼きたてのパンみたいにふっくらと丸い顔でニコニコしている。

「僕、竹本(たけもと)(なお)。一年生だよ」

 声のスピードはゆっくりしてるのに、両手は複雑な形を絶え間なく変えながら動く。なんとなく両手を目で追いながら頷く。

「それ……手話? 竹本って前からやってんのか?」

 尋ねながら、自分は反対に両手をポケットにしまった。マトリョーシカが口を開くより先に、

「こいつのことはポコちゃんでいーから」

 アネサンが口を出す。

「アネサンたら」

 静香の咎めるような口調を気にも留めず、アネサンはイケメンを振り返った。

「だろ? 功」

 ポコちゃんと呼ばれたマトリョーシカはため息交じりに言った。

「兄さん、そのあだ名大学ではよしてって言ったのに」

 マコトはおもわずイケメンを見た。マコトと目が合うと、イケメンこと功は頷いた。

「俺の弟なんだ」

 弟、と言いながら五本の指のうち中指だけを立ててにっこり笑った。アメリカ人だったらファック・ユーとか言って殴りあいになる例のポーズだ。ポーズと言葉がちぐはぐなのもさることながら、言葉の内容におもわず大声を出した。

「おとーと?」

 妊娠八ヶ月という感じのポコちゃんの腹に目をやる。マジどんなDNAだ。兄貴の贅肉弟がぜんぶ吸収したのか。

「ポコッとしたほっぺや腹がかわいいだろ。俺の友だちや後輩も皆こいつをポコちゃんて呼ぶんだ」

 功はうれしそうに言う。いやそれいじめられてたんじゃねぇの、とは言えない。ポコちゃんは観念したように黙っている。

「かわいいあだ名よね。私はすてきだと思う」

 静香がフォローするように言った。美人なだけじゃなくて、天使のような優しさも兼ね備えてる。マコトはウットリした。

 静香の言葉に気を取り直したのか、ポコちゃんはマコトを見ると

「僕は子どものときから手話を習ってたんだ。君は、手話はじめて?」

 黙って頷く。初めてもなにも、まともに手話を見たことだってなかった。

「君の名前は?」

 ポコちゃんの丸いめがねが、ネオンを受けて光る。マコトが口を開きかけたとき、

「やべ、黒田たち先に店行ってんだって」

 手に持っていた携帯を見ながら、アネサンが話に割って入った。

「ほらおまえら店行くぞっ」

 言うが早いか人ごみをかき分けて走り始めた。ぼうっとしてるマコトに、遅れんなよと渇を飛ばす。わけがわからない内に走り出しながら、隣のポコちゃんに聞いた。

「なぁ、一年生って俺らだけ?」

「いや。……あと、ひとり、いるよ」

 ポコちゃんは荒い息の間で答えた。運動は苦手のようだ。店に着く前に、真っ赤な顔で全力疾走しているマトリョーシカが倒れはしないか、本気で不安になった。



 

 飲み物、おつまみ関係なく全品二五〇円。金がない学生にやさしいチェーン店の居酒屋が新歓の会場だった。

 大人数を見こんでだろう、通された細長い座敷の席には、角のすみっこに二人の女の子が文字通り肩寄せあって座っていた。二人とも背を丸めて両腕を組み、うち一人は苛立ったように眉を寄せている。

 アネサンはズカズカと女の子たちの前まで歩いていくと、「よっ」と片手を上げた。

「おまえら早いじゃん」

「あなたたちが遅いんです」

 女の子のうち、めがねをかけた黒髪の子がアネサンを見上げて言った。

 マコトはとっさにコケシだ、とおもった。田舎のばあちゃんちの玄関にこの女の子そっくりのコケシがドンと居座っていた。ボーリングのピンの代わりにして遊んだら、母親にめちゃくちゃ怒られたっけ。

 ダウン男は手元の黒い腕時計(教室にかかってる丸い時計をそのまま腕にはめたような、実用的なオシャレ感ゼロの一品)に目を落とし、

「彼女たちの主張が正しいですな」

 と冷静に言った。

 アネサンはコケシ少女に向かって笑いながら、

「ごめんごめん。ちょっと話が盛り上がってよ」

「店で話せばいいじゃないですか。そのための新歓でしょう」

 コケシ少女は険のある声で言うと、アネサンの後ろにいるマコトに視線をずらした。そのまま上から下まで視線が這うように一往復。マコトは面接官を目の前にした受験生のように、体がこわばるのを感じた。

 コケシ少女がなにか言う前に、功が和やかな声で割って入る。

「とりあえず適当に座るか。これ飲み放題? もう始まっちゃってんの」

 コケシ少女の隣の女の子が首を振る。

「マダです。黒田サンがコショウしてくれマシた」

 独特なイントネーションだった。しかもところどころ早口。 

「ヨウさん、コショウじゃなくて交渉」

 黒田と呼ばれたコケシ少女が訂正する。アネサンはその黒田の向かいに座ると、

「やるじゃん、さすがだなーおまえ」

「べつに」

 黒田はぶすっとした表情のまま、

「会計係として、部費を大切に使いたかっただけです」

 アネサンは機嫌が良さそうに笑うと、メニューに手をのばした。

「オラ、新入生飲め! 飲み代は黒田が払ってくれっからよ。ただしタクシー代は出さねぇぞ」

「部費で支払うだけです。それと電車がある内に帰りますから」

 黒田がすかさず言った。

 その後の二人のやりとりは、もうマコトの耳に届いてない。静香が話しかけてきたからだ。あの鈴をおもわせる声で、

「座ろうか」

 と言われ、首をブンブンと立てに振る。静香は端を陣取るアネサンの隣に腰を下ろし、その隣にマコトも座った。なぜかポコちゃんもマコトの反対隣に滑りこむ。マコトの正面には功が座った。

 やべぇ、俺ちょっとドキドキしてる。

 おしぼりで乾布摩擦なみに手をゴシゴシと拭きながら、なに話そうなに話そうと自分の会話の引き出しを心の中で猛然とひっくり返す。

 静香はゆったりとメニューを眺めている。反対隣からポコちゃんが何飲む? ビール飲める? と聞いてくるのを無視して、

「あの静香さん!」

 静香が顔を上げる。柔らかく光る目がマコトを見つめている。居酒屋の安っぽいライトに照らされた静香の唇のグロスがテラテラと輝いている。

 きょう寒いですね、休みの日ってなにしてんですか? 大学っておもしろいっすか? いやいやそんなことより、どんな男がタイプなんスか? ぶっちゃけ彼氏いるんすか? 会話がグルグルと頭の中を回る。

「あの、えっと」

「ご注文お決まりですか~?」

 口を開きかけたと同時に、マコトの後ろから店員が注文を取りにきた。店員に向かって、部員たちが好き勝手にビールだチューハイだお湯割りだ枝豆だと言う。ポコちゃんがマコトにメニューを見せるので、ガックリと肩を落として生、と頼んだ。

 騒音に囲まれながら、功はパッパと両手を動かしてアネサンを見る。さっきのポコちゃんのように、口パクだ。そんなに口開くなら声も出せばいいのに、と言いたくなるくらい口を大きく開ける。目も見開いたり眉間にぎゅっとシワを寄せたり、舞台の俳優のようにクルクルと表情を変える。注文を取っている店員が無表情に横目で功を見た。

 アネサンが「そうか」と相槌を打つ。ポコちゃんも重ねるように両手をパシパシ動かす。やっぱりやたら目を見開いたり、のどの奥まで見えるくらい大きく口を開いたり。見ているだけでなんだか疲れるやり取りだ。

 だけどそうおもってるのは自分だけらしい。他の皆はメニューから顔を上げて、なんでもないようにうんうんと頷いている。マコトはなんとなく手持ち無沙汰になり、挿してあったメニューを開くと太い毛筆で「今月のオススメ!」と書かれた料理を眺めた。

 

 店員は注文を取ってから一分と置かず、お待たせしましたぁ、と両手一杯にサワーや空のグラスを持ってきた。ビールのピッチャーがドンとテーブルに並ぶ。各自に飲み物がいきわたると、アネサンがおもむろに立ち上がった。片手には髪の色によく似た、黄金色のビールの大ジョッキ。

「はいちゅーもく。これより、アシオト新歓をはじめまーす。今年の新入生は今のとこ三人だけど」

 いや、まだ入るって決めてねぇから。マコトは心の中で反論した。

 静香がいるところなら、野球でもサッカーでもカブトガニ研究所でもドンと来いと思っていたけど、手話は想定外だ。バタバタと両手を広げて、オーバーとも取れるくらい驚いたり笑ったりしあう面々のなかで、マコトは落ちつかなげに片手で片腕を握った。

 ふと気づく。

 そういえば、さっきポコちゃんが一年生はあと一人いるって言ってた。ここには来ないんだろうか?

 アネサンは引き続き片手を忙しなく動かしながら喋っている。

「もちょっと一年が入ってほしいので、引き続き静香と功、ナンパよろしく!」

「アネサン、めがね男子枠で、我輩もぜひお手伝いを」

「静香と功、よろしく!」

 ダウン男以外から笑いが起こる。ちなみにこのダウン男、席に座ってもダウンジャケットを着ていた。まさかダウンを脱いだら裸とかじゃないよな、とひそかに訝る。

 静香が笑いながら、右手をくいっとひねった。キャバクラで客がマスターに「女の子、チェンジね」って言う時に使うようなポーズ。あれも手話なのかな。なんつってんだろ。

 マコトがテーブルの下で小さくマネをすると、隣のポコちゃんが

「『ちがう』っていう意味だよ。ナンパじゃないって言いたいんだよ」

 と教えてくれた。自分の立てた親指とひとさし指を見つめる。くいっと手首を返す。

「ふーん」

 すべての会話を二本の手で表現する手話。モールス信号並みに複雑そうだ。モールス信号知らないけど。

「そんじゃ、このまま軽く自己紹介な。あたしは三年でアシオトのブチョー。アネサンで通ってるから、おまえらもそう呼べよ」

 アネサンがマコトとポコちゃんを見て言う。皆の視線が自分に集まるのを感じながら、

「あの……なんでアネサンなんすか?」

 尋ねると、なぜか功が噴き出した。テーブルに両肘を着くと身を乗り出して、

「いい質問だ」

 言うなり、メガホンのように片手を口の脇に添えてアネサンを見た。

「なんでですかー?」

 アネサンはにやりと笑って、腰に手をあてた。

「このサークルの恒例行事で、ゴールデンウィーク明けに親睦会やるんだよ。そこで一年は毎年出し物をしなくちゃいけねんだ」

 アネサンは自分を指さし、

「あたしが当時ピチピチの新入生だったとき、功と組んで『極道の妻たち』コントやってよ」

 功がうんうんと頷く。

「極妻がハマリまくってたんだよなー、アネサン」

 それ以来、一年生にして上級生からアネサンと呼ばれるようになったという。

 たしかに、黙っていればバービー人形のように美しいが、口を開いたらドラ声だしギャルというよりヤンキーに近い。さぞかし黒い着物が似合っただろう、と実物を見てないマコトも妙に納得した。

「くっだらない」

 サワーに口をつけながら、黒田が吐き捨てるように言う。アネサンはチラッと黒田を見て、

「そんなこと言うなよ、わざわざ美容院で髪セットしてったんだぜ。おまえだって去年の」

「言わないでください!」

「サザエVSちびまる子は秀逸だったって評判で」

「だから言うなって!」

 アネサンはニヤニヤしながら黒田から視線をずらし、マコトとポコちゃんを見る。

「今年はおまえらの番だからな。期待してるぜぇ」

 聞こえてないふりで、マコトは目を伏せビールをすすった。

「あたしが部長になったからには、今年のアシオトは去年と全然ちがうサークルにするからな」

 アネサンは両手を動かしながら、よく通る声で言う。

「おまえら、覚悟しろよ」

 猫のような眼がギロリと光り、一人一人をゆっくりと見ていく。なるほど、たしかに「姐さん」だ。マコトはおもわず体を後ろに反らしていた。

「バカバカしい」

 黒田は低く呟いて肩をすくめた。

「それで、こいつが副部長(ふくぶ)の功」

 アネサンはちょうど店員からサラダの大皿を受け取っていた功を指さした。功は片手でサラダを人数分トングで分けながら、反対の手をパッパと動かして手話をしながら、

「法学部三年の功です、よろしく。はい、皆に回して」

 サラダを分けた皿をポコちゃんに渡す。

「さっきも言ったけど、こいつの兄貴です」

 にこにこ微笑みながら、またしても例の中指だけ立てる「ファック・ユー」ポーズをした。

 とまどいが顔に出たんだろう、功はマコトを見ると

「これ、『兄弟』って手話なんだ。中指立てて、上にあげると兄。下に下げると弟って意味。街中でやると驚かれるんだけどな」

 笑顔で中指を突き立てる功。マコトはおそるおそるマネてみた。うっかり外人にやったらぶっ殺されるかもしれない。手話って無責任だ。

 オホン、と大きな咳払いを聞いて顔を向ける。黒田だった。

「それで、私が会計の黒田。経済学部二年です。あなた何学部なの?」

 めがねの奥から値踏みするような視線でマコトを見る。マコトは勢いに圧されて、

「あ、けいざいがくぶ、です」

「あら一緒ね。ゼミはもう決まった?」

「いや、なんも」

「何がしたくてこの大学に入ったの?」

「えっと……」

 淀みない質問にまごつく。何がしたくて? そんなのわからない。目的なんてない。

 ただ新しいことがしたかった。新しいところに行きたかった。

 今まで持っていたものをぶち壊して、ゼロになりたかった。

「はいそこまでー」

 パン、とアネサンが手を叩く。

「おまえその尋問口調どうにかしろよ。そんなんだからモテねぇんだぞ」

「あっなたに言われたくありません! 私がモテるかどうかなんて、今関係ないでしょ」

 黒田が真っ赤になって反論する。

「ほら、黒田ちゃんタコワサ来たよ。好きでしょ」

 功がにこにこ微笑みながら小鉢を渡す。タコワサなんかじゃごまかされませんよ、とブツブツ言いながらも黒田はワリ箸を割った。

 功はさっきから、皆への気配りがうまい。やっぱり兄貴だからだろうか。

 アネサンはその様子をニヤニヤ笑って見つつ、

「で、この子が(ヨウ)ちゃん」

 黒田の隣、一番端に座る女の子が体をわずかに前のめりにする。

「ども、ヨウです。ブンガク部二年デス」

 マコトは軽く頭を下げた。

「ヨウさんは台湾からの留学生なのだ」

 ダウン男が割りこむ。

「日本文学に深い造詣を示してくれていて、そこいらの日本人よりよほど話がわかる。ヨウさん、太宰はもう読んだのかい?」

「はい。『斜陽』スバラシかたです」

 ヨウさんはこぶしをつくった右手を鼻の上あたりにかざすと、そこから弧を描くように拳を上へとあげた。これも手話なんだろうか。太宰と聞くと教科書で習った『走れメロス』しか出てこないマコトには、手話もヨウの語る太宰のすばらしさもチンプンカンプンだった。

 ダウン男はやたらキレのある動きで振り返ると、

「我輩は文学部二年の秋葉(あきは)という者で」

「アキバでいいぞ」

 アネサンがビールを飲みながら言った。

「アネサン、我輩はアキバではなくてアキハですと何度も」

「こいつなんかオタクっぽいだろ。ま、オタクなんだけどよ」

 ダウン男あらためアキバはアネサンの言葉に「むきーっ」と叫んだ(マコトは本当に「むきーっ」という擬音を叫ぶ人をはじめて見た)。


「言っておきますが、我輩は美少女アニメにも美少女フィギュアにもギャルゲーにも興味ありませんぞ! 崇拝しているのは数多の文豪が生み出した日本文学の素晴らしき美しさであり、その文学の中でたおやかに輝くヒロインたちの清廉潔白な美と儚さが」

「あーうるせぇ」

「アキバ、タコワサ食うか?」

 功がタコワサの小鉢をアキバの前に置き、黒田が「私のタコワサ取らないでください」と文句を言う。

「あのアキバさん」

「アキハだ。……なんだね新人君」

 マコトはおもいきって、先ほどから気になっていることを口にしてみた。

「なんで、それ脱がないんですか?」

 黒いダウンジャケットを見る。まさかほんとに裸だったらどうしよう。

「アキバさん、トテモ寒がりさんデス」

 ヨウが口を挟む。

「我輩は敏感肌なのだ」

「いや関係ないだろ」

 功がツッコむ。アネさんがニヤッと笑い、

「こう見えてこいつ南国育ちでよ。去年、上京したばっかりだったからもっとヒドかったんだぜ」

「六月にホッカイロ握りしめてたな」

 功が思い出して笑う。それはすごい。マコトは目を見張った。アキバはまじめな顔で

「温暖化は進めばいいと思うのだ」

 と言った。

「やめてください」

 黒田が顔をしかめる。

 マコトは皆のやり取りを、両手を後ろについて体重を預けながら、ぼうっと眺めていた。

 なんか……へんな人たちだなぁ。


「それで私が」  

 静香が自分を指さして言った。

「法学部二年の静香です。改めて、よろしくお願いします」

 まずマコトに、次いでポコちゃんに向かってこぶしを作った右手を鼻の前にあてると、そのまま手を開いて拝むようなポーズをした。これも手話なんだろう。

「静香さんはどうして手話サークルに入ろうとおもったんですか?」

 ほかの部員のときは質問らしい質問もしてないのに、静香にだけ聞くのが我ながらゲンキンだった。

 静香はマコトを見て、右手の親指とひとさし指を伸ばしてVの形をつくった。また「チェンジ」か? とおもっていると、そのVの字をあごにあてた。

「好きだから」

 白い二本の指が胸元にむかって落ちていき、やがて指同士がくっつく。

 好きだから。好きだから。

 耳元で言葉がこだまする。静香がこっちを見ている。

「俺も好きです!」

 おもわず叫んでいた。座敷いっぱいに響きわたる声。一瞬、完全な静寂になった。

 

 あ、れ。ヤッちゃった?

 背中の内側から汗がブワッとふきだす感覚が襲ってきたとき、おもいきり肩をつかまれた。びくっとして顔を上げると、

「そうか、そんなに手話が好きかマコト」

 功が満面の笑顔でマコトを見ていた。

「え……」

 なにこの展開。なんですでに呼び捨て。

 ちがうちがうちがう! 俺が好きなのは手話じゃなくて――。

「マコト君」

 鈴の音がシャランと鳴った。静香がマコトを見ている。とてもうれしそうに。

 マコト君て言った今。静香さんが俺のこと。マコト君。マコト君。マコト君ってこんなに良い言葉だったのか。なんか感動するぜ。名付けてくれた父ちゃん母ちゃんありがとう。

 それじゃ、入部してくれるの? と聞かれて、

「俺……入りまぁす!」

 気がつけば叫んでいた。今度は静寂にならず、「おぉっ」とどよめく歓声と拍手がマコトを包んだ。

「よく言った!」「おまえ男だぜ!」口々に褒められ頭をかき回され、なんだか自分がすごく立派なことを言った気がした。黒人開放を謳ったキング牧師のように。去年の夏、「アタシのパンツ見たでしょ」と言いがかりをつけてきた推定八十キロの女子にむかって「おまえのパンツより猫の交尾見たほうが、まだ興奮するわ!」と言い放った友人のように。


 そこから先はよく覚えてない。いつの間にかかけ声に後押しされてグラス一杯のビールを飲み干していた。何度かそんなことがくり返され、もうピッチャーから直で飲んじゃえよ、と笑顔で言ったのは気配りがうまいはずの功だったような。グラスを注ぐ手間がカワイソウだとかグラスを洗う店員がカワイソウだとか、そんな功なりの気遣いだったんだろうか。


 脳みそはすっかりトロトロに溶け、最後はトドのようにぐったりと座敷に倒れていた。

 あっちー……。ねっみー。

 すでに目が開かない。すみっこで潰れているマコトに頓着せず、皆好きに飲んでいるようだ。ときどき笑い声が聞こえる。飲ませるだけ飲ませたら放置か、とおもったけれど文句を言う気力もない。唇の間からうめき声がもれる。

「水飲む?」

 薄く目をひらく。静香じゃないかと期待した。しかし自分を見下ろしていたのは、

「コケシ」

「なんですって?」

 ピクン、と黒田の眉間にシワが寄る。眉の間にツマヨウジくらいなら挟めそう。そんなことをぼんやりおもいながら、

「意外とやさしーッスね、黒田サン」

「……一言余計なのよ」

 のろのろと起き上がって水を受け取り口をつける。ひといきに半分ほど飲み干して、グラスを頬にくっつける。グラスの冷たさが、おたふく風邪のように熱くなっている頬に心地良い。

 うっとりと目を閉じたとき、騒いでいた連中から歓声が上がった。

「アオ!」

 ポコちゃんががうれしそうに立ち上がる。

 見ると、一人の男が座敷の入り口に立っていた。黒髪の背の高い男。皆は知り合いのようで、男に向かって手を振っている。アネサンが膝立ちになって男に手話でなにか伝えてる。男は着ていたジャケットを脱ぎながら浅く頷く。アネサンは手話をしながら、マコトを指さした。男がつられるようにマコトを見る。

「あ」

 おもわず声が出た。

 数日前、宝仙館の廊下で会った男だった。

 アネサンがマコトにむかって手招きした。

「こっち来い。同じ学年の奴紹介してやるよ」

 体中熱くて、正直立ち上がるのもめんどくさかったけど、「べつにいいッス」とも言えず渋々立ち上がる。

 立ち上がり数歩でよろけた。腰から下に力が入らない。自分の足と足が絡まり合う。

「……っとぉ!」

 やべ、転ぶ。そうおもった瞬間。

 ガシッ。

 脇の下からすくい上げるように腕を差し入れられ、どうにか体勢を保てた。シャッフルされた頭が痛い。

男がマコトを片腕で掴んだまま見下ろしていた。

「あ……すんません」

 男から離れ、首の後ろをガシガシとかく。マコトの体質で、酒を飲んで体温が上がるといつも肌がかゆくなった。

 男とマコトの間に立つアネサンが言う。

「マコト、こいつ新入部員な」

 ポコちゃんも立ち上がり会話に入ってくる。

「アオっていうんだ、僕らと同じ一年生だよ」

 マコトはカメが首をすぼめるように浅く頷き、

「どうも……マコトです」

 首の後ろをかいていた手をそのまま顎に滑らせ、意味なくなでる。アオは黙ったままだ。

なにも言わず、ただじっとマコトを見ている。

 なんだこいつ。

 マコトはぐっと眉を寄せた。そういえば、このあいだも黙ってじっと見られていた。

 なんだか不気味な奴だな。そうおもったとき、アオが口を開いた。黒目がわずかに揺れた。

 アオはポコちゃんを見ると、両手を素早く動かした。両手が(まじな)いのように特殊な形を作り、つぎつぎと変わっていく。口を開いたものの、声は出ない。またこのパターンか。

 マコトは再び座敷にどすんと尻を着き、手近なピッチャーに手を伸ばした。わからない言葉のやり取りにうんざりしてきていた。

 静香を目で探すと、少し離れたところで黒田とヨウの三人でキャアキャアと笑い声をたてている。

「静香サン、声大きいデス」

 ヨウがなぜか赤い顔で言う。

「いいじゃない、ねぇ?」

 静香が笑い、

「誰もヨウさんの話聞いてないから大丈夫よ。で、その後どうしたのよ」

 黒田が頬を染めたヨウに詰め寄る。

 ……女子会の雰囲気が出ているあの中に入っていくことは不可能だ。反対では、アキバが功に向かって最近感銘を受けた文豪について滔々と語っている。功はニコニコしながら「アキバ、このイカそうめん絶品だぞ。取ってやるよ」と世話を焼く。二人ともお互いの話に相槌を打たないまま続けられている会話。ガールズトークよりはマシだけど、率先して混ざりたいかんじでもない。

 マコトはふたたび首の後ろをかいた。もう帰ろっかなぁ。

 トントンと肩を叩かれ、振り向くとアオがこっちを見下ろしていた。

 ぼんやりと見上げると、アオの右手がすばやく何かを象る。ポコちゃんが隣でチラチラとマコトを見る。ポコちゃんも手を動かしはじめる。口を開くけど、やっぱり口パク。と、アネサンも右手のひとさし指を左右に動かし――。

「あの」

 おもったよりも大きな声が出た。

「俺シュワとか無理なんで。全然わかんないから、ふつーにしゃべってくんないスか」

 顔は笑っているけど、声に棘がある、と自分でもわかっていた。皆それぞれの話をやめてこっちを見ている。

 おいおいやめとけ、静香さんも見てるぞ。心の端で思うそばから、だからなんだよ、と囁く自分がいる。

 ちょこちょこはさまれる声のない会話。マコトにはわからない言葉。入部したらずっとこうなんだろうか? あーだめだ。

 めんどくさい。

「あの、俺やっぱ」

 入部やめます、と言おうとしたのと同じタイミングで。

「アオは聾者(ろうしゃ)なんだ」

 ポコちゃんが言った。

「ロウシャ?」

 眉をひそめる。はじめて聞く言葉だった。声があってもなくても、なにを言ってるかわからない。ここの人たちは皆、自分の高校時代にはまるでいなかったタイプの人たちだ。異文化という単語がマコトの頭をちらつく。

 アネサンがサラッと言った。

「耳が聞こえない人のことだよ」

「え」

 目を見張る。ドキッと心臓が跳ねた感覚がした。

 反射的にアオを見る。アオはなんの感情もない目で、じっとマコトを見ている。

 耳が聞こえない? 目の前の、この男が?

 周りに目を向けると、自分と同じように驚いた顔をしている人はだれもいなかった。知らなかったのはマコトだけだ。おもわず周りの視線から逃れるように下を向いた。

 しょうがないじゃないか、知らなかったんだから。だれにとも知れない言い訳を心の中で呟く。

 アオは提げていたショルダーバッグから両手のサイズの、白い電子板のようなものを取り出した。マコトが小さいとき持っていた、タッチペンでラクガキを書いては消せるおもちゃによく似ていた。

 アオはその電子板に向かって、付属のタッチペンでなにか書いた。シンと静まり返った座敷に、タッチペンが電子板を叩く音だけが響く。やがてアオはマコトに向かって電子板を見せた。 

 電子板に書かれた文字を見て、目が驚きに見開かれる。


『おまえ泉ヶ丘の新川だろ』

 電子板にはそう書かれていた。

「…………え?」

 泉ヶ丘。それはマコトがこの間まで通っていた高校の名前だ。問うように目の前の男を見上げる。

 なんで俺のこと知ってるんだ? 男はサッと電子板を自分に向けると、再びなにか書いた。

『おととしのジャパン・ダンス・アワード』

 ドクン。

 鼓動がひとつ鳴った。

 酔いで上気していた頬から血の引く音が聞こえる。同時に、いくつもの記憶の波がぶつかりあって濁流のように押し寄せてきた。

 傷だらけの床。小さなロッカールーム。強いスポットライト。からだの内側から響く音楽。歓声。それから、

「ジャパン・ダンス・アワードだって」

 大声に顔を上げる。功だった。ぼうっとしているマコトにかまわず、功はアオに素早く手話でなにか尋ねた。すぐに興奮した様子で振り返ると、

「マコト、おまえすっげえじゃん! どうしてもっと早く言ってくれなかったんだよ」

 子どものようなキラキラした目で振り返った。

 気がつけば、全員がこちらを見ていた。居心地の悪さを感じ、半歩後ずさる。

「ねぇちょっと、ジャパン・ダンス・アワードってなんなのよ」

 黒田が焦れたように尋ねると、功が興奮した口調で説明した。

「国内で一番でかいストリートダンスの大会だよ。マコトあれに出てたんだな」

 言いながら、功はまじまじとマコトを見た。今はじめてマコトという人間に気がついたとでもいうように。

 マコトはマコトで、意外な気もちで副部長と、その隣に立つアオを見ていた。

 ジャパン・ダンス・アワード。

 大学生になってもその名前を聞くとはおもわなかった。それも、こんな場所で。

 たとえば、高校球児にとっての甲子園。吹奏楽部員にとっての普門館。陸上競技者にとっての箱根駅伝。なにかを専門的に追求している人にとって、それぞれ夢の舞台というのがある。

 ストリートダンスを踊るものにとってのそれは、毎年八月に行われるジャパン・ダンス・アワードを指した。


 下は小学生以下の部から、上は大学生・社会人部門まで幅広い年代のダンサーたちが一堂に会し、年代ごとにそれぞれ賞を競い合う。いま誰もが知ってる有名ダンスグループの振付師や、自分のブランドを確立してダンスバトルを開催してるダンサーも、過去にこのジャパン・ダンス・アワードに出場していた。

 ジャパン・ダンス・アワードは、ストリートダンサーたちにとって憧れの舞台であり、それぞれの夢をつかむための登竜門だった。


 そうは言っても、ストリートダンスはサッカーや野球に比べるとまだ日本ではマイナーだ。有名な大会とはいえ、黒田のように知らない人たちのほうが多いはず。

 この人たちはなぜ知ってるんだろう? マコトの考えを読んだように、ポコちゃんが言う。

「兄さんは高校時代、ダンスサークルだったんだよ」

 おもわず目を丸くする。功は照れたように片手で自分を指し、

「俺の学校は弱小部だったからな。ジャパン・ダンス・アワードなんてデカイ大会、遙か夢だったけどね」

 夢、と言いながら片手をこめかみにあてて、もくもくとした雲を象るようにこめかみのななめ上の空中に向かって手を動かす。かつて自分と同じように音楽に乗せて踊っていた人の手を、マコトはじっと見つめた。


「弱いとか強いとか、関係ないっすよ」

 無意識に呟く。

 

 ダンスに魅了され体を動かす人間の中に、弱者と強者は存在しない。

 人種差別が今より苛烈だった時代、虐げられていた黒人たちが集まって、なにか楽しいことをしたくて道端の中から生まれたダンス。それがストリートダンスだった。

 もちろん場所なんて選べないから、彼らはその辺の(ストリート)で踊るようになる。ベーコンの詰まっていた空き缶をためしに足元に置いてみる。一ドル札一枚でも入れてくれたら最高。入れてくれなくてもそれはそれで良し。だって俺ら楽しいから。

 そんな純粋な魂から生まれた踊りがストリートダンスだ。


「たしかにな」

 功が腕を組んで、言葉を噛みしめるように数回頷く。

「で、僕らは兄さんの影響でダンスの大会をよく見に行ってたんだ」

 ポコちゃんが言葉をつなぐ。自分とアオを交互に指さして、

「あ、僕ら幼なじみなんだ」

 アオを見て「ね」と言うようにニッコリ頷く。それまで無表情だったアオに、この瞬間わずかに表情が和らいだ。

 ふーん、と頭の後ろに手をやりながら、なんの気なしに言う。

「でも、わかんの?」

「え?」

 ポコちゃんがキョトンとしたようにマコトを見返す。いや、だってさ。言いながら腕を下げてアオを指さす。

「聞こえないんだろ? こいつ。それで踊ってるとこ見ても楽しいの?」

 まずいことを言った、という自覚はなかった。

 ダンスに音楽は切り離せない。マコトも高校の時、図書館や情報科学室でこっそりパソコンからダンスの動画を見るときは、やむをえず音量を消して見ていた。けれど魅力の半分も伝わらない。ダンスはリズムに合わせて繰り出されてこそ生きる。

 そんな思いがあったから、意図せずして出てしまった言葉だった。けれど次の瞬間、自分の失敗に気づいた。

 アオはそれまでの無表情な顔を一変させ、ぐっと眉をひそめた。黒い目の奥に炎がゆらめくように、感情が沸き起こる。

 あ、やば。

 本能的におもったときには遅かった。


『きこえないとたのしめないのか』


 書くのがもどかしいと言わんばかりの、ひらがなで書きなぐられた文字は全部右上に上がっていた。功が宥めるようになにか手話で伝えても、アオの表情は険しいままだ。視界の端で、静香とヨウが心配そうに顔を見合わせるのが見える。

 え、どうしよ。っていうか、え、聞こえてんじゃん。なに、聞こえないのうそ? 

 焦っていると、アネサンが手近な箸で大皿に少しだけ残っているレタスや大根の細切りをつまみながら言った。

「じゃあおまえ、親睦会でやる芸決まったな」

「…………は?」

 シャクシャク、とレタスを噛みながら、

「芸はテメェを助けるって言うだろ」

「正確には芸は身を助くである」

 アキバが口をはさむ。アネサンは箸の先をマコトに向けて、

「おまえ、親睦会はダンス披露しろよ」

 そう言ってにやりと笑った。

 マコトがごくっと息を飲んで、「冗談じゃない」と言うのにかぶせるように、

「アオ(こいつ)が楽しいとおもうダンスやれるのか、証明してみろよ」

 なんでそんな話になるんだ。マコトは慌てて首を振った。

「俺、ほんとに」

 決めたんだ。

 大学では、新しいことをするって。

 もう踊らないって。 

 功が肩に乗せた手に力をこめた。

「楽しみだな、ジャパン・ダンス・アワードの踊り!」

 はればれとしたその顔が、間近で当てられた灯りのように目に眩しい。その後ろではアオが親の仇みたいな険しい顔でマコトを睨んでいる。

 どちらからも目をそらしたくて、片手で顔を覆った。

「マジかよ……」

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